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思想に関するmn_krのブックマーク (372)

  • デスノとロールズ - short hope

  • ユートピア2.0 - short hope

    ジョン・スミスの新刊『ユートピア2.0』を読む。現在の文化状況と政治思想の双方を視野に収め、既存の思考に潜む陥穽を批判しつつ、新たな理論構築を試みている書。提起されてはすぐさま無数の問いへと開かれていく思考の種子がそこには散りばめられている。二部構成のうち、第一部は Culture、第二部は Politics と題されており、ある意味乱暴すぎると言えなくもないその論理展開は、しかし現代世界を席巻する閉塞を打破するためのロジカルな起爆剤と言い換えることもでき、けっしてその価値を貶めるものではない。それよりも、まずは新たなユートピアの見取り図を描ききってみせたその力技に驚嘆すべきだろう。また、風通しのよい論理の貫徹性を保ちつつも、その全てを到底追走することのできない領域横断的な知識の該博ぶりには舌を巻くほかない。第一部のキーワードは散乱性、断片性であり、第二部のそれは暫定性、仮設性である。スミ

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    mn_kr 2009/07/13
    架空の書物の書評というインテリな遊び。
  • デスノ型管理社会 - short hope

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    mn_kr 2009/07/13
    一つの思考実験として。“情報技術によって法の完全実行を可能にするこのような管理社会→パノプティコンの理念が技術的な達成によって完全に実現される場合、それはパノプティコンの消滅を帰結”
  • ベンヤミンのアレゴリー論への前哨 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    シンボルとアレゴリーとメタファーとアナロジーの違いは分かりにくい。アレゴリーは比喩と訳されることもあるが、それだとメタファーと区別がつかなくなる。レトリック(修辞)としてのメタファー(比喩)とは区別しないとしょうがない。認知科学ではメタファー(比喩)とアナロジー(類推)はセットで扱われる。つまり二つの事柄の持つ性質を比較対照する点で共通点を持つ。ただし、アナロジーでは性質の対応が明示に行なわれるのに対して、メタファーでは性質の対応は暗黙のうちに行なわれる(太陽系と原子構造、王様の勇敢さとライオンの勇敢さ)。しかしアレゴリーを比喩とするのは(一部を言い当ててはいるが)問題がある。 シンボル(象徴)の典型例は言葉である。言葉は別の何かを表している。これに対して、アレゴリー(寓意)は抽象的な何かを表すとすることがあるが、これだと問題が生じる。「鳩は平和の象徴だ」と言い方をするが、平和は十分に抽象

    ベンヤミンのアレゴリー論への前哨 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
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    mn_kr 2009/07/01
    “アレゴリー=ある対象に基本的に二義(以上)を同時に要求。寓話では登場人物は(字義通りには)ライオンを意味すると同時に(寓意的に)強きものを意味...ベンヤミン:商品=アレゴリー(多義を同時に持つ)”
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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    mn_kr 2009/07/01
    “コピペはオリジナルが増えたら、その創作物や編集物は指数関数的に増加します。そしてそれらのコピペは我々を豊かにしてくれます|コピぺをうまくつかい、皆で知恵を出し合ってコラボレーション”
  • 20世紀のフランス哲学とエピステモロジーの本質について - retrosectionblog

    エピステモロジーの質が何なのか、ということについて、僕はかれこれ7年近く考えてきたが、最近になって、ようやくそのポイントを一般的な仕方で表現するポイントをつかんだように思う。 よく言われるように、20世紀のフランス哲学にとって、陰に陽にエピステモロジーは中心的な役割を担ってきた。このことは、すでに日においても一般的に知られている事実であるといってもよいだろう(まだ言いすぎかもしれないが)。少なくとも、バシュラール、カンギレム、フーコーという名とともに、エピステモロジーという軸が実際に存在するということは、既知としてよいだろう。 しかし、さらにもう少しエピステモロジーについて知るようになると、そのあまりの多様性のために、一貫した思想運動のような統一性をそこにみいだすことが困難な印象を受けるようになる。そして、特に、欧米の科学哲学と比較する場合、その質の規定と差異の明示化が非常に困難

