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ブックマーク / dosei3.no-ip.org/~uakira (14)

  • (引き続き)日本語練習中 - 『真性活字中毒者読本』に相応しい『嫁入り支度に教師三昧』の図

    柏書房から出てゐる『真性活字中毒者読』、この第1章に収められてゐる府川充男さんの講演録「日語組版の歴史」に、山田美妙『嫁入り支度に教師三昧』のとあるページが引かれてをります。『嫁入り支度に教師三昧』は近代デジタルライブラリーに在りますから、そちらから掲げておきませう。 「日語組版の歴史」が『嫁入り支度に教師三昧』にどういふ具合に触れてゐるかと言ひますと――、明治年間に活版が社会に浸透していく過程で、欧文組版から句読法が導入されていく、その一例として、かういふ話になってゐます: じつは句読点の遣い分けは読書法とともに文体(特に語尾の調子)と密接な関係があるはずです。図二十九、これは雑誌『都の花』第十七号の誌面の一部ですが、「警吏の尋ぬる問に対し開耶の答ふる素性を聞くに、当初小石川水道町に榛原左門と呼ばるゝ武士あり、夫婦二人に忠助とて名も相応しき忠僕と二人三人の下婢のありて、富めりと云

  • (引き続き)日本語練習中 - 補助漢字jointdata雑感

  • (引き続き)日本語練習中 - 秀英舎(製文堂)の五号平仮名は明治30年代半ばに急激なモデルチェンジを遂げる

    片塩二朗『秀英体研究』(平成16年12月、大日印刷)及び府川充男『聚珍録』(平成17年2月、三省堂)によると、秀英舎(製文堂)において、明治22年の『五号活字見』及び明治27年の『活字見類 未完成』並に推定明治29年の『活版見帖 未完』に見られる古い五号仮名が、明治36年の『活版見帖』或は明治43年の『活版見帖』に見られる新しい五号仮名へと、明治30年代から40年代にかけての時期にモデルチェンジされるやうです。 このモデルチェンジのタイミングあるひは変遷の度合ひについて、興味深いことに、『秀英体研究』と『聚珍録』の双方が共に明治38年に刷られた書物に注目してゐました。 『秀英体研究』pp.554-555に曰く 秀英体五号ひら仮名活字はほかのサイズと比較して、築地活版所の活字書風をもっともよく受け継いでいる。 一九一三年(大正二)S7『明朝五号活字摘要録』に掲載されたひら仮名は、

  • 以下は、板倉雅宣『和様ひらかな活字』(朗文堂「Vignette 03」2002)37 ページに掲げられている和様二号の 図に、千家尊福『教会撮要』(国会図書館蔵)から採集したものを併せて掲げたもの。 ��

    以下は、板倉雅宣『和様ひらかな活字』(朗文堂「Vignette 03」2002)37 ページに掲げられている和様二号の 図に、千家尊福『教会撮要』(国会図書館蔵)から採集したものを併せて掲げたもの。 板倉図の①は、府川充男氏所蔵の山口聚珍堂版『培養秘録』(明治 7 年)の和様ひらがな。②は點林堂『改正小 児養育心得』(明治 9 年)、大阪活版製造所『活字各種見』(明治 23 年 5 月)、新街活版所『新々長崎土産』広 告頁(明治 23 年 2 月)の和様ひらがな。③は大阪活版製造所『活字各種見』(明治 23 年 5 月)、『印刷雑誌』 大阪活版製造所広告頁(明治 24 年 3 月)の一般ひらがな。④は平野活版製造所『BOOK OF SPECIMENS』(明 治 12 年 6 月)の一般ひらがな。――とのこと。 板倉図で欠けていた和様二号のうち「ろ」「に」「ち」「ぬ」「わ」「ゐ」「ま」

  • (引き続き)日本語練習中 - 明治期のアンチック体活字を追ふ(1/2)

