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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (22)

  • なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    洗練されるネット社会 ブログをはじめてから5年、定期的にネット界隈について語ってきたが周りの様子も大きく様変わりしたなと思う。単にネットサービスの変化だけではなく、そこに「住む」人々の様相も変化した。たとえば、 ・ネット/実社会の境界が薄れた・・・かつてはネットというものに実社会とは異なるものを見いだしていた。 社会事態もネットというものを特別なものとして見ていた。もはやそのような境界は薄れている。 ・匿名性が薄れた・・・それとともに、ネットでは匿名であるということが薄れた。実社会を連続的にネットで生活する人々が増えた。 ・フレーミングが減った・・・かつては炎上といえば、議論の白熱のことであった。ネット上の議論は互いに真剣であるほどに白熱し、プライドをかけたものになった。しかし最近、炎上といえば、失言に対しての攻撃の意味であって、以前のような過熱した議論をみなくなった。ネット上のコミュニケ

    なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/08/15
    “「コミュニケーションを成立させよう」という秩序...ネット社会は「関心」のエコノミーで作動している|ムラ社会から洗練された「都会」へ→都市的な儀礼的無関心へ”
  • マクドナルドは身体のコインロッカー - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    現代の公共性としての「空気を読む」 現代は流動性が高く、見知らぬ人々が出会い、別れる場面が増えている。そのために暗黙の秩序が求められる。それを「空気を読む」といってもいいだろう。公共性(common)を他者と共有する利害のために秩序を維持することである、と考えれば、現代の公共空間は空気でできている。お互いの目的を尊重するために必要以上に干渉しないようにしようということだ。 流動性が高いとはそれぞれの目的をもち、人々が様々な場所で交差する。機能を重視することで、挨拶などの社会的な気遣いは面倒なものとなる。たとえば満員電車の中。見ず知らずの人々が肌の触れあう距離で接してある時間を過ごす。通常、人には他者との快適な距離を保つパーソナルスペースがあると言われる。社会的な関係では3m程度と言われている。だから満員電車は通常ではとても考えられない状況である。目的なくそのような状況におかれた場合に人に与

    マクドナルドは身体のコインロッカー - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/08/15
    “マクドナルド環境が社会的な「パノプティコン(一望監視装置)」として暗黙の公共性の慣習をよび起こす”&いまや街全体が“街全体が社会的なパノプティコン(一望監視装置)化=マクドナルド化”
  • 不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「日の病気は集団ヒステリー」 日の病気は、豚インフルエンザではなく、集団ヒステリーである、と。日は、今後も素晴らしい可能性があるいい国だが、いまは精神的に不安定で弱い、と。 国際空港ターミナルで、日人だけマスクマン。その光景は、国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。・・・ガラパゴス化は、技術ではなく国民性になってしまったようだ。 しばらく日テレビを見ていないので想像でしかないが、きっとメディアが、日々恐ろしいことを繰り返し、人々の恐怖をあおり、時には誰かを血祭りにし、その直後にお笑いなどのエンターテイメントを放送しているのだろう。そのメディアの「戦略」は、9・11以降のアメリカと同じである。そして、大きな物語に国民全員が飲み込まれていく。 「メディア・パンデミック。」 TSUYOSHI TAKASHIRO BLOG http://blog.honeyee.com/ttakash

    不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/05/29
    “あるいは、身近な者からも回避した人々は、メディア情報に過剰に反応してしまう。他者回避、不干渉であるはずが、逆説的に間接的な形態で過剰干渉社会を生んでいる。”
  • ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネット上に新たな経済活動は起こらなかった ネットが一般に普及して10年以上たったが、かつて「グローバルビレッジ」に代表されるような期待された「革命」は起こらなかったようだ。この理由の一番は、ネット上に新たな経済活動が起こらなかったためではないだろうか。 確かにネットの普及によって、企業活動は迅速に活発になった。またネット上に新たなビジネスも生まれた。しかしこれらは従来の資主義経済の延長上のものであって、下部構造としての経済活動そのものはかわることはなかった。 多くの人々はかわらず企業へ労働力を売ることで賃金を稼ぐ。ネットはこれとは別に社会関係を楽しむ娯楽である。すなわちネットは新たな経済構造生み出すことなく、社会的な関係を充実されるつながりのツールでしかない。 ネット上の社会関係のために実社会で働く ネット上では掲示板やブログなど長時間かけた活動が行われているが、そこでおこなわれる労力は

    ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/05/16
    “トフラーのいう非金銭経済という経済的なシフトよりも......金銭経済中心社会から社会関係中心社会へのシフト […] もはや無理に消費などしなくてもネットでの無償労働で充足してしまえる”
  • 「肉食系女子」は日本を救うか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「草系男子」と「肉系女子」 「草系男子」、「肉系女子」という言葉が流行っているらしい。ボクはセックスが好きだし「草系」ではないと思うけど、彼女にまったく頭が上がらない方だ。まあその方が楽というのはある。過剰な「責任」を緩やかにかわす、とでもいうのだろうか。「責任」とは「男は強くあれ、女性を養うのが男のカイショウ。」というような日的な慣習なのだろう。 「草系男子」、「肉系女子」という表現は、「女性は強くなった」とともに、いまも日は根強い男性社会であるということの新たな表現ではないだろうか。 安定志向の「草系男子」  http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20090217ok02.htm 「草系男子」。異性と友達感覚で付き合い、酒を飲んでも乱れず、堅実な暮らしぶりが共通点だ。・・・「最近の20〜30歳代の男性は異性にガ

    「肉食系女子」は日本を救うか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/03/19
    “「草食系男子」、「肉食系女子」という表現は、「女性は強くなった」とともに、いまも日本は根強い男性社会であるということの新たな表現ではないだろうか”|“「バカとブスこそ肉食になれ!」”(cf:ドラゴン桜)
  • なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    映画「スカイクロラ」 遅まきながら、映画「スカイクロラ」(ASIN:B001NAW2MK) http://sky.crawlers.jp/tsushin/をDVD鑑賞。小説など事前の知識なく見たら、噂と違って?かなり楽しめました。平和を維持するために続けられる戦争。そしてその戦争のために生きるパイロットたち。大人になることがなく、戦死しても再生される。すなわち戦争劇のために永遠にいきることを強いられる。 "彼ら"の不思議はなぜ働きつづけるのか。ある意味で彼らは充足しているのでしょう。大人にならないこと、空を飛び戦うこと、また生き返ること、そして自分達の社会的な役割を。そこには、生きることの喪失感の第一段階である苦悩し自分探しをする青春ドラマではなく、もっとさめたアイロニカルなドラマがある。それはどこにも行き場かないことを受け入れるところからはじまる。 生きることの喪失感を描かせたら、現代で

    なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2009/03/19
    “生きることの喪失感の第一段階である苦悩し自分探しをする青春ドラマではなく、もっとさめたアイロニカルなドラマがある。それはどこにも行き場かないことを受け入れるところからはじまる”
  • なぜ「ブランド」を求めるのか コンベンションと統治技術 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ブランド」というコンベンショナルな信頼関係 資主義は経済学的な理念として完全競争をめざすことが求められるが、実際に企業が利益をえるためにはいかに完全競争を回避するか、いかに他社と差別化するかが重要になる。そのためには様々な方法が駆使される。技術、あるいはビジネスモデルを新規開発することに力を入れるのもそのためだろう。新たな有効性を開発すれば、他社がそこに追いつくまでの間、市場を独占することができる。 完全競争を回避するもっとも有効な方法は、買い手とコンベンショナルな継続した信頼関係を結ぶことである。それによってその買い手を独占できるからだ。それが「ブランド」戦略である。ここでいう「ブランド」戦略は俗に言う消費者にむけた商品ブランドのPRももちろんであるが、たとえば企業間の様々な取引も、一度限りの貨幣交換ではなく、継続したコンベンショナルな信頼関係へと継続することである。 ブランド名を批