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    mn_kr 2009/06/26
    真理の問題について:英米系の哲学=言語とその分析を介して...論理学と真理条件と意味論の問題/ドイツ系の哲学=主体と主観と超越論的審級の問題/フランス哲学orエピステモロジー=必然性と生成と特異性の問題
  • 人情味溢れる冷たい秩序 | Wein, Weib und Gesang

    ラルフ・ダーレンドルフの死亡記事を読んでいて次ぎのような事を空想した。民主主義と市場経済への愛着は、その「クールなプロジェクト」の何処から生まれるのか。 どうしてもそこで、落語「道具屋」や寅さんの「売」を思い起こしてしまうのは私だけだろうか? 有名な落語の売れない道具屋は、お客さんが値を尋ねるとここぞとばかり一日の儲けとしてそこで現在の自己負債の全決済を果してしまおうと計算を始める。それどころか今後の身の振り方までがあれやこれやと考慮される。つまり、その商い自体に、道具屋の現在までの更にこの先の人生の総てが集約される事になるのである。 テキヤの寅さんの場合は、更に江戸っ子振りが徹底していて、宵越しの銭は持たない信条がある。そうなるとその日を面白おかしく生活することがなによりも尊重される。天気の悪い日には売り上げが上がらないことなどを先にたって心配する必要などはないのである。 ダーレンドルフ

    人情味溢れる冷たい秩序 | Wein, Weib und Gesang
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    mn_kr 2009/06/24
    “ダーレンドルフの主張は決してそうした楽天的なものではないだろうが、リベラリズムとはヒューマニティーに根ざしたものである⇒必ずしも環境政党と自由主義政党がお互いに受け入れられない理由は必ずしもない”
  • 【『1Q84』への30年】村上春樹氏インタビュー(下) : 出版トピック : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    小説 より力強く立体的に 『風の歌を聴け』で村上春樹氏が群像新人文学賞を受賞したのは1979年6月。30年間のうちに、作家と時代はどう変化したか。(尾崎真理子) 米小説と「距離」 ――1000ページもの長編は強靱な文体がなければ成立しない。チャンドラーの文章を「緻密な仮説ディテイルの注意深い集積」と村上さんは評されたが、『1Q84』の文章もまさにそうだ。 村上(以下M) 7年前の『海辺のカフカ』以降、古典の新訳を次々とこなした。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、それから『ティファニーで朝を』『グレート・ギャツビー』……どれも素晴らしい英語の文章。それをどのように日語に移していくか、翻訳家として責務を負える力がついたと判断してとりかかり、何とか乗り越えた。その代わり、同時代のアメリカ小説から遠ざかることになった。よそから新しい何かを学ぶ

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    mn_kr 2009/06/24
    “言語=誰が読んでも論理的でコミュニケート可能な「客観的言語」&言語で説明のつかない「私的言語」(ウィトゲンシュタイン)。私的言語の領域に両足をつけそこからメッセージを取り出し物語にしていくのが小説家
  • 草食系男子の憂鬱 - 内田樹の研究室

    大学の三年生ゼミは「草系男子」について。 先般、四年生のゼミでも同じ主題が取り上げられたので、彼女たちからするとかなり喫緊の課題のようである。 発表後とりあえず全員に聞き取り調査をして、「あなたが知っている草系の実像」についてご報告をうかがう。 いや、聞いてびっくり。 ゼミ生のほとんどの彼氏が「草系」なのである。 特徴は すぐ泣く。 拗ねる。 「どうせぼくなんか・・・」といじける。 かわいこぶる(齧歯類系の「かわいさ」を演じるのが上手) メールに顔文字をたくさん使う。 優柔不断で、「何べる?」「どこ行く?」といった質問に即答できない。 化粧品にうるさい。 肌を美白に保つことに熱心。 ヘア命(ヘアセットができてない姿を見られると、スッピンの女性のように身もだえするらしい) 家族と親密。 などなど。 こういう男子が20代に大量に存在しているらしい。 ううむ、そういうことになっているとは

