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2023年3月12日のブックマーク (9件)

  • 青山延寿 - Wikipedia

    青山 延寿(あおやま のぶとし、1820年(文政3年) - 1906年(明治39年)11月)は水戸藩士で儒学者[1]・史学者。藩校である弘道館の教授頭取代理[1]、彰考館権総裁代役を務めた[1]。字は季卿[1]、通称は量四郎[1]、鉄槍[1]・鉄槍斎と号した。婦人運動家・山川菊栄の外祖父。 1820年(文政3年)、水戸藩士・青山延于の四男(末子)として水戸城下田見小路(現在の水戸市北見町)に生まれる[2]。長じて父に従い江戸に滞在し、古賀侗庵のもとで学んだ。その後水戸弘道館に出仕し、1843年(天保14年)には訓導となった。1846年(弘化3年)には安政の大獄で永蟄居となった主君・徳川斉昭の雪冤を訴えるため紀州侯に上書を提出することを計画し、これが露見したため免職となった。しかし5年後の1853年(嘉永6年)、弘道館に復職し、1866年(慶応2年)には教授頭取代理および彰考館権総裁に昇進し

  • 松山戦争 - Wikipedia

    松山戦争(まつやませんそう)は、明治元年10月6日(1868年11月19日)に発生した、下総国匝瑳郡松山村(現在の千葉県匝瑳市)における市川弘美ら水戸藩諸生党とこれを追跡する水戸藩天狗党との戦い。 元治元年12月(1865年1月)に関東を劫掠していた水戸藩天狗党の乱が鎮圧された後、水戸藩の藩政は市川弘美ら中心とする諸生党が掌握し、水戸に居た天狗党の関係者は諸生党によって次々と処刑された。 ところが翌年将軍徳川家茂が死去すると、天狗党隊のうち武田金次郎ら遠島に処される予定であった者共が赦免され、さらに孝明天皇崩御の後、天狗党と共謀関係にあった長州藩が鳥羽・伏見の戦いで勝利すると、天狗党・圀寺党の訴えにより諸生党が一転して朝敵に指定された。このため市川ら諸生党は水戸を脱出して北越戦争・会津戦争に参戦したものの、これらの戦闘は新政府軍の勝利に終わる。行き場を失った諸生党は起死回生を狙って水戸

  • 天狗党の乱 - Wikipedia

    文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も財政破綻状態にあった水戸藩へ幕府からの援助が下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して徒党を組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭(藩主となり敬三郎から斉昭と名乗る)の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩

    天狗党の乱 - Wikipedia
  • 幕末を揺らした「天狗党」…その志は“敦賀の地”に刻まれている

    天狗党を描いた錦絵「近世史略 武田耕雲斎筑波山之図(部分、敦賀郷土博物館所蔵、敦賀市博物館画像提供) 天狗党の乱は大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれているが、彼らは何とか、自らの志を世間に伝えようとしていた。その一方で、終焉の地となった越前には、天狗党員の若い命を救おうとしたり、生き残った者に手を差し伸べようとする人々もいた。 天狗党と越前との間に育まれたものとは──。 ※稿は、『歴史街道』2021年7月号の大型企画「天狗党、越前の散る」から一部抜粋・編集したものです。 なぜ、天狗党は越前に入ったか 元治元年(1864)に起きた「天狗党の乱」は、幕末の日を揺るがせただけでなく、史上稀にみる悲劇として語り継がれている。 しかし、天狗党が越前で過ごした最期の日々と、そしてその後に起きたことを見ると、悲劇という言葉だけでは語れない、様々な側面が浮かびあがってくる。 そもそも天狗党の乱は、水戸

    幕末を揺らした「天狗党」…その志は“敦賀の地”に刻まれている
  • 「353名斬首」の幕末の悲劇。天狗党の死は、敦賀でどのように受け止められたのか。【青天を衝け 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた「天狗党の最期」。処刑の地・敦賀(福井県)では150年以上にわたって地元の方々によって天狗党慰霊の行事が続けられている。敦賀市文化振興課の藤田裕介氏がリポートする。 * * * 尊王攘夷の志を掲げ、筑波山で挙兵した天狗党は、一橋慶喜を通じて朝廷に素志を伝えるため、京都を目指すが、敦賀の地で悲劇的な最期を遂げる。 NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、天狗党が敦賀で陣を構えているところに一橋家家臣の渋沢喜作(演・高良健吾)が武田耕雲斎(演・津田寛治)と藤田小四郎(演・藤原季節)に密書を届け、降伏を促す様子や耕雲斎が斬首される場面が描かれたが、その後、彼らの死がどのように扱われ、受け止められたのかは、ほとんど知られていない。 ここでは、敦賀における天狗党のその後を紹介したい。 幕末における天狗党の供養と埋葬地の修築 降伏後の天狗党は、追討軍の先鋒であった加賀藩

