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思想に関するmn_krのブックマーク (372)

  • 草食な時代 - 内田樹の研究室

    四年生の専攻ゼミでは「草男子から平成雑メンズ」というお題でお話を伺う。 こういう世代論的分類法はどれほど信憑性があるのかしらないけれど、遠く「モボモガ」や「アプレゲエル」の時代から始まって「太陽族」「六木族」「みゆき族」など「族」時代を経て、「○金/○ビ」、「根暗」、「新人類」、など無数のバリエーションがある。 どれも世相をすぱりと切り取って、鮮やかである。 今回の「草系」というのはネーミングが卓越していたので、広く人口に膾炙した。 けれども、それも「もう古い」のだそうである。 一月ほど前にはじめて耳にした世代分類カテゴリーが「もう古い」と言われては、おじさんの立つ瀬がありません。 きみたちの好きにしたまえ。 ただ、高度成長期、バブル期など「お金がだぶついているとき」は肉系の生き方が有利であり、低成長・不況・雇用不安期には草系の生き方が有利であるという大きな流れはあると思ってい

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    mn_kr 2009/05/05
    “社会が豊かになると「肉食」的な生き方の方が有利。弱者や劣者を「食い物」にする生き方が推奨される|自分は相対的には豊かであると思っている人間がそのことについて一抹の「疚しさ」を覚えるような時代の空気”
  • ■現代リベラリズムとは何であったか/盛山 和夫 - 人文会ニュース

    盛山 和夫 一 今になって思えば、現代リベラリズム(従来のリベラリズムとは似て非なるもの。グレイのように区別しない論者もいるので注意が必要)は形を変えたポスト・モダンの現代思想であったようだ。むろん一方の旗手ロールズやドゥオーキンと他方のフーコーやデリダとは、基盤や背景になっている思想の系譜も明示的に語られている議論の中身も大きく異なる。何よりも文体に現れている思想の気分とでもいうべきものがまったく異質だ。両者は、ほとんどお互いを参照することなく独立に別々の思想空間で発生し展開してきたものである。しかし、両者がそれぞれ格闘した空間の位相構造はおそろしく類似している。フランス系現代思想が闘い、そこから脱出をはかったのは、マルクス主義という正統思想が高度産業社会の到来と構造主義とによって失脚させられた大空位状況である。それはリオタールの「大きな物語」の比喩が何よりも雄弁に明らかにしてい

  •  人文会  

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    mn_kr 2009/04/30
    社会学への15分ツアー 大澤真幸 2006/03/14更新
  • リフレーミング: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 先日からたびたび紹介ているクラウス・クリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』というは、決して目新しい視点ではないものの、人間中心のデザインを考えるうえで大事な考え方がとてもよく整理されていて役に立つと思われることが多い(これを読まない人ははっきり言ってソンだと思っている)。 たとえば、視点あるいは物事をみるフレーム・角度を変えて、物事を多角的に理解し、深く追求するための方法としてのリフレーミング(僕もひとつの方法として「ひとりエスノグラフィ」を紹介しました)も以下のように整理されています。 既知のものを変形する代わりとなるメタファーを利用する与えられた状況の類似を探すいろいろな理論的視点、特にさまざまな分野から獲得される視点を用いるさまざまなステークホ

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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    mn_kr 2009/04/29
    “幸福=「予測可能な幸福」と「予測不可能な幸福」|予測可能な幸福はその限界をかんたんに画定できてしまうため、それはつねに絶望と紙一重。⇒希望はそのような限界を超えた予測不可能なもの→抽象的”
  • メシアニズムなきメシア的なもの - 池田信夫 blog

    「希望」の話はまだまだ続き、今度は平岡公彦氏からむずかしいTBが来た。この問題がデリダやニーチェとつながるのは自然なので、少し立ち入って考えてみよう(これは別の意味でtechnical)。 デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうとメシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。 マルクス主義は一度も幸福な社会を築いたことがないが、100年以上にわたって大きな影響力を持ち続けてきた。その最大の求心力は、現在の社会を全面的に否定して救済を求めるメシア的な希望を

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    mn_kr 2009/04/29
    “現代の不安の根っこ=大きな物語としてのメシアニズムが失われた喪失感。資本主義は成長という希望の物語をつむぎ続けることができなくなり、それに寄生してきたマルクス主義もメシア的な求心力を失った”
  • thought.ne.jp:メディオロジー入門・番外編:「教養」三考[1/2]

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    mn_kr 2009/04/25
    (2ページ目の続き)現代のオタク文化の他者喪失のスクリーン的心性、コギャルの村文化への回帰(群衆性、直接コンタクト性)”
  • thought.ne.jp:メディオロジー入門・番外編:「教養」三考[2/2]

