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沖縄と歴史に関するkanoetatsuのブックマーク (12)

  • 琉球国王の肖像画「御後絵」とみられる絵画、米国で見つかり沖縄返還…「国宝に匹敵」

    【読売新聞】 沖縄県は15日、太平洋戦争末期の沖縄戦で行方不明となっていた文化財が米国で見つかり、およそ80年ぶりに県の元へ戻ったと発表した。現存しないと考えられていた琉球国王の肖像画「 御後絵 ( おごえ ) 」とみられる絵画6点

    琉球国王の肖像画「御後絵」とみられる絵画、米国で見つかり沖縄返還…「国宝に匹敵」
    kanoetatsu
    kanoetatsu 2024/03/16
    琉球王国でなく琉球国だろ。
  • 【ガマが泣いている】 帰ってきた万年筆 「これで戦争が終わった」 沖縄戦78年㊤

    親族が見守る中、遺骨収集で見つかった兄の形見の万年筆を受け取る小山富子さん=令和4年8月、鳥取県智頭町(浜田哲二さん撮影)沖縄戦の遺骨収集で見つかった日兵の遺品を、遺族のもとに届ける活動をしている人々がいる。青森県在住でジャーナリストの浜田哲二さん(60)、律子さん(58)夫土の若者たちだ。約20万人が亡くなった沖縄戦で、日兵や住民が潜んでいたガマと呼ばれる自然壕からは遺骨とともに大量の遺品が収集されているが、持ち主が分かることはほとんどない。沖縄戦の終結から6月23日で78年。遺骨収集の現場には、終わらない〝戦後〟があった。 大粒の涙「おかえりなさい。やっと戻ってきたのね」

    【ガマが泣いている】 帰ってきた万年筆 「これで戦争が終わった」 沖縄戦78年㊤
  • 【沖縄考】教科書にのせたい海軍艦長 那覇支局長・川瀬弘至

    ■■掲載えとき■■ 訪欧時の裕仁皇太子(昭和天皇=前列中央)と漢那憲和(前列左) =大正10年、御召艦「香取」艦上  (恵隆之介著『昭和天皇の艦長』<産経新聞出版>から) ■■キャプション■■【沖縄考 那覇支局長 川瀬弘至】訪欧時の裕仁皇太子(昭和天皇=前列中央)と漢那憲和(前列左) =大正10年、御召艦「香取」艦上 (恵隆之介著『昭和天皇の艦長』<産経新聞出版>から)沖縄出身の海軍軍人、漢那憲和(かんな・けんわ)のことを教えてくれたのは県議の花城大輔さん(51)である。 花城さんも自衛隊出身。保守の志が強く、お酒もうんと強くて、居酒屋で酔いつぶれるのはいつも筆者である。その日も県庁近くのお店でせんべろ(千円でお酒3杯、つまみ1品のコース。沖縄の居酒屋に多い)していて、沖縄出身で一番えらい人は誰か、という話題になった。 「カンナケンワ?」

    【沖縄考】教科書にのせたい海軍艦長 那覇支局長・川瀬弘至
  • 【沖縄考】亡き母に届いたお言葉 那覇支局長・川瀬弘至

    国立沖縄戦没者墓苑で供花し、沖縄県遺族連合会の照屋苗子前会長に声を掛けられる天皇、皇后両陛下=10月22日午後、沖縄県糸満市の平和祈念公園(萩原悠久人撮影)戦後77年、照屋苗子さん(86)が語る沖縄戦は、新聞で書くのがはばかられるほど、凄惨(せいさん)である。 × × × 米軍が迫る首里(現那覇市)を逃れたのは昭和20年4月、母と兄弟姉妹ら家族10人、南へ南へと夜道を歩き続けた。

