まあ、誤解されるけど、私自身としてはネガコメ、別にいいじゃんなのだけど、まあ、本心を読みたいかたが勝手に読まれるので……。 それはさておき、なんとなく、ネガコメの陳腐さに、さすがに飽きてきたなという感じがする。気にするなとかじゃなくて、そこにウンコすんなよ、また、下痢便かよみたいな。 あと、陳腐さでいうと、若い女に言い寄られるのはまんざらでもないが(いやまんざらだが)、兄さんやおっさんにネガネガラブラブされてもなぁみたいな。 なんか、単純に、ネガコメーな人をサクサクフィルタしていいんじゃないかと思えてきた。 というか、ぶくまが改変したら、「私がフィルタしたブコメIDリスト」でも公開しようかな。 みんなに嫌われるブコメIDというのをWeb2.0で共有してもいいんじゃないかな。 システム的には、「finalventはこのブコメIDがきらい」を登録して、それをお気に入りにするとか。 あるいはそう
「最近批評はどうですか」みたいなことをいろんな立場の人から続けざまに尋ねられた。「ニュー評論家」なんて胡散くさい肩書きの人間にそんなこと訊くなよと思いながらそれなりに真面目に答えたのだが、背景に横たわっているのは例のアレのようだった。そう、ウェブ2・0。昨年のベストセラーにしてウェブ2・0の喧伝媒体となった梅田望夫『ウェブ進化論』は、議論の核に「集合知」というものを置いていた。ブログなどの普及により誰もが情報を発信できるようになって、無数の意見が集約・統合されたところに個人を超えた「知」が現出するという、何というかニューエイジっぽいオハナシで、誰でも編集できるウェブ上の百科事典「ウィキペディア」がその典型例とされる。ウェブの進化は人類の進化だといわんばかりの梅田の戦略的オプティミズムには当初から批判があったが、『ウェブ進化論』から1年が経過した現在、ウィキペディアにしろソーシャル・ブックマ
ネットには政治力という物が皆無で、それが大きな弱点の一つと言える。今で言えば「児童ポルノの単純所持禁止に絵も含める」という話題はあるわけだが、例えば2chで吹き上がってる人々は「俺たちが騒げばどんな奴でも動かせるぜ」的な態度をいつも見え隠れさせてはいるものの、動くのは毎度規模の小さい事ばかりで、こういう本当に動かしたいであろう事はまるで動かせないし、他の掲示板やblogにしても同じで、いかにこの規制が思い込み先行の無根拠な物で、これを推進しているのは二元的で偏った思想を持つ馬鹿な連中ばかりだとアジ演説して、それで賛同なりブクマを稼いでみたところで、それは結局元々意見が一致している身内同士でクネクネ誉め合っているに過ぎず、実際に多数の人間を扇動してパワーバランスを変える、という事にはおよそ結び付かない。 あまつさえ、こうしてひとしきり騒いだ事ですっかりガスが抜けてしまい、あたかも何かを解決し
[OGC2008#03]「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」のひろゆき氏が語る,ゲーム・コミュニティ・文化 編集部:Guevarista 「2ちゃんねる」の管理人にして,ニワンゴの設立メンバーでもある,ひろゆき氏 「2ちゃんねる」の管理人ひろゆき氏といえば,ここでくどくどと説明を並べ立てるまでもない有名人だろう。彼は「ニコニコ動画」のサービスを提供するニワンゴの,設立メンバーの一人であり,サービス運営に独自の役割を果たしている。 そんな関係もあって,OGC 2008にはなんと,彼が登壇するセッションが設けられている。第8講「コミュニティが生み出す想像事例と,CGMの可能性」と題したフリートークセッションがそれで,話題の中心となるのはおそらく,ニコニコ動画のサービスとアップロード作品,そして「ニコニコ映画祭」の応募作品といったことになるだろう。 このセッション自体,ある意味たいへん時宜を得たも
