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ブックマーク / blog.goo.ne.jp (788)

  • 「一度きりの大泉の話」と「少年の名はジルベール」-【6】- - こじらせ女子ですが、何か?

    心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!? そろそろもうこのお話はいいかな……と、自分的にも思っていたというか、ここからは萩尾先生と竹宮先生の漫画を読んだら、そのあとぽつんぽつん☆と続けていこうかなと思ってたんですけど――軽くネットで検索してみただけで、ほんっと~に色々出てくるんですよね それと、「自分的にこのあたりのことが知りたい!(>_<)」と思うことについては、基的にを読まれた方の感想や評論を読んでもわからないままなのは、当然なことなわけで。。。 でも、一番情報として痒いところにかなり近いと思ったのが、「吉田豪、萩尾望都と竹宮惠子を語る」と「吉田豪、萩尾望都と竹宮惠子を再び語る」というmiyearnZZ Laboさんのページだったのです(^^;) 以下、自分にとってすっごく興味深いことだったので、その部分を少し抜

    「一度きりの大泉の話」と「少年の名はジルベール」-【6】- - こじらせ女子ですが、何か?
  • 水戸 城南 Ⅳ - 史跡訪問の日々

    (妙雲寺つづき) 慶應元年(1865)三月二十四日、赤沼牢にて武田耕雲斎の家族の処刑が行われた。その日、死罪となったのは、耕雲斎のとき四十八歳、倅桃丸(九歳)、金吉(三歳)、長男彦衛門の倅三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)。 彦右衛門武田君之墓 武田氏婦人藤田氏墓(武田いくの墓) 彦右衛門のいくは、藤田東湖の妹で、耕雲斎の四女およし、妾う免、山国淳一郎、田丸稲之衛門の家族とともに永牢を申し渡された。 故魁介武田君墓 武田魁介は、文政十一年(1828)、耕雲斎の二男に生まれた。弘化の藩難では、吉成恒次郎とともに雪冤に尽力し、禁固に処された。武術に優れ、指南功労によりたびたび賞された。安政五年(1858)の藩難では父耕雲斎と行動をともにし、元治元年(1864)六月、大挙して江戸に向かい、画策するところがあった。宍戸藩主松平頼徳とともに下国して那珂湊に陣を置き、城兵と交戦した。西

    水戸 城南 Ⅳ - 史跡訪問の日々
  • 詩歌川百景2を読んでみたけど - 潮路のとはずがたり雑記 **shioji's notes

    *好き*を日々、つらつらと。 、コミック、海外ドラマ、ベランダ園芸、雑貨、DIY、オカメインコなど思いつくままに。 令和4年7月8日というのは大変な一日になりましたけど、その中でこちらはかなりの量の雨が降り、警報や避難指示まで出ました。JR在来線が止まったり、大音量でエリアメールが来たりして、怖ろしかったです。 広島県内で大雨 今年初の避難指示 交通に乱れも(こちらは有料記事のため途中までしか読めません) 広島県が災害対策部設置 県全域で9日朝まで大雨の可能性 しかし一夜明けて、今は太陽がギンギンに照ってます。暑いです。 さて、ようやく吉田秋生『詩歌川百景』2(小学館)を読んだので簡単に感想とコメントを書いておこうかなと。 詩歌川百景1 - 潮路のとはずがたり雑記 **shioji's notes こまごましたことを片付けていって積ん読こと数日、やっと読みました>吉田秋生『詩歌川百景』

    詩歌川百景2を読んでみたけど - 潮路のとはずがたり雑記 **shioji's notes
  • 64 それは佐渡から始まったー木食弾誓(たんせい)とその後継者たち(2) - 石仏散歩