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    mn_kr 2009/04/25
    “八〇年代(八四-九二)の「ハレ」の季節=消尽社会(société de consummation≠消費社会(société de consommation)→「文化喪失の時代」(ブランド的差異による「所有」≠「創意性」)とする八〇年代の渋谷的文化論
  • 韓国「教授新聞」 - hazumaのブログ

    韓国の「教授新聞」という大学関係者向けのメディアより、メールインタビューを受けました。下のサイトに韓国語で掲載されています。 http://www.kyosu.net/news/articleView.html?idxno=18058 日語で記した応答の全文を以下に公開します。誌面の都合上、翻訳掲載されているのは一部だけかと思います。 ぼくのところにはしばしば外国から取材依頼が来るのですが、「オタクの心理について知りたい」とか「萌えについて説明してくれ」というものが圧倒的に多く、そういうのは軒並み断っています。しかし、このメディアの質問はとても真摯なものだったので、引き受けたのでした。 ■ ――1.初期デリダに対する研究から、おたくなどサブカルチャーに対する研究に至るまで東浩紀先生の軌跡には、他の研究者からは独特だと思われている点も多々あるのではないかと思います。先生が研究者として生きな

    韓国「教授新聞」 - hazumaのブログ
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    mn_kr 2009/04/25
    “イデオロギーがない状態、つまり「友」と「敵」が単純に区別できなくなった世界において、言論人がどうあるべきかと考えていくのが、とりあえずの課題だと考えています”|「人間的部分と動物的部分の解離的共存」
  • Régis Debray, Introduction à la médiologie

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    mn_kr 2009/04/25
    libraryは「well-read-community」であり、莫大な量の書籍を蔵する書庫――という受動的な――機能のみを見出すことは避け、そこに〈transimission〉が担うアクティブな働きを見るべき(¶2)。
  • 高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』 4/4

    sm2924701←3/4

    高橋悠治+茂木健一郎:公開トーク『他者の痛みを感じられるか』 4/4
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    mn_kr 2009/04/24
    創作において美はあくまで結果であり、それを目指して何かを創るということはできない。だとすれば美を対象化し定義して論じる評論は、美を生み出すことに寄与するのだろうか。高橋の答えはノー。
  • 世界の綻びを愛でるまで - 雑種路線でいこう

    そういう奴ってロスジェネやその上にも結構いるから別にゆとり世代の問題じゃないよね。昔はまともだった先輩が挫折の末に気付くとそういうノッペリした世界感を育むようになったのをみるにつけ、ああこれは心性の初期値か自尊心を守るために必要な退行なのかという気もする。自分も現実の物事と触れるまでは誤解と偏見に満ちた単純な構図を抱えていて、予断を現実に裏切られる度に内的不協和を補正するための新たな世界像を再構成するみたいな。 これが「正義」に集約されるか、技術に集約されるか、あるいは学歴などに集約されるか、いずれにせよ、自分が依拠する集約点を持つような気がする。つまり、まるでストリートビューに人間のアイコンを置くように、あるポジションに自分を置くことで社会が批判でき、解決が主張できるというふうな類型がありそうに思える。あるいは、ウィキペディア的な知識に正解があって、それ以外は間違いといった。 で、これは

    世界の綻びを愛でるまで - 雑種路線でいこう
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    mn_kr 2009/04/17
    ◎|“40前で日本法人の社長として赴任してきた外人に、優秀な女性マネージャが「あなたはどうやって、そんなに早く偉くなったんですか」と臆面なく聞いたら"Step out of your comfort zone"”
  • 全体最適 vs. オレ様最適 - Chikirinの日記

    「全体最適」という概念があります。 個々の構成員にとってではなく「組織や社会全体にとって最も価値が高くなる方法」を選ぶ考え方です。 最近よく聞くようになった「トリアージ」 大災害や大事故が起こり、治療を要する人が大量に発生して医療キャパシティがたりない時、専門の医師が治療の優先順位を考える手法のことです。 優先して治療を受けるべしとされるのは「より重症の人」ではなく、「治療する意味のある人」なので、その時点で「手を尽くしても既に治療の甲斐がない」と判断されると優先順位が低くなります。 こうすることにより、救える命の数が「全体として最大化」できるわけですね。 もうひとつの例は、倒産しそうになった企業を国が税金で支援すべきかどうかという議論です。 銀行や日航空には国の支援が入りましたが、普通の民間企業が倒産しそうになっても税金での支援などありえません。 ここでも「特定の企業に関しては、税金で

    全体最適 vs. オレ様最適 - Chikirinの日記
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    mn_kr 2009/04/17
    ““全体最適=自分最適”の人と、“全体最適=オレは損する側”の人がいる。”
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    織田信長 ぼちぼち、元気にやっています。少し薬にも慣れた...んかなぁ。相変わらずべられないけど。朝、指がこわばって文字なんて入力できなかったけど、それはほぼなくなった。関節もどこも痛くない。薬効いてきたんやろな。 で、ブログを書こうと言う気がまた起きてきた。 …