    先日ゴシック体の平仮名が普通に使はれ始めたのはいつごろかを調べてみようと思った出発点は、『朝倉漢字講座(3)現代の漢字』(2003/平成15年、朝倉書店、ISBN4-254-51533-2)の第6章「漢字のデザイン」(味岡伸太郎)に、次のやうな記述があるのを見たことにありました。 文組用のタイプフェイスは「空気のように水のように存在を意識させないこと」を目標としてデザインされてきた。しかし,存在を意識させる文字は当に美しくなかったのか,そして読みにくかったのか。 漢字と仮名をはじめとする複雑で不統一な言語を選択すること,それは実は日人の文字に対する素晴らしい感性の現れとは考えられないだろうか。一見不統一に見えるのだが,微妙なバランスで調和を創り出している。言葉を変えれば不完全な美,アンバランスの美,不均一の美,奇数の美,そして微妙にずれる調和,それらは全て,古い茶人が「わび」と呼んで

  • (引き続き)日本語練習中 - 明治期のアンチック体活字を追ふ(2/2)

    『富多無可思』の複写を見てみましたが,四十七頁に「五号アンチック形」として築地系の籠字様のフォントが掲載されているのみです。<br>キャラクタは「〇一二三四五六七八九十拾廿百千万電話第番號平旧月日基督教書肆章耶聖蘇靈類閏子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」。<br>また今日いうところのアンチック様の書体はすべて太仮名と名付けられています。<br>随って今田氏が躬ら該書の版面に当られたとは思えませんし,当られた上で書かれているのなら論外以前です。<br>仮説レヴェルにせよ“第一次資料”と“第二次資料”をごちゃごちゃにすると話がややこしくなるだけです。 今田さんの引用には「和字・漢字書体としては……」とありましたね。<br>随ってそもそもからして『富多無可思』は「アンチック」の初出ではありません。未ださんは築地かっっっぱんの使用例を御存知ないのですから。<br>我々印刷史研究者がタイプフェイスデザイナー

  • (引き続き)日本語練習中 - 謎の初期「本様」四号仮名

    鈍々と進めてゐる初期「様」仮名調査の備忘録。 かつて「秀英舎(製文堂)の五号平仮名は明治30年代半ばに急激なモデルチェンジを遂げる」で五号仮名の出現状況を調べた後、秀英四号の出現状況をも平行して調べようとしていて、調べ始めた頃は「秀英四号の最初期用例を探す」に記した通り秀英舎の印刷物に明治十年代後半から秀英四号風の仮名が少しずつ混ざっていくものと思っていたのだが、どうもそうでは無いようだ。 まず、明治十八年に秀英舎が刷った田口卯吉『日開化之性質』序文より。 紙面を眺めると、東京築地活版製造所の「和様」四号と「様」前期四号に、別系統の仮名(赤丸印)を混ぜたもののように見える。 続いて、明治二六年の井上円了『妖怪学講義緒言』より。 紙面を眺めると、これもまた、東京築地活版製造所の「和様」四号と「様」前期四号に別系統の仮名(赤丸印)を混ぜたもののように見える。 当初はこの赤丸印の

  • (引き続き)日本語練習中 - 0.2005.1112版

  • (引き続き)日本語練習中 - 明治三十一年四月改正の五号平仮名は後期五号

  • (引き続き)日本語練習中 - 秀英四号の最初期用例を探す

    秀英舎の最初期の活版印刷事業を支えたという製紙分社は、現在までに私が近代デジタルライブラリーで見た最初期の四号平仮名印刷資料において、和様と築地前期四号の混合セットを用いている。 明治十二年『神奈川県管内地誌略』(近代デジ) 明治十二〜十三年『小学通常物件問答書』(近代デジ) ここから秀英舎がどういう筋道を辿ったか、「経済雑誌社」「鴻盟社」等々のキーワードを手がかりにして散策してみたことがあるのだが、明確なところは判らない。また、製紙分社の状況についても、キーワード「製紙分社」で抽出される資料があまりに少なく、何も判らなかった。 このあたりについては、印刷物だけでなく、印刷史の資料――当時の事情について記したテキスト――の手引き無しには、なかなか進みようのない、道があるのか無いのか判らない場所だという印象だった。 ともあれ、散策中に出会った幾つかの印象的な資料について、メモを残しておく。こ