セマンティック技術やそれらを活用したプロダクト、サービスに関するコンサルティングを手がけるProject10Xは、「Semantic Wave 2008:Industry Roadmap to Web 3.0 Multibillion Dollar Market Opportunities(セマンティックの波2008:数十億ドル規模の市場機会)」と題した、セマンティック技術とその市場への影響に関する400ページからなる調査レポートを発表した。このレポートは消費者向けのセマンティック技術と企業アプリケーションの登場、そしてウェブ2.0からいわゆる「ウェブ3.0」への進化について扱っている。 Project10Xのレポートが27ページにまとめられた概要ドキュメントを無料で入手できる。名前と電子メールアドレスを記入し、いくつかの簡単な質問に答える必要があるが、この概要レポートはそれだけの価値があ
2008年02月04日12:15 カテゴリArt 我々全員の知的生産性を10桁上げる方法 池田先生、50点。 あなたの知的生産性を10倍上げる法 - 池田信夫 blog 知的生産性を上げるためにもっとも重要なのは、こういうお手軽なハウツー本やマスコミの通念を信じないで、自分の頭で徹底的に考えることである。 それも筆記試験だとした場合。マークシートのように、答えだけしか書かないものであれば0点。 なぜか。 知的生産力は知力とは異なるからだ。 知力というのは、「人に思いつかない事を思いつける」能力。それに対し、知的生産力は、「人が思わないことを、人に届ける」能力。 だから、徹底的に考え抜くというのは、知的生産においては査定0なのだ。むしろ「とりあえずここまで考えた」というのをさくっと抜いてしまった方が知的生産力は高いといってよい。 ダシにして申し訳ないが、典型的なLisperからみたかつてのi
「ニコニコ動画」に関連動画が多数投稿されたことで火が付き、アマチュアクリエイターがこぞって買い求めたクリプトン・フューチャー・メディア(株)の「初音ミク」。「DTMソフトとしては異例のヒット」と言われており、クリプトンによれば、1月21日付けで3万本の販売を記録しているという。 なぜ「彼女」はネットアイドルにまでのぼりつめ、その地位をキープし続けていられるのだろうか。ジャーナリストの津田大介氏に話を聞いた。 【解説】初音ミク メロディーと歌詞を入力し、発音の強弱やビブラートなどを調節することで、歌を人間らしく歌わせられる歌声合成ソフト。ヤマハが開発した「Frequency-domain Singing Articulation Splicing and Shaping」(周波数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法)という歌声の合成方法を採用している。 ネットから消えた「初音ミク」画像を
ニコニコ動画はおもしろい。 たぶん、Webサービスにおける2007年最大の革命だと思う。 ただ、ニコニコ動画のおもしろさや技術的な側面については多くの場所で語られているけれど、 どうも今ひとつ表層的な部分で終わってしまって、本質にたどり着いていないような気がするんです。 例えばちょっと前の記事、 ・Second Lifeとニコニコ動画の同期性、“後の祭り”と“いつでも祭り” でも、「コメントが積み重なって、あたかも擬似的に同期しているからいいんだ!」と言われてますが、 それはそうなんだけど、そうだと何がいいのかがよくわからない。 「コミュニケーションが取れる」イコール「楽しい」みたいな図式が自動的にできあがっているようで、 なんとなく釈然としなかったのです。 ・ニコニコ動画に学ぶ、人気サービス開発の極意:スペシャルレポート - CNET Japan こちらも、記事の内容は素晴らしく、なるほ
意図と内容の堂々めぐり 前回、ウィキペディアの課題は、編集という行為の「意図」と「内容」を切り分けられるかどうかである、と書いた。しかしながら「内容」は常に客観としてウィキペディアというメディアに表出しているのに対し、「意図」はプライベートな主観であって、第三者には把握できない。そうなると、ウィキペディアである人物によって編集された項目が、正当なものであるのかどうかという判断は、「内容」に即して考えるしかない。 では、その「内容」が、ある情報源(ソース)に基づいて、きちんとした論理(ロジック)によって書かれているのであれば、まったく問題はないのだろうか? 編集した人間が、どう見てもその項目と利害関係のある人物であると判断された場合、彼の隠された「意図」を考慮に入れる必要はないのだろうか? このあたりの判断は、前回の最後にも書いたように微妙で難しい。「意図」と「内容」の関係性に絞って議論を続