    なぜ「ブランド」を求めるのか コンベンションと統治技術 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2008/12/17
    “、ボードリヤールの「象徴交換と死」=構造主義的=死を強調する否定神学。現代の消費のもつ欲望の過剰性 […] は欲望論で語ることができるが、贈与交換はより日常の基盤即ちコンベンション(黙契)としてある”
  • なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なぜお経は意味不明なのか たとえば仏教のお教はなぜあんなに意味不明なのか。お坊さんならいざしらず多くの信者はお教の意味がわかっているか。しかし必ずしも意味が重要であるわけではない。重要であるのは反復し唱えるときにつくりだされる環境である。 だからお教はむしろ意味不明であるほうがよい。目的はあくまで反復にあるからだ。意味がわかりやすいと、飽きてしまう。反復しやすいようにリズミカルで意味不明であることが重要なのだ。 宗教への傾倒は突然その宗教に感染するのではなく、少しずつ知りながら、あるいは「ミイラ取りがミイラになる」ように、宗教なんてくだらないと思いながら反復されるうちに気がつくと傾倒しているのだ。なにかを学ぶときは格好から入るということには意味がある。これはまさに規律訓練権力のありようを示している。 ネットワーク状に張り巡らされた規律訓練権力 多くの人がフーコーの規律訓練権力を勘違いしてい

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    mn_kr 2008/12/17
    ???“このような高度な規律性をもった社会であるから、みな好きなように自由でいられるのである。だから現代の教育の一番の規範は「誰にも可能性はある。自由に夢をもて」なのである。”
  • なぜ「主権者とは例外状態で笑う者である」のか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    面白いから笑うのではなく、笑うから面白い フロイトが笑い(機知)の分析にこだわったのは偶然ではない。笑いは一見、動物的な生理反応のようだが、言語と深く関係するのだ。笑いは例外状態に関係するのである。例外状態とはまさにシュミットが言った意味である。「主権者とは例外状態の決断者である。」 権力者がよく笑うのは決して偶然ではない。「主権者とは例外状態で笑う者である。」といってもいいだろう。権力者が笑うのは余裕の現れという安易な理由ではない。笑いとはその場への積極的な介入を意味する。笑うその一瞬前に例外状態がある。場が凍る。そのわずかな一瞬を笑う。笑うことは権力的な行為なのである。 笑いは決して先行しない。面白いから笑うのではない。笑うから面白いのだ。そこには、これは面白いという決断がある。決断者が笑うことで対象は面白いことになり、みなが従う。この決断者を従う者のズレはあまりに短く、同時であるよう

    なぜ「主権者とは例外状態で笑う者である」のか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2008/12/17
    “「主権者とは例外状態で笑う者である」|通常の判断では対処できない非常事態に主権者は秩序をもたらす […] 決断が例外状態を作り出す。主権者は主権者となるために決断する。”
  • なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「動物化」という新時代宣言 東浩紀を象徴する言葉といえば「動物化」でしょう。「動物化」という考え方は既存言論のカウンターと位置づけられます。日の言論文化には文化サヨ的(主知主義的)な傾向が根強く残ります。「世界を理解しつくし世界を設計しなおせる。」このような傾向は東の登場前にすでに時代遅れなものと考えられ、パロディ、アイロニーへの転倒が行われていました。しかしこのような転倒さえ重たい。そこにはまだ言葉(思想)への執着がある。すでに若者はもっと軽く、世界にアディクションしていると訴えたのが東の「動物化」です。 これは社会への訴えというよりも、言論文化への訴えの意味が大きいでしょう。それまで時代の寵児とされていた浅田や宮台なども、もはや新たな若者文化からはズレているという新たな世代の言葉の到来を宣言したといえます。 そしていつの時代も一定数いる言論少年たちはいままでの言論を言語過剰で古いもの

    なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/11/05
    環境というタームを導入(デリダ読解を通じて→スティグレール)
  • なぜ高度資本主義では人はナイーブで孤独なのか 耕作技術としての国家論1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    規律訓練権力=畑を耕す、生権力=作物を育てる フーコーが指摘した近代に全面化した権力、規律訓練権力と生権力の関係をわかりやすくたとえてみよう。規律訓練権力とは荒れ地を耕すことである。近代初期に国家により大改革が行われたのである。学校、病院、市場、流通、監獄、軍隊、都市整備、公衆衛生・・・最初に荒れ地をたがやかすのはたいへんである。そこには強制的な力が働く。しかし一度、耕された畑は次には労力は少なくてすむ。社会が規律訓練装置として整備されてしまえば人は幼いときから高い規律をもち育つ。 生権力は「生かす権力」である。耕された畑に種を播き育てることといえる。作物は育つように訓練することはできない、ただのびのびと自由に育つように環境を「調整・管理」するのみである。 作物はまず耕された農地がなければ育たない。荒れ地をいくら管理しようが作物はそだたない。耕された土地に種をまき、継続して管理する。規律訓

