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思想に関するmn_krのブックマーク (372)

  • serious/unserious - hazumaのブログ

    文學界の連載でもいちど書いたネタなのですが、最近、「真面目」と「ふざけている」の境界についてよく考えます。 ■ そもそも批評家というのは詐欺師みたいなもので、どこまでマジでどこまでネタなのかよくわからない文章を生産するのが役割であるような変わった職業です。 しかし、それにしてもぼくは最近、ネットスターとかゼロアカとかやっているせいで、その混乱がますます進行している。たとえばぼくがネットスターで発している発言の多くはネタであるとして、しかしでは、ゼロアカで藤田くんやら坂上くんやらを褒めているのもネタなのか、ニコ動的生成力に批評の可能性が宿るとかいう発言もネタなのかといえば、ネタのような気もすればベタ(マジ)のような気もする。 逆に裏返せば、思想地図だってどれくらいマジなのか、自分でもよくわからない。客観的に観て自分の行動は「東はマジだ」と言われる水準をクリアしているとは思うけれど(したがって

    serious/unserious - hazumaのブログ
    mn_kr
    mn_kr 2009/06/03
    “「すべてをネタとして見る」ことと、「すべてをネタとして見る立場に立っているとベタに書く」ことのあいだには大きな差異がある。”
  • 次のAmazonレビューを確認してください: デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

    素晴らしいが現れたものだ。デイヴィドソンは難解で、専門家以外にはその当の面白さがよく理解できない。彼の論文は、小さな技術的論点の検討から始まりながら、ある時点で突然視界が開けるような爽快感があるのだが、評者はこれまで「メタファー論」を除いてその魅力がよく分らなかった。その欠落感を書が埋めてくれた。 デイヴィドソンは、「まず人間がいて、そして言語がある」と考える。逆ではない。言語規約説や規範説など一切の「言語=実体説」をぶっとばして、「向かい合って発話を交換している私とあなた」(p91)という根源的場面に定位し、二人のコミュニケーションの道具として言語を捉える。絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある。 デイヴィドソンは、T文による「真理条件

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    mn_kr 2009/06/01
    “絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある”
  • 姿勢としての倫理 - 地を這う難破船

    ⇒鉄管ビール - 玄倉川の岸辺 玄倉川さん、こんにちは。 殊更には「読ませたくなかった」のはその通りです。批判的言及や悪口や誹謗中傷ならともかく、そうではないものを御人には直接に読ませたくはないものです。いや、批判的言及の際もはてな外のblogに対して手動トラックバックを送らないことはあって、それは私の判断ですが。 「…誰のことだろうこれは、と思いました。」すみません。もっと普通に書きます。私は、玄倉川さんのことを、感情的な馴致を嫌い、他者に対する感情的な馴致やそれに阿った自己都合の言動を一貫して批判している人、と認識しています。感情的な馴致とは、物事を「なぁなぁ」にしてしまうことです。私は「なぁなぁ」にしてしまうことに対して、玄倉川さんのような批判的な視座を了解しつつも、肯定的なので、その点で「立場が違う」と書きました。 玄倉川さんが言われる「良心」とは「理性」とは、ひいては「人間」と

    姿勢としての倫理 - 地を這う難破船
  • 表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船

    ⇒言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び 仰りたいことはわかりました。趣旨には同意です。「まとめ」の部分にはほぼ異論はありません。率直に言って、NaokiTakahashiさんのブログのコメント欄での応酬を拝見した限りは、もっと突っ込んだ議論を展開されるのかと思っていました。 「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」の表での流通が「人権侵害と認めるところからはじめ」るというのは、相当に強い議論です。DV等を見るまでもなく、児童虐待を見るまでもなく、そして人身売買を見るまでもなく、私的セクターにおいて、あるいは商行為の名のもとに、侵害されている人権の回復には強制力の執行を伴います。その強制力を市民は国家に付託しています。むろん数多の非営利団体が活動していますが、彼らは強制力もまた強制的な執行の権限も持ち合わせません。そうした社会を、私たちは選択しているし、私は「自

    表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船
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    mn_kr 2009/06/01
    “市民が反社会的なフィクションに対してすべきことは、読解の多様性への回路を開くことです。つまり、存分に批判することです。それが、自由な社会のセオリーです。”
  • 言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び

