先日、萱野稔人の国家論において、国境という概念が十分に理論化されていないことを指摘した(「国家・国境・領土」について)。実際、萱野の理論では、国家の構成員が移動しても国境がなくならないことの理由を説明することはできない。いっけん、高度な整合性を保っているかに見えるその議論において、なぜこのような事態が生ずるのだろうか。それを考えるにあたって、萱野の最新エントリー(「交差する領域〜<政事>の思考〜」第6回 価値判断と認識)は参考になる。 このエントリーで萱野は、自らの国家論に対する価値判断の欠如という批判に応えて、社会の分析に際しては認識と価値判断を区別し、まずは価値判断を括弧に入れて分析理論を構築すべきであるとしている。 もちろん私は、思想や理論のなかで価値判断をしてはいけない、と言いたいのではない。しかし、認識と価値判断のどちらが先行しなくてはならないのか、といえば、間違いなく認識のほう