    「353名斬首」の幕末の悲劇。天狗党の死は、敦賀でどのように受け止められたのか。【青天を衝け 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • 幕末史上もっとも救いようのない結末… 渋沢栄一の人生訓ともなった、徳川慶喜の冷淡すぎる「天狗党」討伐

    慶喜の天狗党に対する冷淡さに渋沢栄一が学んだこと 草彅剛演じる徳川慶喜 慶喜という人物は、このように自分で決めた“プリンシパル(行動原則)”にひたすら忠実であることを好むのでした。そして、その悪い側面が表れるのが、これから描かれるであろう天狗党の乱の鎮圧についてなんですよね……。これは地獄のような結果に終わりました。 天狗党の人々は、自分たちと「同じ」水戸藩出身の慶喜を身内だと信じて疑いません。しかし史実の慶喜は、自分にとって都合の悪いことを行う人間は身内ではありえないという考えの持ち主でした。 慶喜は天狗党の討伐に熱心でした。各藩から集めた約1万の兵を率いて、京都に入ろうとする天狗党を大津の地で待ち構えていたのです。この慶喜の姿は、天狗党にとっては衝撃でした。また、降伏した天狗党の人々が厳しい処遇を受けているにもかかわらず、慶喜は一切、とりなしをしませんでした。 彼の言い分は次のとおりで

    幕末史上もっとも救いようのない結末… 渋沢栄一の人生訓ともなった、徳川慶喜の冷淡すぎる「天狗党」討伐
  • 日本近代史板のスレッド | itest.5ch.net

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  • 桜田門外の変「情念の炎」のススメ 武田金次郎に関する新たな史料見つかる

    桜田烈士のひとり鯉渕要人の分家の玄孫にあたる当人。歴史講座に足を運ぶ中多くの仲間の協力を得てついには小説を出版。このブログでは日々の出来事などをおもに書き綴って行きたいと思います。 桜田門外の変「情念の炎」ホームページはこちら 日も、当ブログへアクセスしていただき、誠に有難うございます。皆様のお陰で、3年間にわたって挑戦してまいりました執筆活動も無事、終了することが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。ブログでは、時折々に思いついたこと、感じたことなどを皆様方と対話するような気持ちで綴ってまいりますので、引きつづき宜しくお願い申し上げます。 FC2ブログランキング ←ご協力お願いします 七月に入ってから連日うだるような暑さが続き、計画した散歩もままならない状況となっています。どうしたら健康を維持できるか、そんなことを考える今日この頃です。 さて、先月「維新後の困窮 如実」との大見出しで

  • 夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻~天狗党の乱がむごい

    大河ドラマ『青天を衝け』で津田寛治さんが演じた武田耕雲斎。 徳川慶喜や渋沢栄一とも関係が深かった【天狗党の乱】の責任者であり、ドラマの公式サイトでも悲惨な最期を迎えると記されていました。 しかし……。 史実における耕雲斎の最期とは、とてもお茶の間の映像で描けるものではありません。 文字で読んでいたって正視に耐え難いほど後味の悪いもの。 こんな風に記すと『大げさだな……』と思われるかもしれませんが、個人的には幕末史どころか日史上でも屈指のキツい話であり、心苦しいながら、武田耕雲斎と天狗党の乱の惨劇を振り返ってみます。 というのも元治元年(1865年)12月16日は耕雲斎らが降伏し、乱が終結となった日なのです。 ※国史大辞典では12月20日となっていますが、稿では吉川弘文館『日史 今日は何の日事典』(→amazon)より16日とさせていただきます 甲斐武田の末裔を称する武田耕雲斎幕末の関

    夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻~天狗党の乱がむごい