    差別問題を考えるうえでの前提 ここ数年の日のレイプ事件の認知件数は、だいたい二千件をこえたあたりで推移しているようですにゃ。しかし、実際におきているレイプの件数は少なくとも数倍はあると考えられていますにゃ。警察へ届け出にゃー被害者がいるからにゃんね。こういう、実際には起こっているけれど、届出がにゃーので認知されにゃー数を「暗数」というようですにゃ。 ♀が被害者となる性犯罪において、社会が性差別的であるほど性犯罪被害者の♀は届出することのハードルが高くなり、暗数が増えることになりますにゃ。今の日においても、法廷におけるセカンドレイプやら、被害者に対する有形無形の嫌がらせやらを考えると、性犯罪被害者として名乗り出ることのハードルは高いでしょうにゃ。強姦魔にとってはウハウハの世の中にゃんね。 性犯罪被害♀を中傷したり、レイパー♂を「元気な人」と評価するような社会においては、ますます♀は性犯罪

    言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び
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    mn_kr 2009/05/30
    “自分の頭で考えつづけるために、「構造的な人権侵害」という認識が緊張感を与えることができる。 考えることをやめたとき、例えば強姦魔が高笑いすることになり、法規制や社会の分裂が待っているだろう。”
  • 坂のある非風景 ひとは立ち去っても書物は立ち去らない

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com ◇ 当に私を癒したものについて語るのは難しい。それについて語るときは私の傷について語るときだからだ。つまり、痛みは癒されはしたが傷そのものは今も癒えていないということである。失恋であろうと社会的な疎外感であろうと、それを音楽や文学が癒しはしない(傷は傷を与えたものだけが癒す)。ただし痛みは癒す。それとも「痛み」が傷のゆいいつの表現であり、正体なのだろうか。 ドラマ『Dr.HOUSE』に、父親が若い女性と深い関係となるエピソードがある。しかし父親は性的に不能で、彼女との性交渉のために性的興奮をうながす薬を用いる。その薬が、子どもたちに原因不明の病気を発病させるというストーリーだった。ここには何が示されているのか。

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    mn_kr 2009/05/30
    “批評は、永遠に排除されるために書くものたちに文脈を与えうるような地図を描かなければならない”
  • 坂のある非風景 仮想化を拒むものと向かい合おう

    武田百合子の『富士日記』から日記の書き方でも学べるだろうかと考えたあなた、それはおおきな間違い。だれもが魅了される日記である理由は、たしかに武田百合子の個性によっているわけだが、個性とはけっきょく書かれたものから逆向きに仮想された「結果」にすぎない。それこそが、書かれたものの原因でありながら、書かれたものの結果として到達することしかできないもの、<原因-結果>と呼ばれるものであり、その結果である原因からもう一度書かれたものが読み返されるわけである。 「アキビン」は、そのてっていてき(ひらがなが似合うと思う)に非アンプリファイな「楽器」とハプニング的な体制(狙ってはいないのだとしても)からして、音の最後のひびきかたまでのコントロールは放棄せずにいられない、というか、あえて言うと不完全な音響のほうに場面を引き寄せて補完させる。対して「室内」は、完全に自分たちの音のテクスチャーを響き方・消え入り

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    mn_kr 2009/05/30
    “理解が理解しえぬものの発見のことであるように、仮想化とは<仮想化しきれない残余>をつくりだす運動でもある...じつはその残余に本当の川の流れがある(本当の川の流れについて私はなにを語れるだろうか)”
  • 不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「日の病気は集団ヒステリー」 日の病気は、豚インフルエンザではなく、集団ヒステリーである、と。日は、今後も素晴らしい可能性があるいい国だが、いまは精神的に不安定で弱い、と。 国際空港ターミナルで、日人だけマスクマン。その光景は、国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。・・・ガラパゴス化は、技術ではなく国民性になってしまったようだ。 しばらく日テレビを見ていないので想像でしかないが、きっとメディアが、日々恐ろしいことを繰り返し、人々の恐怖をあおり、時には誰かを血祭りにし、その直後にお笑いなどのエンターテイメントを放送しているのだろう。そのメディアの「戦略」は、9・11以降のアメリカと同じである。そして、大きな物語に国民全員が飲み込まれていく。 「メディア・パンデミック。」 TSUYOSHI TAKASHIRO BLOG http://blog.honeyee.com/ttakash

    不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2009/05/29
    “あるいは、身近な者からも回避した人々は、メディア情報に過剰に反応してしまう。他者回避、不干渉であるはずが、逆説的に間接的な形態で過剰干渉社会を生んでいる。”
  • 福島みずほさんと会う - 内田樹の研究室

