昨日、天井桟敷のプロデューサーだった九條今日子さんが亡くなった報を受けました。 僕はアップリンクを設立する前に10年間天井桟敷で舞台監督を務めていました。 僕が天井桟敷に入団したのが1974年、その年に作られた『田園に死す』はカンヌ国際映画祭のコンペに出品された。当時、僕は19歳で劇団の研究生だった。今ではアップリンクの仕事でカンヌ国際映画祭にいくようになったが、当時研究生の僕はそんな華やかな世界は全然知らなかった。 今のアップリンクは僕の天井桟敷での経験なくしてはありえません。映画の仕事を始めることができたのも、あのとき訳もわからず、映画の制作の現場にいたり、劇団のアトリエで16ミリフルムを廻して上映していた経験があったからこそです。 九條さんはプロデューサーだったので、舞台監督の僕は、演出の寺山さんよりも具体的な仕事を教えてもらったことをいくつも思い出します。 ご冥福をお祈りいたします
DJ David Morales has shared a letter from Barack and Michelle Obama to the friends and family of Frankie Knuckles. Considered the godfather of house music, Knuckles died earlier this month. Morales, whose Def Mix agency represented Knuckles, posted a scan of the Obamas’ letter on his Facebook page [below]. Barack served in Chicago, Knuckles’ hometown, for many years, and has met the DJ before [see
Before a long vacation: A tribute to Eiichi Ohtaki 図書館が消えた。ポップスだけでなく音楽全般、芸能、日本映画、お笑い、野球、相撲、オーディオ&ヴィジュアル機器などの、まさしく知識の宝庫であり、世界に類を見ない図書館が、昨年の末に忽然と消えた。単に一人のミュージシャンがこの世を去ったというのではなく、本当に価値ある稀少な図書館のような存在が消えてしまったという思いを抱く。この図書館の名称は、〈大瀧詠一〉。〈大瀧詠一〉と共に大滝詠一、多羅尾伴内、笛吹銅次、厚家羅漢………これらすべてが消えてしまった。ただし、莫大なアーカイヴを残して。 音楽活動だけに限っても、大滝詠一は日本語のロックを切り開いたミュージシャン(シンガー・ソングライター)の一人であるばかりか、レーベルの主宰者であり、プロデューサーであり、エンジニアであり、アレンジャーであり、ソン
司会者「大滝詠一さんが亡くなったそうです。享年65歳でした」 kenzee「ホントに今年はミュージシャンの訃報が相次いで、とくに日本のポップスを作ってきた第一世代の人々が亡くなった。キーボーディストの佐藤博さんにはじまって年の瀬にムーンライダースかしぶち哲郎さん、達郎ドラムでオナジミの青山純さん、で大晦日に大滝さんの訃報て…。未だにネタとしか思えない。「ナイアガラ・カレンダー」の作者がこのタイミングで亡くなるなんて」 司会者「死因は解離性動脈癌ということです」 kenzee「とはいえ、9月には坂崎幸之助さんのFMのラジオにはゲストで出演されてたし、「「アメリカン・ポップス伝」をまとめなくちゃならん、ということで今は福生のスタジオで毎日ドゥーワップ聴いてるよ」という話をされていた。無論、2014年には1984年の、今となってはラストアルバムの「EACH TIME」の30周年記念盤の発表などの
本日は、大瀧のラストワークとなるアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日であり、1981年に名作「A LONG VACATION」がリリースされた日。その後のカタログもほぼ同日の発売だったように、大瀧が強いこだわりを持っていた日だった。また会場となったSME乃木坂ビルは、地下にレコーディングスタジオがあり、大瀧は晩年ここでほぼすべての仕事を行っていた。仕事場として思い入れのある、彼にとって東京の自宅と言っても過言ではない場所ということでお別れ会の開催地に選ばれた。 会場には、菊、蘭、ユリの花などで彩られた祭壇の上に大瀧の遺影が飾られていた。遺影は1982年(当時34歳)のTBSラジオ「ゴー!ゴー!ナイアガラ」収録時の写真が、遺族の意向によって選定された。会の初めには黙とうが捧げられ、主催者代表としてソニー・ミュージックレコーズ代表取締役の村松
忌野清志郎の訃報について、数えきれない方々の悲しみの声を挙がっている。その様々の中でも、ラジオの生放送中にその訃報を知ってしまった人がいた。ライムスターの宇多丸である。清志郎とライムスターと言えば、「雨あがりの夜空に35」という共作曲があるほど。そのライムスターのメンバーである宇多丸が担当しているラジオは土曜の21:30〜24:30の生放送。まさに第一報が入ってきた時間帯に放送していたのである。その日はちょうど宇多丸氏がギャラクシー賞を受賞したという話題でもちきりだった回。そんな浮かれ気分から、一気に失意のどん底に落ちてしまう宇多丸師匠の声がとてもリアルに流れてくるのです。臨時ニュースの原稿を目にして「ハッ!」としてしまう瞬間、その後に思わずつぶやいてしまう言葉、そして今まであれほど雄弁だった口調が急に言葉が出なくなり動揺している様などなど。その模様を書き起こしてみました。 ライムスター宇
ライムスター宇多丸さんがラジオ ウィークエンド・シャッフルで亡くなったばかりのラッパーTim Dogについて、こんな感じで話していました。 (宇多丸)今日はオープニングトーク、盛りだくさんで行きたいんで。というのは、今日でないと話せない話があって。そしてなおかつそれは、(次週の)スペシャルウィークでは絶対にかけられない曲をこれからかけようと思いますので。何かといいますと、ちょっとアメリカのヒップホップの話をさせてください。 アメリカのヒップホップ界のラッパー、それもベテランの部類に入る古いラッパーなんですけど、Tim Dogさんという方がおりまして。この番組でも一回ぐらい名前出したことあるかな?僕、とにかく何かっていうとTim Dogの話はするので・・・という方がいらっしゃいまして、この方がさる2月14日、バレンタインですかね、46歳の若さで糖尿病でずっと闘病されていたみたいなんですけど、