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    mn_kr 2009/06/24
    未来を担保にするアンガージュな実存主義とは対極にある、ある種冷徹な計算高い(=様子見的)草食系男子という分析。実存主義と対比するのが炯眼。また自らの存在能力を信じるという点で前者の方が優位。
  • スターリニストなのでスターリンになりたくない(追記アリ - 地下生活者の手遊び

    では、sk-44氏への直接の応答をはじめます。 1 不運にもあやまちをおかした者は ひざまずいて自己批判し たりぬときは刑にふくした 罪の負担を軽くしようと 喜んで処刑される者もたくさんあった 行きづまった一人の作家が 自己の愚かさに思いあまって 「自殺します」と手紙を書いたら 「すこし休暇をとれば きみの病気もなおるだろう」と やさしく答えたスターリン 最高に人間的だった同志スターリン ……………… あの頃はよかった なんでも知ってるスターリンがいて なんでも単純だったから 風の方向に とまどいすることもなかったから ……………… 鮎川信夫「世界は誰のものか」 より抜粋 この鮎川の「世界は誰のものか」という詩には、Tvardovskyという人物の以下の言葉が添えられています。 「われわれの書きものの大多数に見られる根的欠陥は、真実を書いていないことである。何を書けば許され何を書けば許さ

    スターリニストなのでスターリンになりたくない(追記アリ - 地下生活者の手遊び
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    mn_kr 2009/06/24
    “私のごとき表現論における愚昧の徒は、その表現が結果的に成功しているとき、後付けでヒモを分離します […] 「シンドラーのリスト」も「川端康成」も、後付けで差別から切断されます。”
  • ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

    目次 ●ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上で苦しむ人と喜ぶ人 ●宇宙が熱平衡へ向かうように、人類社会は偉さの平衡(=平等)へと向かう ●ネットの誹謗中傷揚げ足取り炎上の3つの格差是正機能 ●この社会にエリートはいらない ●なぜエリートがいなくても、社会が機能するのか? ●経済体制の革命では「偉さ格差」は是正できないということは、歴史が証明している ●人類史上唯一Webだけが、共産革命という劇薬によってもなしえなかった根的な「平等革命」を引き起こす ●会社は社員を馬車馬のように働かせるために、「偉さ格差」を利用する ●権力者は、人々の「生活基盤を人質」にすることで、人々を支配する ●Webが人質を解放することで、人類史的な進化が引き起こされる ●Web革命によって斃される運命にあった梅田氏が、Web文明の旗振り役をやったという歴史の皮肉 ●梅田氏が「残念」と斬り捨てた日のWebの生態系こそが

    ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
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    mn_kr 2009/06/23
    “原理的に「偉さ格差」を是正できない「近代」に人々が愛想を尽かし、「偉さ格差」を是正する原理的可能性を秘めたひろゆき的なものに、新しい時代の可能性を人々が本能的に見いだしたからではないのだろうか”
  • 相互扶助論

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    mn_kr 2009/06/20
    クロポトキン『相互扶助論』:“パラパラの個人が無干渉に併存するというどこか淋(さび)しい理想をぼくたちは生きようとしているように見える。そんな時代にクロポトキンの『相互扶助論』はとってもまぶしい。 ”
  • 坂のある非風景 隙間によって結ばれるふたり