    なぜ高度資本主義では人はナイーブで孤独なのか 耕作技術としての国家論1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/11/05
    “生権力が発達した先進国は価値多様で自由だといわれるが、その根底には規律訓練された身体がある。だから生権力的は無頼な自由ではなく、「消極的な自由」。必要以上に干渉しないことを「暗黙の了解」とする自由”
  • なぜ知識人は「希望は、戦争。」に動揺するのか 戦争の消失1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「希望は、戦争。」への動揺 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になってや子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。・・・それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。 識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間とし

    なぜ知識人は「希望は、戦争。」に動揺するのか 戦争の消失1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/07/24
    先進国と発展途上国では命の重みに差がある=リベラルの*臨界(タブー)。“ナショナリズムはその極限でリベラルを解体する。”
  • なぜ最初はネタがベタになるのか 「秋葉原無差別殺傷事件」雑感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    自らが「彼」になるのではないかという恐怖 「秋葉原無差別殺傷事件」の衝撃が続いている。あの事件の衝撃の大きさはなんといっても犯人があまりに「普通」であるということだろう。このような衝撃的な事件は社会的な不安を引き起こし、人々はその原因を求めようとする。それは非日常的で異常であるほど安心する。「自ら」とは関係がない別の異常な世界の出来事となるからだ。 親の過剰な期待、派遣での厳しい待遇、あるいはイジメ、そしてオタク、彼女ができないなどが上がっているが、どれも「彼」を異常な世界へと排除する決定力に欠ける。 そうすると隣にいる人が「彼」になりえる可能性がある。そして「彼」のような気持ちは「自ら」の中にもある。ただからほんの少しのことで「彼」になるのではないか、ということに恐怖する。誰もが彼が言った愚痴のような疎外を味わったことはあるだろう。その意味でのあまりに身近に感じてしまう。だからこそ怖いの

    なぜ最初はネタがベタになるのか 「秋葉原無差別殺傷事件」雑感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/06/17
    “矢追純一って、UFO番組のディレクターというだけだったのに、いつもなにかUFOを呼べるとか言い出した。”媒介者は神聖性を帯びる(貨幣しかり)。こうしてネタがベタになってゆく
  • 「女は存在しない」とはどういうことか 現実とはなにか5 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    女は「ドラマ(劇)」を好み、男は「ゲーム」を好む 「女性」はムードを大切にすると、よく言われる。これは先の「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」というコンテクスト分析でいえば、「ドラマ(劇)」を重視するということがいえるかもしれない。「女性らしさ」とはこのような場の空気(コンテクスト)に敏感で、柔軟に対応し、緊張を緩和する姿勢とも言える。性関係でいえば、性行為そのものよりも、それを取り巻く背景から、快感をえる。 それに対して、「男性」は「ゲーム」としてのコンテクストを重視する傾向があるといえるかもしれない。場の空気を気にするよりも、行為を訓練して場のルールを身につけ、上達することに好む。性関係でいえば、行為そのものをスムーズに、そして女性に快感を与えたという結果に快感をえる。 男性雑誌によくある「女をイカせるテクニック」などの記事に象徴的だが、女性の身体に快感のポイント=スイッチを求める。その

    「女は存在しない」とはどういうことか 現実とはなにか5 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/04/22
    “このような懐疑からわかる事は、コンテクストとは認識論であるということ。さらに言えば独我論。みなに共有された明確なコンテクストというものがどこかに存在するわけではなく、それは主体の中にしかない。”
  • 快感を訓練するとはどういうことか 現実とはなにか3 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    僕らはどのように歩いているのか ボクたちは日々当たり前のように歩いている。坂道でも、凸凹道でも、足下に障害物があっても、苦もなく歩いている。走り、飛び跳ねることも問題がない。しかしロボット工学が教えることはこのような当たり前のことがとても複雑な行為であるということだ。僕らはどのように歩いているのか。どのように歩いているか、説明などできない。「ただ歩いているだけだ。」 しかし僕たちは生まれたときから歩けたわけではない。人の子供は生まれて1年程度で立ち上がり歩き始めるが、それから一人前に走る前には数年かかる。あまりに当たり前となるが、歩くとは訓練する行為である。 では、二足歩行をしない共同体は存在するのか。恐らくいないだろう。人間は二足歩行する動物である。それは他の動物のように4足歩行するよりも二足歩行することが効率的であるように身体構造によって拘束されている。 しかしいま一般化されている歩き