    福島みずほさんと対談したはずなのだが、ブログに何も書いていないのは「何か」あったのでしょうか、というお訊ねメールが届いた。 このメールの背後には「事変」を望む無意識的欲望が何となく感じられるのであるが、福島さんとの対談はたいへん愉快なものでありました。 昨日のブログは小田嶋さんの話だけで長くなりすぎたので、「続きは明日」だったのである。 それにしても、赤プリで小田嶋さんと会ったあとに、永田町で福島さんと会うというのは、かなりストレンジな取り合わせではある。 ともあれ、私のふだん出入りするところではない参院議員会館に行って、「月刊社会民主」というコアな(と申し上げてよろしいであろう)刊行物のために社民党党首と対談をすることになった。 ご存じの通り、私は「異業種の人」と話をするのが大好きである。 その話のコンテンツよりは、その「語り口」から学ぶところが多いからである。 ウィキペディアの福島さん

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    mn_kr 2009/05/29
    “保守政治家というのはほとんど「メタ・メッセージだけ」しか発信しない政党であり、左翼政治家は「メッセージだけ」しか問題にしない。”
  • 池谷さんの本を読む - 内田樹の研究室

    旅行中ずっと池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)を読んでいた。 400頁を越すけっこうなヴォリュームであるが、一気に読んでしまった。 池谷さんからのかわいい(タツノオトシゴの)漫画サイン入りので、「今回のは今までで一番気合いが入っています!」と書いてあった。 池谷さんとは以前、「PHP」の企画で対談したことがある。もう2年ほど前のことである。 私は「理系の人」と話をするのが大好きである。 養老先生、茂木さん、福岡先生、どなたも話が明快で、かつ深い批評性を備えている。 池谷さんも話していて、その頭脳の機能の高さに驚嘆したのを覚えている。 人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になる。 「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか? この言明が真であ

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    mn_kr 2009/05/21
    “この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」(recursion)と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく生産的なものと感知できる人がいる。 真に科学的な知性とはそのような人のこと”|思想のカオス=培養地→創造と思う
  • ゾーニングあれこれ - shinichiroinaba's blog

    ゾーニングというか規制というか。 法治国家においては「そういうことするやつが少数ながら出てきてしまうことは仕方ないし根絶するわけにも行かないから何とかコントロールしたい」というときに大雑把に言って二つのやり方があって。 ひとつは正面から「そういうこと」を禁止するやり方。もうひとつはいわゆる「ゾーニング」、「悪場所」を作って「そういうこと」を囲い込むやり方。 後者は「法の下の平等」を旨とする法治国家にはなじみにくい。要するにこれは身分制の論理。「そういうこと」をしていい場所、していい人々を一般社会とは区別するという発想。これは囲い込まれた営み、そして人々に対する「差別」である一方、被差別者への「特権」の付与でもありうる。 おおっぴらに身分制であることを標榜し人々がそれを受け入れている社会においてならともかく、現代の法治国家、単一身分の市民社会にこのような身分的構造を持ち込むことは相応の緊張を

    ゾーニングあれこれ - shinichiroinaba's blog
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    mn_kr 2009/05/20
    発想の方法として→“ひとつは正面から「そういうこと」を禁止するやり方。もうひとつはいわゆる「ゾーニング」、「悪場所」を作って「そういうこと」を囲い込むやり方”
  • スポンタなりに考える、宮台真司氏が旧世代なところ。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    さて、シアテレに集う人たち。池田信夫先生。スポンタとしては、それぞれに思うところがある。だが、それを個別に指摘するのは面倒なので、「旧世代」と括ることにする。 唯一価値があるのは、『日社会が「儒教的な知識人」によって構築されてきた』という池田氏の指摘。だが、『「儒教的な知識人」によって構築されてきた戦後』の問題を解決するにあたって、『「儒教的な知識人」に含まれる学者』によって、新時代は構築できない。 やはり、宮台真司氏も池田信夫氏も、明確に「旧世代」として切り捨てなければ、戦後60余年で袋小路に入った現代を抜け出すことはできない。 ☆ 東京青年会議所の月例会のシンポジュウムを見たが、印象批評をすれば、登壇者たちは『志民』という『「武士道的な知識人」を求める』。だが、武士のような「平時の遊民」を養うような余裕を社会は持たないし、「養われているかもしれぬ武士」の精神は腐り、耀変し、暴発する可

