週報 2024/04/28 川はただ流れている 4/20(土) 初期値依存性 さいきん土曜日は寝てばかり。平日で何か消耗しているらしい。やったことと言えば庭いじりと読書くらい。 ベランダの大改造をした。 サンドイッチ 一年前に引っ越してからこんな配置だったのだけど、さいきん鉢を増やしたら洗濯担当大臣の妻氏…
1.まず第一に、あなたは○○なんですか? 2.○○は実際に抑圧されているんですか?抑圧と呼んで捉えるに値する圧力なんですか? 3.社会的に、というマクロな視点と、あなた個人が、というミクロな視点を履き違えてませんか? 4.そもそも、あなたが本当に望んでいるのは社会的抑圧構造の改善なんですか?あなた個人の適応の改善ではないのですか? 5.マクロな社会の改善とミクロな自分の改善が食い違う時、それでもあなたはマクロを選べる程度にはご立派なんですか? 社会がどうなのか・マクロでどうなのかといった問題は、あなた自身の適応に関する問題とは必ずしも一致しない。一致しないのにそれらに固執したところで、あなた自身の適応を長期的に変化させる可能性はまずあり得ない。にも関わらず、自らの願望への問いかけや自らの処世の見直しには背中を向け、他人達がどうなのかやマクロがどうなのかを論じ続ける人達は、一体いつになったら
昨日に引き続き、「不真面目な元化学屋の戯言(現在法曹へ向けて学習中) - セクシュアリティ」に対する言及です。今回は、昨日書ききれなかった「性的少数者と異性愛者の間の摩擦や紛争に関して、『根本的な解決などない』というのは正しいのか?」という点についてです。 寛容たれという平等主義と粋すぎた均一化は、結局の所思想の押しつけになり、マイノリティもマジョリティーも根本的な解決から離れていって締まっている気がします。根本的な解決とは、根本的な解決など無いことを認めることだと思いますがいかがでしょう 単純な平等主義と均一化が問題を解決しないことには同意します*1が、そのふたつが問題を解決しないからと言って「根本的な解決などない」という結論に飛びつくのは論理的でないと思います。 あたしは、セクシュアリティの差異による摩擦を解決する根本的な方法は、マイノリティとマジョリティのそれぞれがエスノセントリズム
「あなた(たち)と私は同じだ。同じに考えて欲しい」 「あなた(たち)と私は違う。違ったものとして認めて欲しい」 このどちらも人は求める時がありますし、異なる状況では同じ人がどちらの願いも言ってしまうのかもしれません。ここだけ抜き出せば相矛盾する内容に見えますが、本当にどちらもありの時があるんじゃないかと思います。 たとえば知的障碍を抱えた子供を普通学級に入れたいと願う親御さんは「同じに扱って欲しい」とそこで思うのでしょうし、また同時に「ハンディキャップの分だけは庇って欲しい」と先生や学校に対して希望することもあるでしょう。それをわがままだと切り捨てる人もおられますが、そのケースごとの思いは考えればわかることができるだろうと感じます。原則として同じ存在と認めて欲しい。個別には扱いを考えて欲しい。それは何も特別のことではなく、私たち誰もが願い、そして部分的にも現実にあることなのですから。 これ
SF小説だよね? SF小説だといってくれ(泣) 内藤朝雄さんの著書『いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――』の発売記念キャンペーンブログいじめと現代社会BLOGを覗いて、いきなりひっくり返る。 “熱中高校”って、なんだ “管理教育”とかっていうレベルじゃないよ、東郷高校は。 怖い、怖すぎる・・・ 一人でこの怖さを胸にしまっておけなかった というだけではなく 「もしや、“この時代の価値観じゃ、このぐらいのことあっても仕方なかったでしょ?”なんて言い出す、若いお方が出てくるのでは?」と不安になり 一言。 わしは、内藤さんより2歳年下なわけで ほぼ同じ時期に都立の高校に通っておりました。 が。 体罰なんて、一切ありませんでした。 というか、わしの通っていた高校には “校則”というものがございませんでした。 当然、制服もありませんでした。 軍隊のような集団行動をとらされたこと
正直、これできちんとした応答になっているのか自信はない。ないけれども、素通りもできないので考えたことを書いてみる。赤木智弘(id:ClossOver)「「丸山眞男」をひっぱたきたい」について。 今日、飢えて死ぬ人がいる。今日、凍えて死ぬ人がいる。etc...。多少なりとも手を伸ばし、誰かの役に立つような何かをちょこちょことやってはみても、まだ全然足りない。一人の力はとても小さいから、また他人よりは自分のことの方が大事だから、できることをそれなりにやったとしても、いつでも全然足りない。だから、社会の仕組みそのものを変えようと考える。うまくいくかどうかさえ分からないのだが、しかし、仮にこれがうまくいったとしても、そのうまくいったその日までに死に行く人には間に合わない。明日、何もかもがうまくいくとしても、今日、死に行く人には間に合わない。 左派であるとは、こうした状況を変えようとする、ということ
以前から大手小町(発言小町)の回答が似たような内容になるのはなんでだろうかと思っていて。 ○助けて下さい。貯金を借りた私 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) (http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200601/2006013100068.htm) 去年から夫に内緒で始めた株で1000万以上損してしまい、その損を埋めるために去年夫婦の貯金だけでなく夫の独身時代の貯金から無断で借りて返済しました。もうどうしようもなかったんです。。。。 この質問は削除されたようです*1。 ほかの回答者と同じことをどうして答えるのだろうか 寄せられた回答は 「正直に話せ」 「離婚を覚悟しろ」 「働いて返せ」 「早く話すべきだった」 「いったいどうしてそんなに損失出したのか」 だいたいこのどれか。正論というか、「こんなアドバイスならい