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ウィキペディアへの情報操作は何が問題なのか ウィキペディアでの「情報操作」ととられかねない編集行為がウィキスキャナーによって暴露され、問題になっている。朝日新聞や産経新聞などに取り上げられ、特に注目を集めているのは政府官公庁内部から編集が行われていた問題だが、しかし大企業やマスメディアが自社に関係するテーマについて項目を書き換えていたケースも多数報告されており、まとめサイトも登場してきている。 省庁職員が情報操作まがいの編集行為を行っていたことに対する批判は、次の三つのポイントに大別される。 (1)ウィキペディアの編集に当事者である官僚が参加すると、ウィキペディアの公平性が損ねられるのではないか。 (2)官僚が自分の属する省庁に有利なことを書くことは倫理的に許されない。 (3)官僚が自分の職務時間にウィキペディアの編集に参加しているのは職務怠慢ではないか。 第一の公平性の問題。ウィキペ
関連エントリとかニュースとか見ても、ほとんど触れられてない気がするニコニコ動画の最もすばらしい点。 それはここ。 ニコニコ動画上で様々なコンテンツを作る為のノウハウが、ユーザーの手によって発案され編集されアーカイブ化されていってる点。 できて1年経ってないサイトで、チュートリアルやノウハウがユーザーによって数百個投稿されてるとか、従来のコミュニティだったらマジありえない。 ニコニコの爆発的なコンテンツの拡大ってのは、投稿方法まとめスレとかこういうシリーズとかのインフラがあって初めて成り立ってるのだとおもう。ボクがニコニコスゴイとかいうと、みんな俺がMADばっかり見てると思ってるけど、ニコニコのホントにスゴイとこはこういう部分だと思うのデス。 ニコニコがでかくなったのは違法なコンテンツをアップしてるからだって言ってる人がいるけど、それは視聴者の拡大要因でしかないと思うのです。むしろ、コミュニ
ごきげんよう。最近、揺れる膨らみについつい目がいってしまうウーパーです。 ライトノベル関連のブログ界隈で、「感想サイトが流行らない」という話題が挙がっていた。様々な考察があり、なかなか興味深い。ウーパーも、なぜ「感想サイトが流行らない」のか、考えてみた。 いや、深く考えるまでもなく、つまらないから。他に理由なんて無い。 アニメも漫画もゲームも、もちろん感想サイトも、つまらないものは流行らない。検索しやすくしたり複数の視点から評価したり、工夫しても意味が無い。大元のコンテンツがつまらなければ、流行るわけが無い。 プレイステーション3が分かりやすい例です。どんなに高性能だろうとソフトが不味ければ流行らないのです。つまり、サイトとしての利便性がどれだけ上がろうと、「ブログの記事」がつまらなければ、流行るはずがないのです。 あとね、「他人の感想を読みたい」人なんて、いない。「あの人は、どんな感想を
忘れない為のアイディアノート。内容は練れてません適当です。 何かを提言するだけの人はバランスよく人の意見を聞かなければならないと思う。自分はこう思う、しかし、こういう考え方もある。どちらも間違ってないし、いいところを取り入れて、こういう風になっていったらよいね、というように。そういう人が、自分の考えを練り上げる過程で例えばブログで発信するような、反論を受け付けます。議論をします。悪いところがあれば直しますし、他の良いところは取り入れます、というような行動を取るのは非常に納得感がある。 しかし、本気で何かを動かしたいと思っている人が取るべき戦略はそうではないのではないか。 自らの信念のもと、強引に実行に移し、既成事実を作ってしまうか、あるいは、反論の必要を認めず、人を洗脳するかのように自らの考えを広めることが最適だろう。そして、それを行う場としてブログは全く相応しくない。 言論人としてブログ