    前回は(と、いっても1年も前のことになるが。)、弾誓(たんせい)の佐渡での開眼と離島を決意するまで、が内容でした。(NO41をお読みください) 今回は、佐渡を出てからの弾誓の足取りを追います。 慶長9年(1604)、年の瀬も押し迫った凪ぎの日、弾誓は佐渡を離れます。(慶長9年は宮島潤子氏説、五来重氏は慶長2年としている。) 悟りを開いて得た教えを光明仏として布教したいと念じたからでした。 出航した佐渡の港や着岸した越後の港がどこか、記録にはありません。 分からないと言えば、船賃を払ったのか、乞然としてるとはいえ修験僧、只で乗せてもらったのか、そうしたことも分かりません。 舟を下りた弾誓が向かった先は、善光寺。 今や生きる阿弥陀仏となった弾誓が阿弥陀三尊を尊とする善光寺にお参りするのは当然のことでしょう。 善光寺から、彼は虫倉山の尾根伝いに西へと向かいます。 虫倉山(長野市旧中条村) 古

    64 それは佐渡から始まったー木食弾誓(たんせい)とその後継者たち(2) - 石仏散歩
  • 野田の「福田村事件」 85年後の「再会」 - ・・行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ・・

    防災関連・物品・正しい情報など個人で追求している防災ブログです。備え は自分の為ではなく身近な弱者様用と考えましょう。 野田の「福田村事件」 85年後の「再会」 2008年04月19日 吉田刑事の墓参りをする関係者ら=野田市の明浄寺 関東大震災直後、香川県から薬の行商に来ていた男女15人のうち9人が福田村(現野田市)で惨殺された「福田村事件」。生き残った少年の一人が保護してもらった警察官の自宅に招かれもてなしを受けたという心温まるエピソードが、陰惨な事件の中に残る。今年に入りこの警察官の身元がわかり、双方の親族ら関係者が18日、野田市で対面した。2人はすでに故人となっているが、85年の時を経て、遺影となって「再会」を果たした。(小松重則) この少年は大前春義さん。事件当時13歳だった。94年に84歳で亡くなるが、生前、保護された時に世話になった「吉田刑事」にお礼が言いたいと話していたという

    野田の「福田村事件」 85年後の「再会」 - ・・行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ・・
  • 福田村事件-関東大震災時の虐殺事件① - 尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

    教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職教育政治映画を中心に思うことを発信していきます。 関東大震災では地震による倒壊や火災などによる多数の死者の他に、さまざまな虐殺事件が起きた。それが関東大震災の恐ろしさである。東京近辺にまた大地震が起こったら、悪質なデマや不寛容で世の中が一変してしまうことはあり得る。まさかまた大規模な虐殺事件が起きるとは思わないけど、災害に伴う「社会の分断」をいかに防ぐかは大事な問題だ。 僕が関東大震災について一番調べていたのは、もうずいぶん前のことになる。震災80年にあたる2003年ごろにずいぶん震災研究を読んだ。当時は震災で大きな被害を受けた東京都墨田区の定時制高校に勤務していた。生徒に身近な教材を取り上げる意味合いが大きかった。そのころ発信してた個人的メールマガジンに当時の勉強結果が残っている。その後ほとんど調べなおしていないんだけど

    福田村事件-関東大震災時の虐殺事件① - 尾形修一の紫陽花(あじさい)通信
  • 若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外) - 学問空間

    投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月 8日(火)14時45分55秒 ※teacup掲示板が8月1日に終了予定であることを受けて、今後、私自身の掲示板投稿にリンクを張る場合には、当掲示板ではなくgooブログ「学問空間」の記事の方に行うこととします。 早歌研究は外村久江氏(東京学芸大学名誉教授、1911生)を中心にして一時は相当な活況を呈したのですが、外村氏の業績をまとめた『鎌倉文化の研究-早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)の出版以降、残念なことに研究の進展はあまりないようです。 中世芸能・歌謡史については、例えば辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)のように相当の深化が窺えますが、辻著でも早歌への言及は僅少ですね。 https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814000746.html 早歌は作品の数が少ない

    若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外) - 学問空間
  • 熊坂長庵と藤田組贋札事件 - 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

