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ブックマーク / www.hakusuisha.co.jp (14)

  • 写本の文化誌 - 白水社

    が手書き一点物だった時代の書籍文化誌 材料の調達から作品の政治的意味までを語る 写製作にあたり注文主が、作者が、書記が、各種職人が果たした役割や、できあがった写がもった政治的意味、さらに傑作「マネッセ写」を生み出した文芸マネージメントまで、写をめぐる文化活動をわかりやすく解説する。 巻物から冊子体のいわゆる写へ主流が移ったヨーロッパ中世の始まり、それはデジタル時代・活字印刷の誕生と並ぶメディアの革新、つまり口述から書記への転換の始まりでもあった。書は、物としての写の材料と作られ方、製作にかかわった注文主・詩人や知識人・修道士や職業書記らの実態から、手にした人がをどう読んだか、と書かれたテキストの双方がもった政治的役割まで、当時の社会におけると、をめぐる文化・社会的状況を、さまざまな角度から解説する。 なかでも、一種の文芸マネージメントから生まれた傑作・マネッセ写

    写本の文化誌 - 白水社
  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「鉄道王国の歩み」 第2回 京王電鉄(2)

    執筆者プロフィール ●「路面電車類」から郊外電鉄へ 京王電気軌道はトロリーポールを上げた40人乗り1両編成の電車で始まった。大正2年(1913)4月15日に笹塚〜調布間を開業した頃の電車の写真が『京王帝都電鉄三十年史』に載っているが、前面下部に事故防止用の網が付いた典型的な当時の単車(2軸4輪)で、明治村にある京都市電の車両とそっくりだ。 それでも東京市とその周辺の人口は大正に入って着実に増え続けており、開業当初は苦しい経営を余儀なくされた京王電気軌道にも徐々に乗客は増え、大正9年(1920)からはボギー車(4輪の台車が2つ付いた車両)を導入、輸送力増強を進めていく。電車が走る3か月前の同2年1月から始まった電気事業も7年後の同9年上期には沿線28町村に供給、開業時の20倍にあたる20,231灯に発展した。 大正12年(1923)9月1日の関東大震災では東京市の都心部が火災により大き

    satoschi
    satoschi 2013/02/09
  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「日本を定点観測する」 第9回 砲兵工廠の最寄駅から大阪北東のターミナルへ ─ 大阪・京橋

    執筆者プロフィール ●京街道に架かる京橋は大阪の東口 「東海道五十七次」という言い方がある。これは江戸を起点とする東海道の来の終点である京から大坂(大阪)への区間を含めた言い方で、伏見・淀・枚方・守口の4宿を足して57になるという(厳密には京都の手前、逢坂関の西にあたる追分で分かれるのだが)。 この道は大阪から京都へ通じる路なので京街道と呼ばれており、その道が寝屋川を渡る地点に架けられたのが京橋である。擬宝珠勾欄(ぎぼしこうらん)の公儀橋、つまり幕府が管理する橋で、「八百八橋」などと称される大坂で12しかなかった公儀橋のひとつであり、その重要度がわかる。ここには中河内方面からの寝屋川の水運も通じており、古くから大阪の東の玄関口として位置づけられていた。それにしても現在の京橋駅が橋より1.2kmも東に離れているのはなぜだろうか。 図1 1:20,000「大阪東北部」明治41年測図×約2

  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第34回 日清戦争で登場した線路

    山手線は日最古の私鉄・日鉄道が明治18年(1885)に開業した品川〜赤羽間の路線がそのルーツである。当時は新橋〜横浜(現桜木町)間の官営鉄道がすでにあり、日鉄道の上野〜熊谷間も同16年から営業していた。ところが上野と新橋の間には江戸以来の市街地が広がっていて、線路をつなぐのは容易なことではなかった。上信越方面の生糸などの産物を横浜港へ運ぶため、まだまだ農村風景の広がっていた渋谷や新宿、つまり山手を経由して線路が敷設されたのである。 当初は新橋駅から品川を経て赤羽まで、蒸気機関車が牽く列車が1日数往復するだけのローカル線で、開通初年度にできた途中駅は目黒、渋谷、新宿、目白、板橋のみであった。環状運転されるようになるのは大正14年(1925)11月からなので、まだだいぶ先の話である。 東海道線が全線開通するのは明治22年(1889)。その5年後に勃発したのが日清戦争である。朝鮮半島