昨日は収録時を狙われた様な大雨で(いやもう、本当にお越し頂いた皆様、この日ばかりはいつもよりも大目に有り難うございました)、というのは、終わったら数時間を待たずに、ウソの様にピタッと止んだからですが、4日連続イベントの幕開けがコレかー。と苦笑していたら、2日目のピットインに入るなり、PA席に花が飾られていて、ワタシは一人で黙祷してから演奏に入りましたが、この演奏がなかなかヤバく、良い調子で打ち上げで飲み食いしまくって更に体重を上げ、今日のDJなんかもう最高で、なんて天才なんだオレは。と感動していたのですが、最初のフロアはイースタンユースのライブが見たい人々に完璧なシカトを喰らい(笑)、二回目はクラムボンが見たい人々に、もっと物凄いシカトを喰らい(笑・あれほど激烈なシカトを喰らったのは初めてかも)、もうオルタナティヴ・トーキョー(イベント名)なお若い人々は、オレの事なんかどうでも良い以上に、
山口小夜子さんの訃報がはいったばかりだったのに、今度は富樫雅彦さんの訃報が。命日はリュック・フェラーリと同じ8月22日だそうです。 富樫さんとの共演は2001年3月に一度だけ新宿のPITINNで。メンバーは富樫さんとわたし以外に、杉本拓、石川高、Sachiko M、大谷安弘。素晴らしい演奏だったと思いますが、富樫さんがどう思っていたのか、多分、勝手な予想だけどあまり気に入ってなかったんじゃないかな? フリージャズ的なことはまったく起こらず、いわゆる音響的といえるような即興がひたすら展開したライブで、わたし個人は、その当時富樫さんがやられていたフリージャズ的なものよりも、こういう方向のほうが、より富樫さんのよさが出ているのでは・・・と思ったんですが、その後比較的すぐに演奏の現場を引退されたこともあって、御本人とそのことについて話す機会というか、お会いする機会そのものがなかった。なので、いった
フリー・ジャズを代表するドラマーのロナルド・シャノン・ジャクソンさんが亡くなられました。 Ronald Shannon Jackson, a drummer and composer who worked largely within the realms of free jazz, funk and fusion, died Oct. 19, in Ft. Worth, Tex. Jackson’s passing was confirmed by his cousin, Tobi Hero, on Jackson’s Facebook page. Jackson was suffering from leukemia and had been living in a hospice. He was 73. 出典:Drummer & Composer Ronald Shannon Jac
ハリウッド映画には、アート的な人間ドラマというジャンルがあります。小説で言えば、純文学的なカテゴリであり、マーケットとしては大きくはありません。その一方で、こうしたアート的な映画、あるいはその中での演技というのは、それがオスカーの対象になることは多いわけです。 ですが、それは賞レースに組み込むことで、本来は小さな市場しかない作品群をムリに売り出しているわけではないのです。こうしたジャンルの映画があり、そこで人材を鍛えるというシステムがなければ、ハリウッドというビジネス全体のクオリティが確保できないわけで、その意味ではこうしたアート系の映画を、アメリカの映画産業としては真剣に制作しているのだと言えます。 悪いことではありません。むしろ、必要なことだと言って良いと思います。日本で言えば、古典芸能の世界と芸能界の関係に近いかもしれません。また、こうしたアート系の映画で活躍する「演技巧者」の人々は
米国のフォーク歌手で、反戦などの社会運動でも知られたピート・シーガーさんが27日、ニューヨーク市の病院で死去した。94歳だった。AP通信が伝えた家族の話によると、数日前から入院していたという。 1940年代から活動を始め、「天使のハンマー」「ターン・ターン・ターン」などを作曲。代表曲「花はどこへ行った」は、ベトナム戦争に抗議するフォークソング。賛美歌だった「ウィ・シャル・オーバーカム(勝利を我らに)」を、60年代の公民権運動を象徴する歌として広めた。ボブ・ディランやジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリー、ブルース・スプリングスティーンらに影響を与えた。 政治的活動も活発で、共産党に在籍したことがきっかけで、50年代半ばから約10年間、米国のラジオやテレビから消えた。その後も公民権運動や反戦運動のほか、ハドソン川の浄化などの環境問題にも取り組んだ。(ニューヨーク=中井大助) ■音楽評論家
米ニューヨーク(New York)のマディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)で行われた自身の90歳の誕生日を祝うコンサートで歌う伝説的フォーク歌手ピート・シーガー(Pete Seeger)さん(2009年5月3日撮影)。(c)AFP/TIMOTHY A. CLARY 【1月28日 AFP】米国の伝説的フォーク歌手ピート・シーガー(Pete Seeger)さんが27日、死去した。94歳だった。 米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)によれば、シーガーさんは、1週間ほど前から入院していたニューヨーク・プレスビテリアン(New York Presbyterian Hospital)病院で亡くなった。老衰だったという。同紙は、シーガーさんが取り上げたテーマは米国の左派の関心を反映していたと伝えている。 シーガーさんは1940~50年代には米国
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