    知らない駅のプラットホームに立っている。もちろん彼女は、私のファンタジーの中に生きることはない。私はどうだろうか、彼女のファンタジーを生きられるだろうか。そういう瞬間さえきっと一度もないプラットホームに、列車がはいってくる。 忘れられない過去の恋人を見つめるハウスに「あなたは誰も愛せないのかと思っていた」とキャメロン。「わたしを愛せないだけだったのね。……安心したわ」 現在のアメリカテレビドラマのラブ・シーンは、そのことごとくが美しき屈折の世界である。屈折によってだけ耐えられる心理があり、その屈折によって破壊や滅びを防いでいる。「誰も愛せない男を愛する」とはどういうことだろうか。終りのない失恋の宿命を負うことである。しかし「わたしを愛せない男を愛する」ことは、そこで撤退できる愛に目覚めることだった。終わる失恋だったのである。 いつか終わる失恋にすぎないこと、それは、わたしが彼を愛さなくな

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    mn_kr 2009/06/19
    “隙間によって別れるふたりはもういない。現在のプラトニック・ラブは、隙間によって、恋愛の欠損によって結ばれるふたりを意味している。”
  • 夢をあきらめるということ - finalventの日記

    inspired by 夢をあきらめないということ 好きな学問を一生やっていきたいと思ったのは、 たしか大学一年生の時だった。 すぐさま書籍を買いこんだり勉強して それが成績に結びついたりして 俺の勘違いは始まった。 おれ、イケんじゃね? 成績がまんざらでもないことがが影響してか、 ただの勉強好き大学生に 奨学金とか来た。 (中略) ……挫折 ……失恋 ……騙し ……相続問題 ……事故 ……裏切り ……病気 (中略) それから20年経った。 人生ってのはわからないもんで、 ひょんなことから、 夢に諦めがついた 当にそれって自分の夢だったのかな そんな夢にしがみつきたかったのは 自分が空っぽだったからじゃないかな 海に面した断崖絶壁で ジュるジュると鼻水をすすりながら、 一人むせび泣いた。 夢と自分が思っていたものに ただ縛られていただけなんじゃないかな これからは夢じゃなくて 自分の人生

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    mn_kr 2009/06/19
    “夢と自分が思っていたものに ただ縛られていただけなんじゃないかな これからは夢じゃなくて 自分の人生を生きようと思った”
  • 「私バカだから」 ―「コンテンツ」/「消費」/「唯物論が欠けている」― - 白鳥のめがね

    短大で非常勤講師をしていた頃、受講生の中に気の合う子たちがいて、卒業してから、ときどき家に遊びに来ていた。 彼女たちは自分たちの飲みたいものを提げて来る。私には安い、でもけっこう美味しいワインを持ってきてくれる。そうしてちゃんと電車があるうちに帰る。 私たちは音楽小説やマンガやコンピュータの話をした。つまり、コンテンツとその消費のしかたの話を、主にしていた。 http://seepassyouagain.tumblr.com/post/114360676 結局、経済の裸の力が支配する反面、唯物論が欠けているわけです。(浅田彰) 週刊朝日緊急増刊 朝日ジャーナル p.24 それでも時折、彼女たち自身の話も出る。 そのときに私が驚いたのは、まだ二十歳であるはずの彼女たちが、あまりにも人生に期待していないことだった。 彼女たちは自分たちを愚かだと思っていた。それぞれが何度か「私バカだから」と言

    「私バカだから」 ―「コンテンツ」/「消費」/「唯物論が欠けている」― - 白鳥のめがね
  • 人文的教養と軽蔑+ - 白鳥のめがね

    書評を読めばダメな理由がわかる―二つの「知」と古臭い感性+8 - 白鳥のめがね で触れた はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日を変える「知」 について。 次のような言葉が出てくる。 自然科学者たちの、研究対象に対する畏敬の念は、門外漢にも伝わらずにはいられない。彼らを研究へと突き動かす力は、非科学的と言っていいほど感情的で、そしてその感情が畏敬である。私が知る限り、例外は一人もいない。 むしろ研究対象との「間合いの取り方」は、人文学者の方が「科学者然」としているようにすら思える。量子力学以上に、客観性が成立しづらい状況がそうしているのか、単に人文学者が鼻持ちならない人々なのかは無学者たる私にはわからない。が、少なくとも自然科学者からびしばし伝わってくる、あの研究対象に対する呪術的ですらある畏敬を、人文学者たちから感