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    satoschi 2010/11/30
  • 東京のハーケンクロイツ - 白水社

    1945年5月、ヒトラーの追悼式が東京と中国の天津で行われた。なぜ国から遠く離れた異国の地に住むドイツ人がナチズムに向き合い、それを受け入れたのか。政治と距離を考える一冊。

    東京のハーケンクロイツ - 白水社
  • 白水社 :連載・エッセイ 「クレオール語をはじめて聞いた町から〜ポルトガル・コインブラだより」市之瀬 敦

    市之瀬 敦(いちのせ あつし) 1961年、埼玉県生まれ。外務省在ポルトガル日大使館専門調査員を経て、上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授。留学先で出会った、美しいけれど、どこか悲しいポルトガル・サッカーの虜となる。好きなチームはベンフィカ・リスボン、リバプール、浦和レッズなど。なぜか赤いユニホームを着るクラブが多い。ポルトガル語学、クレオール諸語研究とともにポルトガル社会論、ポルトガル語圏アフリカ文学に関する研究もおこなう。著書は『ポルトガル語のしくみ』(白水社)、『出会いが生む言葉 クレオール語に恋して』(現代書館)、『ポルトガル・サッカー物語』(社会評論社)、『ポルトガル 革命のコントラスト』(ぎょうせい)など多数。

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    satoschi 2010/09/02
  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第27回 終戦直後の東京

    昭和20年(1945)8月、東京には数度の大空襲による焼跡が広がっていた。その焼跡にはバラックが建ち、闇市が進出を始める。筆者の母方の祖父は世田谷の上馬に住んでいた。空襲の被害が少なかった世田谷区なのにその一帯は運悪く焼かれ、家を失った祖父母は横須賀市へ転居した。爆撃機が身軽になるため適当に人家のあるあたりへ落としていった、という話は聞いたことがあるが、これといって目標らしい目標もない上馬の空襲はその類かもしれない。いずれにせよ、メインの標的であれ「捨て爆弾」であれ、一方的に殺された多くの東京都民が浮かばれないことに変わりはないが。 国土地理院の前身である陸軍陸地測量部は昭和10年代、「大日帝国」の勢力圏の拡大に伴って外地の測量に追われていた。そのため土の経年変化を反映させるべき地形図の修正作業は滞り、「帝都」の地形図でさえ昭和7年頃から手が付けられていなかった。昭和7年といえば、1

  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第26回 地名に残る「戦争の時代」

    東京・隅田川には多くの橋が架かっているが、その最下流にあるのが勝鬨橋(かちどきばし)である。完成は昭和15年(1940)だから今年でちょうど70年を迎える。この橋は大きな船が通るときにまん中から2つに割れ、橋桁を斜めに上げて水路を確保する「跳開橋」(ちょうかいきょう)であるが、自動車の交通量激増の影響もあって昭和45年に試験のために跳開されたのを最後に、それから40年間動いていない。それでも重厚な姿は町のシンボルになっている。 この橋の名は、架橋以前にここで両岸を結んでいた渡船・勝鬨渡(かちどきのわたし)にちなむもので、明治38年の1月、日露戦争で旅順が陥落したのを記念して命名された経緯がある。今はその東詰の町名が「勝どき」という漢字かな交ぜ書き地名になっているが、町名が月島通などから変えられた昭和40年(1965)に「鬨」という字が当用漢字でなかった、というのが理由である。 「鬨」は