"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか この人がどう思ってるかは知らないが、この人の周囲にいた大人達も立派な差別主義者だ。関わりたくない、アレは我々とは違うモノだ、という意識がある。 差別から平等へ向かう過程には大体3つの段階がある。 排除 病気化 一般化 人と違うものを異端とし、排除・弾圧するのが第1段階。「病気」として畏怖し、哀れみ、隔離するのが第2段階。社会を構築する以上確実に存在するものとして受け入れ、むしろその異物を同化できる社会を作るのが第3段階。ノーマライゼーションとも言う。 第2段階も立派な差別だと俺は思う。そして上記のエントリを書いた人は幼少期に、第2段階の人々によって差別意識を植え付けられてしまった。そうして植え付けられた意識はなかなか消せない。多分、彼女の周囲にいた人々も、幼少期から同じように差別意識を植え付けられてきたのだろう。ある意味で仕方がないのかもし
先日TBを送ってきたkeya1984氏が「住居の強制撤去について」というエントリを立てている。 まず、こと今件に関して言えば、国際人権規約および一般的意見7に抵触するものではなく、今件に先立つ政府回答の枠内に収まるものであろう。なぜなら、こと今回は「公園を占有していた居住施設の撤去」だからである。締結国を見てみたが、たとえばニューヨークのセントラルパークでもいいし、ロンドンのハイドパークでもいいが、公園内でホームレスが居住施設を建てることを認めているだろうか? 私は、これら諸外国でも公園内にホームレスはいるだろうと思うけれど、国内法にせよ国際条約にせよ、一般的に公園内に居住権を認めて住居の建設を許可している例はないと思う。当たり前であろう、公園という土地に対してそのようなことを法的に認めれば、誰だって勝手に占有して自分の土地建物にしてしまうのだから。行き場のない人の、仮の居場所としてどこま
非モテ系の人間が差別されても、それは「当然だ」と流されてしまい、ほかの差別のように取り合ってはもらえない。 ▼見下されたために過剰な非難を浴び、しかしそれは分かりやすい「差別」とは見えないため、集団で嘲笑されるままになる。 差別は、分かりやすい差別枠があるから差別なのではない。 人間をあるカテゴリーに囲い込み、「見るからに○○だな」「○○は傲慢だから」――勝手なカテゴリー属性で逆に規定してみせたとき、それはすでに差別なのだ。 【逆に言えば、いくら嫌ってもそれは単なる嫌悪感であり得る。】 ある属性をもった人間を「支援の対象」として囲い込むことは、差別的な見下しであり得る。 「○○のくせに」。 私の存在が、人格を持った一個人ではなく、「○○」という劣位のカテゴリーと同一視される。 支援のそぶりを見せていた人間が、本物の差別主義者に豹変する。 ひどい猥談をしているモテ男。 その横で、思い詰めたセ
いわゆる所得などの格差拡大、階層固定化などが問題視され、議論になっているが、それらを肯定・支持する人たちがいる。さらに、ただ支持・肯定するだけでなく、いわゆる「負け組」や「ワーキング・プア」の人たちや、格差社会化を批判的にとりあげる人たちを見ると、「それは本人の自己責任だ」などと説教を垂れたりする。 いわゆる本物の「勝ち組」「エリート」の人や、元からそのような考えだった人もいるかもしれないが、おそらくはそのような人たちの多くは、客観的に見ればいわゆる「負け組」、少なくとも「勝ち組」には属さない人たちではないか。にもかかわらず、その事実を受け入れられない、認めたくない。そのために、「負け組」を叩くことによって、「自分も“勝ち組”のつもり」か、あるいは「自分は“負け組”ではない」と思いたいのではないか。 そのような人たちを、私は「疑似勝ち組」、あるいは「つもり勝ち組」と呼んでいる。 「疑似勝ち
春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…
じゃあ、今日はブックレビューです。 ゼロコミックスなので、リブレ出版ですが。BLではありません。 ふっつーにネタバレです。あと死ネタ。注意。 続きを読む しょうもない愚痴吐きをまんま載せるのもあれなので折る。(と言うか、今後長めの記事は全部折るかな?) あと、最近よそ様のブログと偶然同じ記事を読んで小児性愛に(生意気に)言及したがってきて。その事に書く時は必ず折ります。(別に私がタブー視してるわけでなく、このブログにはこの関連にショックを覚える人も来るだろうから、です。) 続きを読む (注:ここからはあくまで観念的に小児性愛等マイノリティに対する倫理観を中心的に問うエントリーとする。) えてして、マイノリティとは排除されがちだ。この場合、性的少数者と言うのは、やはり性に潜在的嫌悪を擁する社会において、非常に冷たい視線を送られる「スティグマを背負うべき」存在として扱われやすいので、また危惧す
知り合いの法学教授から、彼女が教えているロースクール(法学大学院)においてこのたびジェンダー自認及び表現 (gender identity and expression) による差別を禁止する内規が作られることになり、それに従い入学願書の性別欄をどうするかについても議論が起きているとのことで、意見を求められた。「gender identity and expression」というのは、性同一性障害の人やトランスジェンダーの人など、性自認やジェンダーのプレゼンテーションが生殖学的性別(に通常関連付けられているもの)と違う人たちの公民権を保証するためによく使われる用語で、つまりこの内規によって学生の入学審査や職員の雇用・昇進においてそういった人たちを不平等に扱かわないということになる。 それは良いとして、問題となっている入学願書の性別欄だが、現状は「男性」と「女性」の2つの選択肢があって、その
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