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    mn_kr 2009/05/20
    “『日本社会が「儒教的な知識人」によって構築されてきた』という池田氏の指摘”|“モバイル性こそ、「対話」の本質である。 固定的なオーソリティーこそ、「対話の拒絶」”
  • 宮台真司氏は2009年の学者ではない…。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    I will TOKYO東京JCのシンポジウムの感想。 宮台真司氏に興味を持って、東京青年会議所の月例シンポジウムに行ってきた。 というのも、宮台氏が現代思想に近い立場で位置し、若者にも近い人であり、アクティブな人であるという認識からである。つまりは、シアテレに集っているような年齢層の人たちではなく、観客も青年会議所という40歳以下の人たちだからであった。 中沢新一氏がチベットに行ったように、宮台真司氏は援助交際を追った。つまりは、東京大学というアカデミズムを超えてフィールドワークに踏み出した人。そんな思いがあった。 中沢氏が「西方浄土を目指した」のに対して、宮台氏は「悟りは却下にあり」。そんな違いを感じていた。 結論をいえば、かなり失望した。 そして、数百人は来場していたであろう人たちが、まったく異議を感じていないところに、日という社会の袋小路を思う。 役員は次のように、宣言して、イベ

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    mn_kr 2009/05/20
    “現代思想の末裔でもある宮台氏... 1.「モバイルな個(ノマド・放牧民)」 2.「微分される個」 3.「多層なレイヤーで全体と部分を様々に共有するコミュニティーの多様性」のどれも想起しない。”
  • 今こそアーレントを読み直す - 池田信夫 blog

    著者がハンナ・アーレントについて書こうと思ったきっかけは、秋葉原事件だという。あれを「新自由主義が生み出した派遣労働者の悲劇」といった物語に仕立て、かわいそうな人々を救済する「派遣村」のような温情主義をたたえる言説が流行した。派遣村を批判した総務政務官を更迭しろ、と国会の代表質問で追及したのは民主党の鳩山由紀夫幹事長(当時)である。 アーレントは、このような「共感の政治」を批判する。彼女は『革命について』でフランス革命を否定し、アメリカ独立革命を肯定した。彼女はlibertyとfreedomとを区別し、前者をフランス革命の、後者をアメリカ独立革命の理念とした。Libertyは抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、freedomは法的に構成(constitute)される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない。 「人間が生まれながらに等しく人権を

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    mn_kr 2009/05/20
    アーレントは「共感の政治」を批判|“Libertyは抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、freedomは法的に構成(constitute)される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない”
  • ララビアータ:物語 - livedoor Blog(ブログ)

    社交が苦手だという人がいるが、こんな場合、私が推奨したいのは物語の修練である。日々の生活の中に、何か話のネタになることを探し、それを記憶し、またそれを人に語る習慣を身につけること。 もっとも、日常で経験する瑣末時を語れば、それだけで物語になるわけではない。あらゆることを、あらゆる細部もそのままに語り続けるのでは、井戸端会議のおしゃべりと変わりはない。そんな人たちは、他人の話にもよく耳を傾けないものである。自分の経験や関心から距離を置くことができないから、互いに独白しあうようなもので、他人の経験には無関心なのだ。そこでは、相手の話を糸口にして、何とか自分の話に持ち込もうとするだけである。 物語のためには、事実の羅列ではなく、何らかの意味の発見が不可欠である。さもなければ、“so what?”ということになる。だから他人に耳を傾けてもらえるように話ができるために必要なのは、ほのかな意味の発生に

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    mn_kr 2009/05/18
    ◎“物語は、意味そのものを語るより、意味の生成を語ることである...物語とは、意味にとって生成の過程が、つまり時間が、還元不可能な重要性を持つことを含意するのである”|後半は社交場の機能について
  • 愛なき世界のほうがまし~民主党代表選に思う - 【海難記】 Wrecked on the Sea

    引越し遍歴パートⅡ 2018年に「上京して10年で引越しを6回した」というブログを書いた。 月日は流れ、あれから6年…さらに2回の引越しをした。ホテル暮らしも含めると3回かもしれない。 前回の記事では主に神奈川〜千葉〜東京の引越し事情を書いた。関東の浅瀬でちゃぷちゃぷ遊んでいたに過…

    愛なき世界のほうがまし~民主党代表選に思う - 【海難記】 Wrecked on the Sea
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    mn_kr 2009/05/16
    鳩山氏は友愛を重視しているらしい。そしてその政治思想は“一言でいえば、政治は「美」だというのだから、まさしくベンヤミンのいった「政治の美学化」そのもので、鳩山はファシストの資格十分である”
  • 東京インターンシップの旅 - 内田樹の研究室

