1790年 バウンティ号反乱事件の乗組員らが上陸 1829年 イギリスが領有宣言 1897年 フィジー総督の管轄下に 1970年 フィジー独立に伴い、ニュージーランド駐在の高等弁務官の管轄下に ピトケアン諸島の位置(右下の方です) ピトケアン島の地図 「絶海の孤島」という表現が世界で最もピッタリ来る場所が、南太平洋の英領ピトケアン島だ。人口わずか45人ほど。一番近い有人島のマンガレバ島へは400km、政庁があるニュージーランドまでは5310kmも離れ、飛行場は無く、外部との交通はニュージーランドから北米へ向かう貨物船が3ヶ月に1回寄るだけというから、相当なものだ。一体なぜこんな辺鄙な場所に住みついた人たちがいるのだろうと思いきや、辺鄙な場所だからこそ住みついたのが真相。この島はバウンティ号反乱事件の首謀者たちの子孫が住む「落人島」なのだ。 時は18世紀後半のこと。イギリスはアフリカから連れ
第11回:ミール・ジャアファル(1691-1765) ミール・ジャアファルは第6代ベンガル太守。 プラッシーの戦いでイギリスに内通。第5代ベンガル太守シラージュ・ウッダラを裏切りインドに敗北をもたらしました。 ジャアファルは自身の権力を保持するためにイギリスに従属。そしてインドの土地をイギリスに割譲し、それはイギリスのインド全土の植民地化への第一歩となったのでした。 そのため現在のインドにおいて「ジャアファル」は裏切り者の代名詞とされています。 ベンガル太守とは? ベンガル太守とは、現在のインド・西ベンガル州とバングラディシュを統治した「地方長官」のことです。 ムガール帝国がインドを支配する前は、この辺りにはベンガル・スルターン朝という別の王朝がありました。何よりデリーから遠いし、無理に皇帝が直接統治するよりも、太守経由で間接的な統治をしたほうが色々都合がよかったのでしょう。 課税権や立法
ヘンリー八世の最初の王妃、キャサリン・オブ・アラゴンは、後のイングランド女王メアリー一世、別名ブラッディメアリーの母でもあります。 その名の通りアラゴン王の父とカスティリア女王の母を持つ統一スペインの王女で、ヘンリー八世との仲は極めて良好でした。 結婚して2年後、夫ヘンリー八世が対フランス神聖同盟による対フランス戦争で大陸に渡ります。 イングランド王の不在の隙にスコットランドが攻めてくるのは、もはやお約束のようなものです。今回もやはり、そうなりました。スコットランド王ジェームズ四世は、イングランド領内に侵入すると、いくつかの伯爵領で略奪を行い、拠点を築きはじめたのです。 これに対して、キャサリンは自ら甲冑に身をまとって軍を指揮し、スコットランド軍を撃破します。戦場でスコットランド王ジェームズ四世を戦死させさえします。 その後、ジェームズ四世の幼い遺児ジェームズ五世をスコットランド王とし、王
「イギリスが中国を大歓待」のワケ 英国が中国の習近平国家主席を異例の厚遇で迎えた。一方、米国は南シナ海における中国の軍事基地建設を許さず、埋め立てた人工島周辺12カイリ内に米軍を展開する構えだ。中国をめぐって緊迫する世界情勢をどう読むか。 まず英国からだ。英国は習主席夫妻の宿泊先にバッキンガム宮殿を提供し、エリザベス女王主催の歓迎式典や晩餐会を開いて手厚くもてなした。宮殿提供の一事をもってして、大歓待ぶりが分かる。 肝心の経済協力では、英国で人民元建ての国債発行を認めたり、新設する原発の事業に中国が出資することで合意した。英国への観光ビザ費用も値下げする。 私は4月30日公開コラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/42747)で、中国が設立したアジアインフラ投資銀行(AIIB)に英国はじめ欧州勢が参加したのは「インフラ投資ビジネスへの
イギリス海軍が騙された「偽エチオピア皇帝」 この事件は1910年、ケンブリッジ大学の学生を中心としたグループが、 「イギリスを訪問中のエチオピア皇帝一行」に扮して、時のイギリス海軍をすっかり騙してしまった、という伝説的ないたずら事件です。 騙された当の海軍は激怒しますが、イギリス国民は海軍のマヌケっぷりに大笑いしたそうです。 ケンブリッジ大学の学生ヴェア・コール 事件の首謀者の1人ヴェア・コールは、ケンブリッジ大学の学生で家は大金持ち。 趣味はいたずら。 趣味を実行する時には莫大なカネを使って、「ガチ」のいたずらを仕掛けていました。 例えば、労働党の党首マクドナルドに変装して偽の労働党集会を開き、 労働組合をクソミソにこき下ろす一方、政敵のトーリー党を賞賛して労働党支援者を唖然とさせたり、 ヴェネチアのサンマルコ広場にトラック数台分の馬糞をまき散らしたり、 とにかくいたずらで人を驚かせるこ