    【沖縄考】亡き母に届いたお言葉 那覇支局長・川瀬弘至
  • 沖縄県誕生の立役者 「明治の元勲」に仕えた男

    松田道之は、郷土の先人の1人として鳥取県岩美町で顕彰されている(碑に刻まれている4人の一番右)今年米国から日へ返還50年を迎えた沖縄は、そのさらに約100年前の明治12(1879)年、日の沖縄県となった。江戸時代、日と清(中国)に両属した王国に対する「琉球処分」の結果だった。清の抵抗を受けながらも国策を実現させたのは維新政府の内務官僚だった松田道之。のちに東京府知事も務めた松田の没後140年企画展が出身地の鳥取市で開かれ、近代日の国づくりが関心を集めている。 鳥取市歴史博物館で開催されている「鳥取が生んだ名知事 松田道之」の会場軍と警官隊率い首里城へ大久保利通と伊藤博文-維新の志士で明治の建国を牽引(けんいん)した2人は、現在の大臣にあたる「内務卿」を相次いで務めた。松田はその2人を内務大丞(だいじょう)や大書記官として補佐した官僚で、「片腕」ともいえる存在。各地で発生した士族の反

    沖縄県誕生の立役者 「明治の元勲」に仕えた男
  • 本土復帰50年 中国は沖縄をどう考えてきたのか

    返還(土復帰)から半世紀が過ぎた沖縄を、日中関係史の中で素描してみようと思い立ったが、遙か昔の遣唐使・遣隋使の時代にまで遡る必要もないだろう。そこで差し当たって徳川幕藩体制の崩壊が目前に逼り、日が国際社会に向かって飛び出そうとしていた幕末辺りまで立ち戻ってみることにした。 徳川幕府一行が上海で見聞きしたもの 1862(文久2)年5月、徳川幕府は英国から買い入れた船を千歳丸(せんざいまる)と命名し、上海に派遣した。アヘン戦争によって対外開港され、空前の賑わいを見せる上海での交易の可能性を探るためであった。琉球藩が創設される10年前のことである。 幕府勘定方の根立助七郎を筆頭に全員で五十数人の一行の中には、高杉晋作(長州藩)、五代友厚(薩摩藩)、中牟田倉之助(佐賀藩)、納富介次郎(同)、名倉予何人(浜松藩)ら各藩の俊英も加わっていた。 名倉は千歳丸の上海行きを「寛永以前の朱章船」の復活であ

    本土復帰50年 中国は沖縄をどう考えてきたのか
  • 【基礎からわかる】なぜ沖縄に基地がある?

    【読売新聞】 沖縄に格的な軍事拠点ができたのは、太平洋戦争末期の1944年3月、日の陸軍第32軍が編成されてからだ。直後にサイパン、グアムなどの「絶対国防圏」を失い、前線基地として飛行場や 要塞 ( ようさい ) の建設が急がれ

    【基礎からわかる】なぜ沖縄に基地がある?
  • 尚本家 沖縄に寄せる思い ① 沖縄県民について~私の想い~

    皆さん、こんにちは。先日元旦号で初めて尚元王家宗家当主として、今まで胸に秘めていた想いをお話しさせて頂きました。 元旦号ではお伝えしきれなかった部分もあるかと思いまして、この機会にお伝えしなければならないと感じ、再び寄稿させて頂きました。 私が沖縄県民の方々をどう思っているのか気になさる方々も多いと思います。 私は沖縄県民の皆様をとても大切に思っております。私にとって、我が祖先の歴代王様方が護ってきた大切な琉球の民の末裔の皆様方ですので、大切に思っております。私の考えに対してや歴史観に対して異を唱えたい方もいらっしゃるかもしれません。私は私自身が体験した事実をお伝えしているだけで、正しい、正しくないと言う事を論議するつもりはございません。 元旦号で申し上げましたが、十人居れば十人十色それぞれの考え方があって当然です。その方々とも争うつもりもありません。 現在の沖縄には基地問題で奔走する方々

    尚本家 沖縄に寄せる思い ① 沖縄県民について~私の想い~
  • 【日曜に書く】論説委員・川瀬弘至 勝手に決めつけるな

    南走平家をご存じだろうか。源平合戦に敗れた平家の一部が海を越えて沖縄へと落ち延び、壇ノ浦の戦いの2年後、1187年に「舜天(しゅんてん)王統」を築いた―とする説である。 平家の渡海伝説舜天王統は沖縄で最初の王国とされる。ただし当に実在したのか定かではなく、信憑(しんぴょう)性の高い説とはいえない。 もっとも、平家が海を越えたというのは荒唐無稽な話でもなさそうだ。源平合戦が終わった頃から、沖縄の文化が飛躍的に進化したからである。 11世紀までの沖縄は貝塚時代で、竪穴式住居の集落が点在する人口数万の島だった。ところが12世紀前後から堅固なグスク(城)が次々につくられる。人々の生活も漁労・採集中心から農耕へと変わった。 社会生活が急変した理由は謎だが、源氏に追われる平家がいたならグスクも農耕も説明できよう。実際、沖縄には「平」のつく地名が不思議と多い。平家の落人が沖縄に土着したと考える識者は今