    東京出張4日間ツァー初日。 今回の東京ツァーは既報のとおり、大学のアートマネジメント副専攻の「アートマネジメント演習」のインターンシップのための旅行である。 国立劇場のヤナイさんにアレンジしていただいて、義太夫の会のお手伝いをさせていただくのがメインの仕事なのであるが、インターンシップというのは知識や技術のことではなく、学生さんたちに見たことのない「プロの仕事」のたたずまいをお示しすれば、それで十分であると私は思っている。 仕事を説明する百万語よりも、ひとりの「プロ」の経験の奥底からわき出してくる、さりげない一言の方がずっと学生にとっては教育的である。 今回のツァーでは、とにかくヤナイさんという人が現場でどんなふうに人と接し、どんなふうに仕事を割り振り、どんなふうに予想外のトラブルに対応するか、それを砂かぶりで見て貰うだけで十分だと思っている。 実際にやる仕事は、キップのもぎりや物品販売や

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    mn_kr 2009/05/16
    “つねづね学生さんたちに言っていることだけれど、「キャリアのドアにはドアノブがついていない」。 ドアは向こう側からしか開かない”|仕事はとりあえず引き受けなければ次など無いということ。
  • ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネット上に新たな経済活動は起こらなかった ネットが一般に普及して10年以上たったが、かつて「グローバルビレッジ」に代表されるような期待された「革命」は起こらなかったようだ。この理由の一番は、ネット上に新たな経済活動が起こらなかったためではないだろうか。 確かにネットの普及によって、企業活動は迅速に活発になった。またネット上に新たなビジネスも生まれた。しかしこれらは従来の資主義経済の延長上のものであって、下部構造としての経済活動そのものはかわることはなかった。 多くの人々はかわらず企業へ労働力を売ることで賃金を稼ぐ。ネットはこれとは別に社会関係を楽しむ娯楽である。すなわちネットは新たな経済構造生み出すことなく、社会的な関係を充実されるつながりのツールでしかない。 ネット上の社会関係のために実社会で働く ネット上では掲示板やブログなど長時間かけた活動が行われているが、そこでおこなわれる労力は

    ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2009/05/16
    “トフラーのいう非金銭経済という経済的なシフトよりも......金銭経済中心社会から社会関係中心社会へのシフト […] もはや無理に消費などしなくてもネットでの無償労働で充足してしまえる”
  • まず隗より始めよ - 内田樹の研究室

    授業の合間に取材が二つ。 ひとつは三菱系のシンクタンクから「10 年後の日はどうなるか」というテーマで。もうひとつは資料請求者に配布するリーフレットの「神戸女学院大学って、こんな大学です」というパブリシティ。 両方で同じような話をする。 同じ人間が続けて話をしているのだから、内容が似てくるのは当たり前であるが、それにしてもそれは「10 年後の日が神戸女学院大学のような社会になる(といいな)」というふうに私は考えているということを意味している。 何を荒誕なことを、と笑う人がいるかもしれないが、これは私にとってはごく自然な考え方である。 今自分がいる場所そのものが「来るべき社会の先駆的形態でなければならない」というのはマルクスボーイであったときに私に刷り込まれた信念である。 革命をめざす政治党派はその組織自体がやがて実現されるべき未来社会の先駆的形態でなければならない。 もし、その政治党派

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    mn_kr 2009/05/16
    “とりあえず私の息のかかるところはすべからく「未来社会の先駆的形態」たらねばならぬ。 そこは「競争」ではなく「共生」の原理が支配する場である”
  • とりあえず、遅まきながら… - pentaxx備忘録

    最近めっきり邦楽は聞いてなかったし、もちろんRCもご無沙汰だった。ところが何を思ったか先月、iTunesで全アルバムを衝動買いしたばかり(持っていたのは全部LP)。まあ単なる偶然だろうけど。あといろいろ、個人的な感慨はゲームラボ(連載を私物化!)に書いた。 しかしいまさら「KING OF ROCK」とか言われると違和感がある。生前ホントにそう呼ばれてたっけ? まあそういうのはYAZAWAとか氷室とかでいいでしょう。 清志郎が天才であることは疑いようもないけれど、結局、誰も彼を継承できなかった。その意味で彼は影響したのではなく解放したのだと思う。だから彼は単独峰にとどまったまま、晩年はおとなしくキャラとして消費されていった。 それにしても…清志郎亡き後、ライブでスキャットを自在にこなせるヴォーカリストは? ディスコミュニケーションをリアルに主題化できる作詞家は? 連休中からずっと考えているが

    とりあえず、遅まきながら… - pentaxx備忘録
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    mn_kr 2009/05/15
    ◎“それでは良い旅を。あなたのゆく新しい道にも、数え切れない歌の断片が散らばっていますように。あなたの声がすべての星々を震撼させますように。さようなら清志郎。”