  • (引き続き)日本語練習中 - 博聞社の四号平仮名活字について

    昨年来ひそかに追いかけていた博聞社の活字書体に関するメモ。 二〇〇七年三月現在、近代デジタルライブラリーで「博聞社」をキーワードに指定して検索されてくる資料が二八三点ある。国会図書館のOPACで出版者の項を「博聞社」に指定すると、三二三件がヒットする。 近代デジタルライブラリーでヒットする二八三点と、偶然出会った一点(出版者は博聞社ではないが印刷と発売を博聞社が請け負っている)と、別途探し出した一点の計二八五点を眺めた結果、私は、次の印象を持つに至った。 明治期の仮名活字のうち、明朝漢字と楷書漢字のどちらとも組み合わされる仮名書体を、今田欣一氏の用語に倣って「様仮名」と呼んでおくと、博聞社が関係する印刷資料のうち平仮名活字を用いたものは、初期様仮名の成立事情を考察するのに不可欠な資料群ではなかろうか。 また、四号平仮名について「博聞社型」の活字書体を仮定・措定できれば、印刷会社としての

  • (引き続き)日本語練習中 - 最初期和文アンチック体活字のこと

    語テキストを印刷する活字書体のひとつに、アンチック体と呼ばれる書体があります。実際にアンチック体が使はれてゐる印刷物を探してみたり、電子活字の広告に記された売り文句を眺めてみたりしたところでは、主な用途は辞書の見出しであるとか、マンガのフキダシのうち平仮名の部分であるとか、幼児向け絵などといったところになるやうです。 藤井乙男他『帝国大辞典』より: このアンチック体は常にアンチック体と称されてきたわけではないやうです。例へば上記の『帝国大辞典』(1896/明治二十九年、三省堂)や棚橋一郎他『日新辞林』(1897/明治三十年、三省堂)などの見出しに使はれてゐる、秀英舎製文堂のものと思はれる六号サイズの肉太平仮名書体は、片塩二朗『秀英体研究』(2004/平成十六年、大日印刷株式会社)が掲げる推定1896/明治二十九年の製文堂『活版見帖 未完』や1903/明治三十六年の製文堂『活版見

  • (引き続き)日本語練習中 - ゴシック体の平仮名が普通に使はれ始めたのはいつごろか

    和文用のゴシック体活字(活字会社によりゴチック体あるいは呉竹体と自称されることもあり)が作られはじめた当初、漢字とカタカナはあったけれども平仮名は無かった。――といふことを、例へば近代デジタルライブラリーにも入ってゐる明治36年の東京築地活版製造所『活版見』を眺めることで、知り得ます。この見帳には、「ゴチック書体」は、2号〜5号の漢字と5号カタカナがあるのみで、平仮名はありません。 では、いつごろからゴシック体の平仮名活字が作られるやうになるのでせうか。 今田欣一さんが「和字 Revision 9」を生み出した『挑戦的和字の復刻』(朗文堂「Vignette」、2002年)に記されたところによると、明治42年の製文堂『五号ゴシック活字見』に、完成度の高い平仮名が出現するさうです。 明治の終り頃に活字見帳に現れたゴシック体平仮名が、実際に新聞・雑誌などで普通に使はれるやうになるのは、い

  • (引き続き)日本語練習中

    人気の日記プラグインと はてなブックマークカウンタープラグインを http://www.machu.jp/trac/wiki/HatenaBookmarkPopulerPlugin http://www.machu.jp/trac/wiki/HatenaBookmarkCounterPlugin 試してみます。 鈍々と進めてゐる初期「様」仮名調査の備忘録。 かつて「秀英舎(製文堂)の五号平仮名は明治30年代半ばに急激なモデルチェンジを遂げる」で五号仮名の出現状況を調べた後、秀英四号の出現状況をも平行して調べようとしていて、調べ始めた頃は「秀英四号の最初期用例を探す」に記した通り秀英舎の印刷物に明治十年代後半から秀英四号風の仮名が少しずつ混ざっていくものと思っていたのだが、どうもそうでは無いようだ。 まず、明治十八年に秀英舎が刷った田口卯吉『日開化之性質』序文より。 紙面を眺めると、

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