    一昨年、北海道の樺戸監獄に行ってきた。明治時代、北海道の開拓、産業発展に多くの囚人の労働力が寄与した。しかし多くの囚人が刑期途中で獄死している。その中に熊坂長庵という贋札作りがいた。文春文庫「疑惑」に併録された松清張の小説「不運な名前」でも知られている。 「不運な名前」の由来は、義経記に出てくる奥州に下る金売吉次を途中の美濃赤坂で襲い、牛若丸に討たれた大盗賊「熊坂長範」と名前が似ていることによる。 熊坂長庵は、明治11年12月、関西で発見された弐円札紙幣の贋札事件の犯人とされた人物である。贋札事件は西南戦争戦費で大儲けした政商・藤田組の疑獄事件として表面化した。様々の政局の中で熊坂長庵が犯人とされ逮捕された。弐円札紙幣は現在の価値に直すと約4万円に当たる。 藤田組贋札事件とは、各府県から政府に納められた国庫金から贋札が発見され、政府内は騒然となった。明治12年(1879年)9月15日「ド

    熊坂長庵と藤田組贋札事件 - 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義
  • 「刑部卿の君」考 - 学問空間

    投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)12時14分25秒 前回投稿で引用した部分、「ひがしの御方」の次に「刑部卿の君も弾かれけり」とありますが、井上氏は特に説明を加えていません。 ただ、「巻八 あすか川」の文永五年(1268)二月十七日に行われた富小路殿舞御覧の場面に、 ------- 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日暮らしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。…… ------- と「刑部卿の君」が再び登場し(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p124)、井上氏はこちらでは「刑部卿孝時女。後嵯峨院後宮。覚助法親王らの母」(p128)、と注記されています。 また、「巻十 老の波」の弘安元年(1278)頃

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  • 新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。 - 学問空間

    投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 9日(木)11時10分25秒 続きです。(p56以下) ------- 第二節 姈子内親王の役割 では、後宇多後宮に迎えられた姈子内親王は実際にどのような社会的役割を果たしていたのか。 後宇多と婚姻したとされる永仁二年(一二九四)の翌年から、姈子の行動には、後宇多院との同車での御幸や、亀山院主催の仏事への布施を沙汰する等(19)、大覚寺統内での中心的人物としてのものが確認される。そして『続史愚抄』永仁六年(一二九八)七月三日条に、 法皇<院>幸万里小路殿<新院御所、抑新院此御所後初度云、是依遊義門院御事、有御隔意故歟> とあり、後深草院が姈子のいる後宇多院御所を訪問(この時、東二条院も同行)することで、ようやく略奪婚についての和解成立とみなされている記事がある(20)。確かに、この永仁二~永仁六年の期間内において、姈子と実家・持明院統側の交流

    新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。 - 学問空間
  • 「巻七 北野の雪」(その9)─洞院愔子(玄輝門院) - 学問空間

    投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月23日(火)21時06分50秒 続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p81以下) ------- 披講果てて夜ふけ行く程、御遊びはじまる。笛花山院の中納言<長雅>、茂道の中将、笙公秋の中将にておはせしにや。篳篥忠輔の中将、琵琶は太政大臣<公相>、具氏中将も弾きけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。ひがしの御方と聞えしは新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君も弾かれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門大納言<通成>など朗詠し給ふ。忠輔・公秋声加へたる程おもしろし。 河浪もふけゆくままにすごう、月は氷をしける心ちするに、嵐の山の紅葉、夜の錦とはたれかいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子、御酒参る。かはらけのうちなどに散りかかる、わざと艶あることのつまにしつべし。若き人々は身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、おのおの御かはらけ

    「巻七 北野の雪」(その9)─洞院愔子(玄輝門院) - 学問空間
  • 川越藩主 柳沢吉保 - ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

    埼玉県について新聞、、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

    川越藩主 柳沢吉保 - ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 
  • 惨い最期を迎えた歴史上の女性 その二 - トーキング・マイノリティ

    その一の続き ファーティマはモンゴル軍がペルシアのツゥースを陥落させた際に捕虜となり、トレゲネに侍女として仕える様になったという。名前通りファーティマはムスリマだが、巫女として予言を行い、女主人のお気に入りになる。トレゲネは自分の産んだ息子グユクを後継者にするため様々な政治工作を行っており、ファーティマもこれに深く関わっていたのは書くまでもない。オゴデイの治世に多くの大官が失脚したのは、ファーティマの進言によるところが大と考えられていた。 当然ファーティマは多くの人々から憎まれるようになり、トレゲネの死後、彼らはこの機会を逃さなかった。その頃グユクの弟コデンが重病となったが、それはファーティマの巫術による発病と告発した者がいた。コデン自身も同時に部下を兄の元に派遣、彼女を告訴する。 まもなくコデンは死去したため、グユクもファーティマの取り調べを命じた。審問官は彼女を全裸にし、棒で叩いて拷問