十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて英米を中心に隆盛を迎えたのが心霊主義(スピリチュアリズム)である。近代的な思想運動として始まった心霊主義は第二次大戦後衰退するものの、60年代のニューエイジ、70年代のオカルトブーム、80年代以降の新宗教運動などを始めとして文化、学問、思想など現代社会の隅々に大きな影響を残している。その心霊主義はどのような過程で広がっていったのか、十九世紀の心霊主義進展の見取り図を描く一冊である。 心霊主義の見取り図といっても、その範囲はあまりに広く、その思想は限りなく深く難解だ。様々な研究書・概説書が出ており、そのアプローチは多様である。本書では心霊主義を『合理主義という時代環境の中で誕生史、成長し、変容していった<自己>宗教の一つ』(P9)と捉え、『心霊主義の社会精神史的な意義を(ⅰ)骨相メスメリズム、(ⅱ)社会改革、(ⅲ)神智学(ⅳ)心理学(ⅴ)田園都市という五つ
標題のテーマで、ゴールデンウィーク前にエントリーをアップしようと思っていたところ、瑣事多忙につきタイムオーバー。いまさら、「ゆっくり映画なぞみているヒマはない!」と怒られそうですが、ご寛恕下さい。 後日のためのレファレンスとしてご参考にしていただければありがたく。また、「あの名作を忘れている!」と思われる博識、同好の皆様には、コメントで追加作品をご指摘していただければ、幸甚の至りです。 また「英国史」と題打ってはいるものの、「イングランド」が中心となっており、スコットランド、ウェールズ、アイルランドがおろそかになっていますが、紙面の都合上以前に、私の知識の限界もございますので、なにとぞご容赦ください。 古代 文明世界の記録としての「歴史」にイングランド、もしくはブリテン島が登場するのは、ジュリアス・シーザーの「ガリア戦記」がその嚆矢です。しかしこの時代のイングランドは文明的には暗黒時代。残
~Vol.142~ アン女王とマールバラ公一家 ~永遠の別れ~ 名誉革命(1688)でフランスに亡命したイギリス・第二次ステュアート朝(1660-1714)の国王ジェームズ2世(位1685-88)と妃アン=ハイド(1637-71)との間には女王となった娘が2人いる。うち1人はジェームズ亡命後イギリス女王となったメアリ2世(位1689-94。夫のウィリアム3世(位1689-1702)と共同統治)で、もう1人はその妹アン=ステュアート(1665-1714。国王在位期間は後述)である。 アンはセント=ジェームズ宮殿(テューダー家から伝わる宮殿)で生まれた。新教徒として育てられ、読書よりもスポーツを愛好した活発な少女時代を送った。1683年、デンマーク王弟ヨウエン(ジョージ。1653-1708)と結婚したが、十数回もの懐妊があったにもかかわらず、不幸にも多くは流産・死産となり、出産に成功しても病気
強い信念とたゆみない努力をもって社会に 18世紀後半のイギリスは、産業革命の時代を迎え、人々の暮らしは大きく変ろうとしていた。それまでのイギリス社会では、外に出て仕事をするのは男性の役割、女性は家庭のなかで、子どもを育て、家の中での勤めを果たすのが役割と考えられていたのでした。しかし、家庭を守ってきた女性たちも徐々にではありましたが、社会に進出してきていたのがまたこの時代でした。 そんななかでも家柄がよければよいほど、女性が社会にでて働くというような意識革命にはついていけず、家の中の仕事にはげむか、人手があり、それもしなくてよいのなら身を飾って社交を楽しめばよいというのが大方の考えであったようでした。 そんなときにも強い信念とたゆみない努力をもって社会にで、力を発揮していった女性たちがいたのですが、その代表的な女性がフローレンス・ナイチンゲールでした。 彼女は自ら社会にでていっただけではな
スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入
英レスター大学(University of Leicester)が公開した、15世紀のイングランド王リチャード3世(Richard III)の頭蓋骨。致命傷となったと考えられる2つの損傷跡(撮影日不明、2013年2月4日公開)。(c)AFP/HO/UNIVERSITY OF LEICESTER 【9月17日 AFP】15世紀のイングランド王リチャード3世(Richard III)は、ぬかるんだ地面にうつぶせにされ、かぶとを着用していない頭部への攻撃で、鋭利な武器が脳を貫通したために死亡した──。 17日の英医学専門誌ランセット(Lancet)に掲載された遺骨の検視に関する論文を通じて、これまで論争の的になってきたリチャード3世の凄惨(せいさん)な最期が明らかになった。 劇作家ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)の戯曲には、リチャード3世が敵に襲われて落馬した
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