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    mn_kr 2009/04/14
  • 純粋スキゾ批判:Critique of Pure Schizo / kay shixima blog:ねじまき鳥あるいは分裂病と文学の終焉 - livedoor Blog(ブログ)

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    mn_kr 2009/04/14
    “中井久夫の「最終講義 分裂病私見」によれば、分裂病が責任だけは自分で引受けようとするのに対して、解離は葛藤の解消を優先するものであるとされる。ここに倫理的響きを聴き取ることができる”
  • アーキテクチャと思考の場所

    今日の建築を巡る問題とは何か。そして社会の問題にその問題系は接続しえるのか。2009年1月28日に開かれた巨大なシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」は、そのような問いを共有した1,000人もの聴衆がその答えを求めるべく、6名の白熱したパネラーの議論を4時間もの長きに渡り追い続けた一夜だった。 モデレーターは東浩紀、パネラーは磯崎新、浅田彰、宮台真司、宇野常寛、濱野智史。建築のみならず社会学から経済学、文芸批評、情報社会論まで、今日の各分野を代表する識者が集い、今日の建築と批評を巡る問題系について議論を展開するというかつてないセッティングが行なわれた。そこで議論されていたテーマの可能性についてここで振り返ってみたい。 アーキテクチャの生態系 タイトルの「アーキテクチャと思考の場所」に関連して。アメリカの法学者L・レッシグらが語るアーキテクチャ型権力といういわば匿名の権力が物理環境と情報

    アーキテクチャと思考の場所
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    mn_kr 2009/04/13
    “ルフェーブルは科学者・建築家・計画家による空間の概念を「空間の表象」と呼び、対してユーザーの身体的な経験に基づく空間の概念を「表象の空間」と呼び慣わし、両者の相互作用によって現実の空間が生産される”
  • 学院標語と結婚の条件 - 内田樹の研究室

    新学期が始まる。 6日に入学式。 飯新学長の「ことば」を聞く。 学長就任の挨拶でもそうだったけれど、学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基理念をつよく訴える内容であった。 この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。 でも、私はそう思わない。 これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。 私たちの社会がこの 20 年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。 「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。 学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。 それは具体的な教育プログラムのことではないし

  • 世界を変えることはできますか?――社会科学的説教ないし説教的社会科学入門 - on the ground

    10代の少年少女にふと、「世界を変えることはできますか?」と尋ねられたとして、私ならどう答えるか――。 「できるかできないを訊くな。今の君には、そんなことを考える必要は無い。 当に世界を変えたいなら、まず何をどう変えたいのかを考えることだ。何でそう思うのかをハッキリさせろ。 その次に、どうやったら変えられるのかを考えろ。そして、それを知るために勉強しなさい。」 もちろん、「できない」と答えてもいい。しかし、それは必ずしも正確な答えではないし、その答えで納得して引き下がるような相手なら、最初から答える価値も無い。誰かに「できない」と教わったら変えようともしない人間は、別に気で変えたいとも思っていないということだ。そんな奴、真剣に相手にするだけ時間の無駄である。 世界を変えることはできない。変えることができるのは、自分だけだ*1。私たちにできるのは、自分の変化や行動を通じて世界に働きかけ、

    世界を変えることはできますか?――社会科学的説教ないし説教的社会科学入門 - on the ground
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    mn_kr 2009/04/04
    “変えることができるのは、自分だけだ*1。私たちにできるのは、自分の変化や行動を通じて世界に働きかけ、何らかの影響を及ぼそうとすることだけである”
  • 公共性:inside out and outside in

  • アクティブインタビューか、識字教育か? | Theoretical Sociology

    昨夜酒を飲んで議論しながら怪気炎をあげた。久しぶりの議論で楽しかったが、その時の話題の補論を一つ書いておきたい。 「サヴァルタンは語りうるか」というお話がある。社会の底辺には、読み書き能力がなく、日々の生活に追われ、自分の置かれている状況を反省的に顧みる能力や余裕のない人々がいる。こういう人たちに「自己決定・自己責任ですよ。文句があるならちゃんと主張してください。」といっても、現実的には不可能である。明らかに社会的な不正によって不利益をこうむっていたとしても、それを言語化して人に訴えるには、一定のリテラシーと余裕が必要なのである。サヴァルタンとは、このようなリテラシーと余裕を持たない人々を表したものだとここでは考えておく。 このような状況においては、ジャーナリズムの果たす役割は確かに大きい。ジャーナリストがそのような実情を暴露し、サヴァルタンを代弁するということはあってよい、というか、やる

    アクティブインタビューか、識字教育か? | Theoretical Sociology
    mn_kr
    mn_kr 2009/04/03
    サバルタンは語りうるか? という問題に対する二つの解決の道筋|一方では“二者択一で考えるよりは、少なくとも政治的な次元においては、必要なことはどっちもやろう”