  • 海士町の火葬塚が本当の後鳥羽天皇陵 だった

    海士町の広報誌(広報海士、2010年7月号)に、目崎徳衛氏による後鳥羽天皇火葬塚の記事が出ていましたのでご紹介しましょう。 入り口の石碑は、後鳥羽上皇隠岐山陵 徳川幕府崩壊からしばらく経った1873年(明治6年)、明治政府は、後鳥羽天皇(1180〜1239年)の御霊を正式に京都に迎える勅使を隠岐に派遣しています。 火葬塚への昇り口 勅使が離島に来ることは、めったに無いことなので、人情の厚い隠岐の人々は、連日連夜、新鮮なアワビやイカなど海の幸と隠岐の酒を盛大にふるまい、大歓迎をしたようです。 宮内庁は後鳥羽天皇火葬塚と表示しています 思わぬ大歓迎を受けた勅使によって、おごそかに京都に移された御霊(遺灰)は、三千院からほど近い後鳥羽天皇大原陵に改めて埋葬されています。 後鳥羽天皇火葬塚正面 その後、明治政府は海士町に後鳥羽天皇火葬塚の破壊を命じますが、その際、お墓を掘り起こしたところ、上下三段

    海士町の火葬塚が本当の後鳥羽天皇陵 だった
  • ベンガルの黒い穴事件 - トーキング・マイノリティ

    18世紀のインドはムガル朝の弱体・衰退化に伴い、各地で地方王朝が乱立、覇権を巡る戦いで混乱に陥り、それを狙った西欧列強が国土を蚕していく。イギリス東インド会社によるベンガル地方支配を決定付けたのはプラッシーの戦い(1757年)だが、その前年6月、この地方で「黒い穴事件」と呼ばれる惨事が起きている。『残虐の民族史』(柳内伸作著、光文社)に、この事件は以下のように載っている。 -1756年6月、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは突然、インド最大の貿易港カルカッタ(現コルカタ)を奇襲し略奪を行った。多くのイギリス人は船に逃れたが、逃げ遅れた146人は、自分達が立て篭もっていた要塞の地下牢に連行された。そして十時間後の翌朝までに生き残ったのは23名だけだった。 そこは「ブラック・ホール」と呼ばれる地下牢獄で、小さい窓が2つしかなく、床面積が25㎡しかなったから、牢獄としてはせいぜい5人分のスペ

  • ジーグイ、ゴーグチ - ガジ丸が想う沖縄

    ジーグイハーグイ、ゴーグチハーグチ 前回(6月13日付)の沖縄の言葉『ヤガ』の最後に、 「マーヤガ、ターヤガ、ヌーヤガ、チャーヤガは、ジーグイする時にも、ゴーグチする時にもよく使われる。それは・・・ジーグイ、ゴーグチの意味も含め次回に」と書いた通り、今回はジーグイとゴーグチについて。ジーグイもゴーグチも沖縄の言葉。 沖縄語辞典によると、 ジーグイは名詞で「不平」という意。 ジーグヤーはジーグイムンと同意で「不平ばかり言う者」という意。 ジーグイハーグイは「不平ばかり言うこと。不平たらたら。」という意。 ゴーグチは名詞で「苦情。不平をいうこと」という意。 ゴーグチャーは「苦情ばかり言う者」という意。 ゴーグチハーグチは「さかんに苦情を言うさま。不平の多いこと。」という意。 ジーグイもゴーグチもよく耳にする言葉、私が子供の頃、家の中では祖父母、両親がよく口にしていた。お使いを言いつけられ、私が