蟲使いとなった池田信夫先生に対する反論だよ。 > 池田先生のネットイナゴの定義がさっぱり見えないよ リアル世界では影響力がないので、ネット上で影響力のある人間に罵詈雑言をぶつけているのがネットイナゴだよ。 >はてブで罵詈雑言かいてるのは別にネットイナゴじゃないよ 上記定義からすればネットイナゴだよ。 >はてブのコメントが自身の制御下に置けないから切れてるようにしか見えないよ 全然違うよ。はてなが飛躍するための大所高所からのアドバイスだよ。 >100文字程度で論理性を求めるのがバカバカしいよ 高木浩光氏もそういっていたけど、トライアルしているよ。能力のないイナゴだからできないだけだよ。 >市民バンドが、2ちゃんねるのような状態になって自壊したなら、どうして2ちゃんねるは自壊しないの? もう自壊してるよ。mixiに滞在時間等で既に抜かれているよ。 >アタリショックに関しては、「アタリショック」
池田センセーついにはてなに切れる! http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/582474956f34136b8a62bf7789f91bac 僕が想像するだに、ことIT系に関してはネガティブコメントをつけている人の大半が、イナゴどころか専門家のような予感があるのですが。ていうか、dankogaiもイナゴのうちだよねこれじゃ。そしてあまりのリサーチ不足。。「しればいいのに」が「死ねばいいのに」の代替とは。高木先生に謝れ!まあ高木先生のニュアンスは代替に近い気がするけどね。いずれにせよ、タグが下劣とか、そういうところばっかり気にしていると本質を見失いますね。 池田センセーはここ最近の行動を見る限り、自分が多少なりとも知識がある部分はその分野の権威であると言う立場で反論は許さん的な発想を持っていると思いますが、それが「彼らに食いつかれるのを恐れて、専門家はブログで意
人類は月に行っていないと思う人が約2割 「なぜ2回目が無いのか?」 1 名前: 探検家(埼玉県) 投稿日:2007/05/06(日) 17:36:47 ID:gvbveCb70 ?PLT 人類月に立つ歴史、信じない人約2割に 先日報道された、「20光年先のてんびん座近くに、地球そっくりの惑星発見」という海外からのニュース、ご記憶の方も多いだろう。科学が進歩して、生命の存在しそうな惑星さえ発見されようというご時世だが、今でもたびたびテレビ特番のネタになるのが「NASAは、実は月には行っていない」というもの。80年代頃にもこの話題が盛り上がったことがあるような気がするが、最近では『都市伝説』というキーワードで再び軽くブームに。ORICON STYLEの調査でも「人類は月に行っていないと思う」人がなんと2割に達したから驚きだ。 まずは月着陸懐疑派から。「随分昔の話なのに「2回目」が無いから」(4
かつて、老人は敬うものという価値観が日本にはあったのかもしれない。まだそういった価値観が残っている国・地域は残存しているものの、儒教圏か否かに関わらず、老人への尊敬というものはだんだん目減りしているように思える。“老人を敬う”という精神が、前提ではなく限定へ、そして衰退へと向かっている背景にはどのようなものがあるのか?価値観の変容を促した要因にはどんなものがあるのか?この文章では、“老人が持つvalueの低下”という視点から幾つかの要因を考えてみる。 老人一人あたりのvalueが低下している時代 人間というものに、valueという言葉をあてがう事には私も抵抗を禁じ得ないが、かつて老人が尊敬されていた時代においては、老人は無条件に敬われる存在というよりも、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていたことに私は注目する。キリスト教文化圏ではどうだか知らないが、儒教文化圏であれ、ポリネ
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