自動的に移動しない場合はをクリックしてください。
例の如く小さい映画館に行ってきた。今回の作品は原作東野圭吾、主演寺尾聰の「さまよう刃」だった。 主人公は妻を亡くして中学生の娘と2人暮らし。娘が学校の帰りに掠われ、強姦されて殺されてしまう。主人公の家に犯人2人の名前を告げる密告の電話があり、主人公はその1人を家で待ち伏せて殺す。もう1人も殺すために探して追う主人公を、殺人犯として、そして次の殺人を止めるため警察が追う。 最近曽野綾子のコラムに端を発する論争を読む機会が多かったため、普段以上に考えさせられる映画だった。この機会に自分なりに考えを整理してみようと思う。 まず「自衛も必要だ」という論調について、その是非はともかく被害者や被害者の家族にはとても言えない。言ってはいけないと思う。 では自衛の呼びかけは無意味か?というと、その内容にも依ると思う。映画で被害にあった主人公の娘は、夜に一人で帰宅途中に車に無理矢理連れ込まれて掠われた。この
今日は本当に疲れた、よろよろ、って感じ。 こういうときにとんちんかんな「じえいろん」を読むと吐き気がする。 「言葉」で誰かより「うえ」に立てるんなら、なんだって書く人がネットには多いな。 それをして、実際に痛みを抱えている人に何が出来てるって言うんだろう。 痛みは痛みのまま置き去りにされて、無力感ばかりが募る、 そして被害者は自分の心の「じえい」のためにおし黙る、いや、黙らされる。 それを「セカンドレイプ」と言うんだと、理解する能力がない人を許すべきか。 どれほどの重荷を被害者に負わせているのか。 バカはせめて黙ってくれ、一番、バカを隠す賢い方法だ、と自覚のないバカに書いても無駄か。 私が書けるのはここまで、 肉体の疲れと心の疲れがどれほど密接に関係するか、 肉体を理不尽に傷つけられ、心がそれ以上に痛めつけられた人に、何が出来るか、 ただ、私はあなたのそばに立つ、と書くしかできない。 なん
被害者の精神衛生のためなら次に被害者が出る可能性を高めることもいとわない!くらいの勢いを感じてしまうわけですが、もちろん、そんなつもりではないですよね。 「自衛を説くのが無意味だとおもわない」という人は、舗道、職場、学校、塾、家、教会、公園、ペッパーランチの店内などでいきなり誰かに襲われても、絶対に無傷(襲われてる時点で無傷じゃないから無理なはなしだけれど)でいられる方法とか、もしくは性犯罪者を事前に見分ける方法、性犯罪者と出会わないようにする方法をおしえてください。 http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091228/1261990969 治安の悪いところを一人で歩かない、というのは外国旅行に行くときの基本ですよね。これは、別に性犯罪者に出会うことのみを避けるためではない。強盗、殺人、その他もろもろの犯罪を避けるためでもある。日本が相対的に平和だからって、
東海林さだおがいいなぁ 猫パンチにくろすかうんたー ちょちょんまげ氏は『人間の犬観』として、以下の例を挙げておられた。 ・忠義 ・信義・信頼 ・盗人撃退 ・麻薬取締り ・渋谷駅デート待ち合わせ ・勇敢 ・シッポふりふり ・エリカちゃん(by 東海林さだお) ・南極越冬 ・スプートニク2号 ・盲導などのソーシャルサービス ・101匹わんちゃん大行進 ・「ヨーゼフ!」「わん!」 そして この違いがお分かりになるであろうか。人が犬を愛し、信頼して共生してきた歴史が凝縮されているようではないか。 と、述べられている・・・が、ちょっと待った。 タロ、ジロはともかく、スプートニク2号といえば、軌道を脱出したイヌの『ライカ』(くどりゃふか)の事でしょう?発射数時間後には命を失っていたとか。いわば犬身御供じゃあありませんか。大切にされていたというエピソードには不向きなんじゃあ? まあ、いいや、先に進みまし
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く