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    mn_kr 2009/06/11
  • 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と山形・稲葉の新教養主義 - 韓流好きなtanakaの過疎日記

    何度もアマゾンのおすすめに出てきたのでたまたま書店で手に取る。毎回思うが、「時代」を語る上で必修である経済問題に対する想像力というか理解というか知識というかが、この種の論者には決定的に不足していることだ。 それは単純に不勉強だからだろう。どんなに取り繕ってもこの不勉強は今後この若い論者の可能性の足枷になる。人が「時代」と格闘しようとすればするだけこの取り繕いが彼の論説の限界を設定していく。それは高原基彰氏にも感じたことだ。それは残念なことだ。いや、むしろ僕はその不勉強ぶりを少し怒ってもいる。 例えば、その想像力、理解、知識の不足をなんとか補っても、話はよくあるパターン(小泉政権がもたらした構造なんとかのなんとか変化というベタなストーリー)に落ち込むのがせきのやまだろう。 以下に引用するように、「想像力、理解、知識の不足」は、例えば書の基的な認識を奇妙なものにするのに十分である。 「こ

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    mn_kr 2009/06/11
    “では、なぜ95年は重要なのか? それは日本の経済論壇のみならず、現在のアメリカの金融政策の動向さらには世界経済の行方にも大げさにいえば影響したある論文を読んでいれば明瞭である”という視点
  • 自己責任論再考 - 狂童日報

    個人の貧困の問題が「自己責任」であるか否かについて、知的な人たちや良識のある人たちの間では一蹴されているが、現実社会ではまだまだ根強いものがある。 それは決して理由のないことではない。世襲的な身分制度がそれになりに残っていて、貧しい農村に生まれ育った人たちが多かった時代に、その人の不幸が自己責任に着せられることは基的になかった。それは、生得的に押し付けられた伝統や貧困の問題であって、個人の問題では決してないことは暗黙の了解として存在していた。犯罪者に対してさえ、「育った環境が不幸だっただけで根は悪人ではない」という言い方がかなり通用していた。また知識界ではマルクス主義の影響力が強く、資主義は自由をもたらすのではなく人々の自由を抑圧するという理解が広く共有されていた。 ところが、1980年代以降になると目に見えるような厳しい貧困や差別は少なくなっていく。それなりに裕福なサラリーマンの家庭

    自己責任論再考 - 狂童日報
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    mn_kr 2009/06/10
    “自分が自分の人生に誇りをもつという意味ではまだわかるが自分が選択した道で不幸になった人は救済する必要が(少なくとも相対的には)ないという理屈になってしまうのはさっぱり理解できない”←∵資源配分的制約
  • 慨嘆 - Freezing Point

    古臭いルーチンをこなしていると、「仕事をした」とみなされ、ねぎらわれる。 気で内在的に取り組んで身を切るような言説生産をすると、趣味と思われる。 「何をすれば仕事をしたことになるか」の判断を、みんながサボっているのだ。

    慨嘆 - Freezing Point
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    mn_kr 2009/06/07
    “古臭いルーチン→「仕事をした」とみなされねぎらわれる。 本気で内在的に取り組んで身を切るような言説生産をすると趣味と思われる。「何をすれば仕事をしたことになるか」の判断をみんなサボっている”
  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point
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    mn_kr 2009/06/07
    “「私はアウトサイダー」と言うことの問題点=“本当に外側に排除される側としては、「内なのか外なのか」という境界線の策定にこそ紛争の焦点がある”|“働きに出ている人たちは社会に向けて排除されている。”