  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第25回 「不要不急」とされた鉄道

    戦争末期の昭和19年(1944)に部分修正が行われた5万分の1地形図「横須賀」のうち逗子付近である。紙質も印刷の状態もよくないが、発行されたのは戦後の混乱期の昭和22年(1947)。紙もインクも人材も極度に不足していた頃だから当然かもしれない。このエリアは東京湾口を睨む海軍の横須賀鎮守府がある要塞地帯で、地形図は大正以前から長らく一般人が入手できない状態であり、ようやく市販できるようになったのが戦後のこの時期だったのである。 現在は逗子市だが、自治体名が見当たらないのは前年に横須賀市に編入されていたため。当時は軍事的に拠点となる自治体に対しては国が「強制合併」させることがあり、旧逗子町も海軍軍需部の倉庫、いわゆる池子の弾薬庫(現在は米軍住宅)などが存在したためか、編入が行われている。ちなみに戦後になって住民による「分離独立運動」もあり、昭和25年になってふたたび逗子町となり、同29年に市

  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第23回 ポーランドを引き裂く「獨蘇新国境」

    図1 ポーランド付近 「最新欧羅巴現勢図」読売新聞社編 昭和14年10月25日発行 地図はすべてクリックすると拡大します 「欧州情勢は複雑怪奇」という名文句(?)を残して平沼騏一郎が内閣総辞職をしてちょうど8週間後に発行されたのがこの地図である。共産主義の拡大を懸念し、ソ連を仮想敵とすることで利害が一致したドイツと日は1936年(昭和11)に「日独防共協定」を締結した。にもかかわらずドイツは1939年8月23日に突如ソ連と「独ソ不可侵条約」を結んでしまう。これは世界中に衝撃を与えたが、苦戦していたノモンハン戦争の最中であった日にとって、共通の敵であるはずのソ連とドイツが談合したことは驚天動地の出来事だっただろう。不可侵条約締結の翌24日からノモンハンのソ連軍は大々的な反撃を開始、結局は日軍・満洲国軍の負け戦となる。 ドイツは1939年(昭和14)9月1日にポーランドに侵攻、ソ連軍

  • Q945 ハドリアヌス帝 - 白水社

  • 白水社 :連載・エッセイ 今尾恵介「地図で読む戦争の時代」 第15回 地図上の大きな円形エリア

    中山競馬場の東隣の地域に丸い一画がある。半径ちょうど400mのきれいな円を描く道路に囲まれており、東側にはわずかな窪みがある。中央部には蝶ネクタイのような形をした行田公園があり、その北側は税務大学校や行田中学校、南側は行田団地と行田東・行田西の2つの小学校。西端にはJR武蔵野線がかすめているが、西側には中山競馬場の長円形、南東には日建鐵船橋製作所の長方形の敷地があって、地上に描かれた「3つの図形」は地図で見ても衛星画像でもよく目立つ。 競馬場の長円と工場の長方形はその目的に合致した形なので謎でも何でもないが、団地や学校が真円の道路で囲まれていなければならない理由はないから、何らかの目的で真円形に区画された中に施設があり、その後使用されなくなって「跡地」になったことは明らかだ。武蔵野線が弧の一部に中途半端に侵入していることから、この線ができた昭和48年(1973)にはすでに「跡地」だった

  • Q943 大聖堂 - 白水社

  • 白水社 :連載・エッセイ 「地図から見た戦争」今尾恵介

    今尾恵介 1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退後、管楽器専門誌「パイパーズ」編集者を経て、1991年よりフリーとして地図・地名・鉄道などについての執筆活動を開始。著書に『世界の地図を旅しよう』(白水社)、『地名の社会学』(角川選書)、『住所と地名の大研究』(新潮選書)など多数。2008~09年に『日鉄道旅行地図帳』(新潮社)の監修をつとめた。現在、(財)日地図センター客員研究員、日国際地図学会評議員、関東学院大学非常勤講師(地図学)。

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