    【日曜に書く】論説委員・川瀬弘至 勝手に決めつけるな
    kanoetatsu
    kanoetatsu 2022/01/10
    「南走平家」についてと、中国の影ちらつく琉球「先住民族」論。
  • 琉球王家の現当主、沖縄復帰50年で初めて見解示す。八重山日報が歴史的独占手記

    今年5月15日で、沖縄県の日復帰から50年を迎えるが、沖縄県石垣市を拠点とする地元紙、八重山日報が1日、最後の琉球国王、尚泰の玄孫で、現当主の尚衛(まもる)氏の手記を掲載した。これまで尚家は日復帰について公の場で発言したことはない。旧王家当主の異例の発言は国内外で話題になりそうだ。 手記は「祖国復帰は県民自身が選び取った歴史です」とのタイトルで掲載。「『祖国復帰』の意味の捉え方は、きっと百人百様であると思います」としながら、「米軍統治下に置かれた沖縄では、日への復帰は県民の悲願であったことは紛れもない事実だと思います」「沖縄の先達の熱い情熱と不屈の精神、そして団結した活動があったからこそ、わずか27年という短い期間で実現できた」との見方を示した。 尚衛氏は近年、琉球王朝関連の行事ではメディアの取材に応じ、2019年に首里城が火災で消失した後にも東京新聞の取材に応じているが、政治性の強

    琉球王家の現当主、沖縄復帰50年で初めて見解示す。八重山日報が歴史的独占手記
  • 【沖縄が危ない!】史実が証明する「尖閣は日本領」 1939年には与那国島民の生活圏だったこと示す写真 「証拠で勝てないから力ずくで奪う」が中国の論理(1/2ページ)

    空を覆わんばかりに乱舞するセグロアジサシを、男性が杖(つえ)でたたき落としている写真がある。1939(昭和14)年5月28日、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の北小島で撮影された。尖閣諸島が貴重な生態系の宝庫であったことをうかがわせる一枚だ。 尖閣諸島には、戦前まで日人が居住した。無人島になった後も、戦後を含め学術調査団が何度も足を踏み入れた。至る所に日人の血と汗がしみ込み、日の濃厚な痕跡が残る。 中国は尖閣について、「古来、中国固有の領土だが、日が盗んだ」と根拠不明で品性下劣な主張を繰り返すが、真実は一つしかない。尖閣諸島の歴史を多くの国民が改めて確認し、国際社会への発信を強化すべきだ。 前述の写真は、当時の石垣島測候所に勤務し、農林省南西諸島資源調査団に同行した正木任(つとむ)さん(当時31)がアルバムに貼った数枚のうちの1枚だ。 調査団は、尖閣諸島・魚釣島で、クバの葉を採取するため与

    【沖縄が危ない!】史実が証明する「尖閣は日本領」 1939年には与那国島民の生活圏だったこと示す写真 「証拠で勝てないから力ずくで奪う」が中国の論理(1/2ページ)
  • 【沖縄考】自衛隊員、一番の「勲章」

    幹部教育を受ける現役自衛官時代の中原誠さん。沖縄への定住を決意した=平成7年「街と隔離された、柵の中だけの世界…」 元陸上自衛官の中原誠さん(69)は回顧する。昭和50年、福岡駐屯地から那覇駐屯地へ転勤したときの印象である。 47年の土復帰で沖縄に自衛隊が駐屯してから3年、革新勢力などの反米、反政府、反自衛隊活動が最も激しかった時期だ。駐屯地のゲート前には反対派が毎朝押しかけ、自衛官は制服で通勤することもできなかった。

    【沖縄考】自衛隊員、一番の「勲章」
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