    ジーグイ、ゴーグチ - ガジ丸が想う沖縄
  • 『残酷な神が支配する』萩尾望都 殺せなければ 愛するしかない - ひーこのくつろぎ。

    母親の再婚相手の男性グレッグによる数々の精神的・肉体的虐待の末に、義父のみならず実の母までも殺すに至ってしまう16歳の少年ジェルミと、事件の真相を追ううちに自分の父親が抱えていた病理・狂気を知り苦悩するイアンの2人を主軸に、愛とは何か、救いとは何かを問う萩尾望都の意欲作。 私が中学生の時、初めて読んだ萩尾望都さんの漫画がこの『残酷な神が支配する』(以下、残神)でした。 しかも1巻ではなく2巻から読み始めて最終巻まで読み、最後に1巻を読むという変わった読み方をした作品でもあります。 何故そのような読み方だったのかというと、家の棚に置いてあったのがPFコミックス版の2巻だったんですね。 どうやら萩尾さんファンの母が古屋でこの巻だけ購入していたみたいです。 タイトルに引かれて何となく読んでみたら、内容があまりに衝撃的!! 上記にも書きましたが、主人公のジェルミが義父のグレッグに性的虐待を受け

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  • 水曜日Wednesday、なぜスペルがこうややこしいの? - 言葉って面白い!

    英語を学び始めた頃、どうしても覚えられないスペルってありませんでした? 発音にない文字が入っている場合など、ややこしいですよね。 knifeとか、knightなんて、ついつい「クナイフ」とか「クナイト」って読みたくなったりして…。 中でも、これ。 Wednesday 水曜日 なんで「ウェンズデイ」がこんなスペルなんだ!! 試験の時にそう叫びたくなりませんでしたか? 外国語を学ぶ人にとって、やはりスペルと発音は一致してほしいものです。 ドイツ語などはスペルを見ればほぼ百パーセント発音が予想できます。 いわば表音の言語なのです。 英語は違います。 スペルから発音を確実に決めることはできません。 さすがに慣れてくると、知らない単語でもスペルを見て発音を想像できるようになりますが、それでも確実ではありません。 Wednesday どう見ても、初見で「ウェンズデイ」と読めるスペルではありません。 し

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  • 北海道)アイヌの教育に尽力30年 永久保秀二郎の思い - 先住民族関連ニュース

    朝日新聞 2020年2月23日 11時00分 明治から大正期、現在の北海道釧路市春採地区でアイヌ民族の子どもたちの教育に尽力した教師の永久保秀二郎(1849~1924年)。学校跡地にある市春採生活館(同市春採1丁目)では、アイヌ民族にまつわる様々な催しが行われている。釧路アイヌ協会は2019年末、永久保の功績をたたえる石碑を敷地に再建した。 石碑は高さ1・2メートル、幅80センチ。永久保の雅号から「春湖翁碑」と刻まれ、経歴とともに「約三十年に渡る愛に根差した教育を貫き退職」と記されている。 もともとあった石碑は2015年9月の台風で倒壊したままになっていた。釧路アイヌ協会は、イベントで出したアイヌ料理の売上金を再建費に充てた。大勢から寄付の申し出もあったという。 ここから続き 永久保はどんな人物だったのか。「永久保秀二郎の研究」(中村一枝著)などによれば――。 キリスト教団体の聖公会は18

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  • 秋の雨【日本における東方正教会、 最初の侍からドストエフスキーまで】 - 地上を旅する教会

    私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。 でもその一滴の水があつまって大海となるのです。 兄弟たち、主が来られるときまで 忍耐しなさい。 農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで 忍耐しながら、 大地の尊い実りを待つのです。 「ヤコブの手紙」 / 5章 7節 私たちのすることは 大海のたった一滴の水に すぎないかもしれません。 でもその一滴の水があつまって 大海となるのです。 マザーテレサ (『マザーテレサ愛のことば』より) photo ニコライ堂(東京 御茶ノ水) 日ハリストス(イエスキリスト)正教会の山 ★日における東方正教会、 最初の侍からドストエフスキーまで ◆ボイス オブ ロシア 2013年10月31日 23:51 ▲Photo: RIA Novosti 「日人は深い信仰心を持つことの出来る民族である。これは尊敬する多くの日人キリスト教徒の顔つきにはっき

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