    快感を訓練するとはどういうことか 現実とはなにか3 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか 動物化とスノビズムと村上春樹風(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 動物化とスノビズムと村上春樹風 2 村上春樹風超人とオタクの自己組織化 3 なぜ動物は死なないのか 4 村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか 1 動物化とスノビズムと村上春樹風 不安と孤独の強度 現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。 この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、すみやかに逃亡を手助けする。 なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資主義経済が成立するのはこのような原理によるとともに、資主義経済は自由と平等と言う名

    なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか 動物化とスノビズムと村上春樹風(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/03/12
    動物化/スノビズムに加え、村上春樹風(=ハードボイルド、タフさ)を提起
  • 脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    *所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。 1 収束(主体)−拡散(動物) 2 否定神学/脱構築 3 マクドナルド化と動物化 4 収束−発散構造論 5 終わりなき連鎖としての否定神学−脱構築 1 収束(主体)−拡散(動物) 1) デリダの構造論と倫理論 たとえば「日人」を考えましょう。日人は、「日人」に対して、「われわれ日人というのは・・・」「日人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。 デリダはこれを形而上学と呼びます。「日人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。 脱構築とは、このような形而上学に対

    脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    mn_kr 2008/02/27
  • なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? 北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」 <収束するポストモダン その1> - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    嗤う日の「ナショナリズム」 北田暁大「嗤う日の「ナショナリズム」」(2005/02)ISBN:4140910240。60年代から現代まで、連合赤軍から2ちゃんねるまでを、「世界と自己の関係性を測定する行為としての「反証」を歴史的に振り返」っている。あとがきにも書いているが、論理の正当化のために、あまりに限られた点を繋ぐという、「有徴的な素材を選択してしまった」と「反省」されているように、あまりに軽快に物語が語られすぎていると、思う人は多いかもしれない。 書における区分は以下のようになっている。 ①60年代〜70年代前半 自己否定から総括へ 連合赤軍 世界と自己、主体との関係を再帰的に問う、という近代人であることの要件を、極限まで突き詰めた連合赤軍の「総括」 ②70年代なかば〜80年代初頭 消費社会アイロニズム=(60年代への)抵抗としての無反省 コピーライターの思想 性急な反省を迫る

    なぜ2ちゃねらーは「藁(わら)い」ながら「没入」するのか? 北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」 <収束するポストモダン その1> - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司・北田暁大(2005) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    楽しみにしていた「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学」宮台真司 北田暁大 ISBN:490246506X、早速読んでみた。大変おもしろい内容になっている。特に後半の「人間でありつづけるとは?」は、宮台、北田の世代論争も含めて、スリルあるやり取りが行われている。 第一の層 「動物」・・・環境管理のテクノロジーによって与えられる動物的生に充足する人たち 宮台  東浩紀「動物化するポストモダン」(2001)ISBN:4061495755「動物化する人間」・・・そこではもはや、近代の過剰流動性ががもたらす欠落体験が、埋め合わせとしての「人間」や「全体」−総じて物語−を希求させる、というふうに展開しません。 第二の層 「エリート」・・・環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち 宮台  過剰流動的で万物が入れ替え可能な社会。したがって、そこにいるだけで自分の輪郭も位置もわから

    限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司・北田暁大(2005) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    神話的暴力と神的暴力 「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄 (http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミンの「暴力批判論」、デリダの「法の力」による暴力論を考える。 ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。 ・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力 法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する 法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる ・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力 いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない 「暴力批判論」 ベンヤミン 前者(神話的暴力)

    なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    mn_kr
    mn_kr 2008/02/06
    ベンヤミン-デリダの思想と、東『存在論的、郵便的』での議論を接合