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石井弘寿に関するy_koutarouのブックマーク (3)

  • 石井弘寿、悲運のWBCマウンドも「自分の決断なので後悔はない」

    シリーズ「もう一度投げたかった」──石井弘寿(後編) MAX155キロの剛速球サウスポーとして、東京ヤクルトスワローズのクローザーを託された石井弘寿。日本代表メンバーとしても、2004年アテネ五輪で銅メダルを獲得し、2006年の記念すべき第1回WBCでは「王ジャパン」に選出された。 しかし、そのWBCの第1次ラウンド・韓国戦のマウンドで悲劇が起きる。肩に異変が発生した石井は、李承燁(イ・スンヨプ)に逆転ツーランを被弾。結局このシーズンはわずか11試合の登板に終わり、オフに手術に踏み切った。それは、一軍復帰を目指しての先の見えない日々の始まりだった──。 ■石井弘寿「もう一度投げたかった」前編はこちら>> 2011年、長いリハビリ期間を経て石井弘寿は現役引退を決めた 不揃いな小石を丁寧に積み上げる作業 ──2006年オフに肩の手術をしたあと、2007年は登板なし。2008年のイースタンリーグ

    石井弘寿、悲運のWBCマウンドも「自分の決断なので後悔はない」
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/04/30
    『『ちょっとおかしいぞ』と感じることがあり、そういうときには個別に話をしました。《中略》慎重に治したほうがいい選手と、リスクがあっても勝負しなければいけない選手がいます。それをしっかり見極めながら。』
  • WBCの悲劇。そのとき、豪腕サウスポー石井弘寿に何が起きたのか

    シリーズ「もう一度投げたかった」──石井弘寿(前編) 2006年、初めて開催されたWBCの日本代表メンバーに28歳の石井弘寿がいた。プロ7年目の2002年に最優秀中継ぎ投手に選ばれ、2005年には4勝37セーブを挙げたサウスポー。しかし、WBC第1次ラウンドの韓国戦に救援登板し李承燁(イ・スンヨプ)にホームランを打たれて降板。この試合で肩を痛めて......二度と155キロのストレートは投げられなかった。悲運のWBC元日本代表に肩の手術、完全復活を目指した日々について聞く。 2006年WBC韓国戦で李承燁に被弾。このとき異変が起きていた 2006年のWBC前、肩にも、ひじにも不安はなかった ──石井弘寿さんは1995年ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団しました。当時、捕手に古田敦也さん、投手陣には吉井理人さん、石井一久さん、高津臣吾さんなど、そうそうたるメンバーが揃い、監督は名将・野村

    WBCの悲劇。そのとき、豪腕サウスポー石井弘寿に何が起きたのか
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/04/30
    『驚きました。そこまでひどい状態なのかと。《中略》ことの重大さに気づいて、落胆しましたね。それまで大きなケガをしたこともなかったので、どうしていいかわからず……家族にも本当のことを言えませんでした。』
  • 【球界ここだけの話(645)】燕・平井「このままでは終われない」思いでつかんだ1236日ぶり勝利

    右肩の手術を乗り越えたヤクルト・平井諒投手(25)が、8月25日の中日戦(神宮)で3年ぶりの勝利を手にした。 延長十一回に登板。1回を無失点に封じ、味方の攻撃につなげた。すると、相手投手の暴投でサヨナラ勝ち。7年目右腕に今季初勝利が転がり込んだ。2013年4月7日のDeNA戦以来、実に1236日ぶりの白星だった。 試合後。初めて上がった拠地・神宮のお立ち台。平井はまず「初めまして、平井諒です」とあいさつ。続けて「1点も与えないよう、気迫で投げました。緊迫した試合で緊張感がありました。もう1イニング投げる予定でしたが、試合を決めてくれないかなと祈るような思いでした」と試合を振り返った。 長い道のりだった。平井は2010年、愛媛・帝京五高からドラフト4位で入団。150キロを超える快速球を武器に12年に1軍初登板を果たすと、22試合に登板した。右肩に痛みが発症したのは翌13年。同7月に右肩のク

    【球界ここだけの話(645)】燕・平井「このままでは終われない」思いでつかんだ1236日ぶり勝利
    y_koutarou
    y_koutarou 2016/08/27
    『「お立ち台に立てると思っていなかったので興奮しました。《中略》石井弘寿さんが引退試合で『一度もお立ち台に立ったことがない』と言っていて、中継ぎの投手には立てない場所なのかなと思っていました」』
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