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ブックマーク / ja.uncyclopedia.info (35)

  • ルバイヤート - アンサイクロペディア

    ルバイヤート(ペルシア語: رباعیات‎)は、11世紀のペルシャ(現在のイラン)を生きた学者・詩人のウマル・ハイヤームが編纂したとされる詩集である。中世イスラム文学の最高峰とも言われ、19世紀ヨーロッパにて再発見がなされた後、2010年現在まで多くの読者を獲得しつづけている。 ルバイヤートとは、ペルシャ語で四行詩を意味する「ルバーイイ」の複数形である。日語に直せば「四行詩集」になるこの言葉はしかし、作者であるウマル・ハイヤームのものがあまりにも有名でありすぎたため、現在ではその言葉はこの作品にのみ冠されるようになっている。 ただし、この詩は作者の存命中に作成されてはいたけれど、明らかにイスラム教に反する、むしろ冒涜するような内容から、発表を差し控えていたとされる曰く付きの作品である。しかし、その死後に友人達の間で広まると一気に巷間にあふれ出し、偉大な学者として知られていたオマル・ハイ

  • マックス・ブロート - アンサイクロペディア

    マックス・ブロート(Max brod)とは、プラハ出身の作家。フランツ・カフカの親友であり、彼の作品を死後宣伝しまくり一躍有名人に仕立て上げた人物。というかカフカの友人という要素においてしか注目されておらず、一人の作家としては彼は現在では誰にも注目してもらえていない。 生涯[編集] 1884年プラハにて誕生、プラハ大学でカフカやフランツ・ウェルフェルと友人になる。大学卒業後作家活動を開始、今から見れば意外なことだが、当時はブロートの方が作家として大成しており、その作品は売れていた。一方、カフカの作家活動は地味も極まり、その存在は殆ど誰にも認知されることはなかった。ブロートは花形であり、カフカは孤独な測量士であった。 やがてカフカは41歳で病没するが、その際、ブロートに、「俺の遺稿は全部処分してくれ」と遺言を残す。ところがブロートはカフカを裏切り、カフカの遺稿を次々と世に出した。しかも大袈裟

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  • 足利直義 - アンサイクロペディア

    足利 直義(あしかが ただよし)は、南北朝時代の武士。足利尊氏の弟で、躁病気質で物事を途中で投げ出すことが多い兄貴の尻拭いに専念した男である。伝統と格式を尊重する真面目な人物で、古くからの規範を嫌い、軽視する高師直や佐々木道誉ら「ばさら」と呼ばれた新興勢力の武士達とは水と油の関係。しかし兄貴の尊氏が何故かそんな連中を庇い重用するもんだから、ついに堪忍袋の尾が切れて兄貴と決別、観応の擾乱と呼ばれる不毛な争いを巻き起こし、風前の灯となっていた南朝勢力を延命させてしまった。 名前について[編集] 最初は北条高時の1字を受けて「足利高国」(たかくに)と名乗っていたが、鎌倉幕府が滅んで高時が自害した後、その字をはばかって「直義」に改名した。兄も同様のことをやっている。 直義は来「なおよし」と読むのだが、犬猿の仲である高師直と同じ一字を名前に持つ事を嫌った直義が「ただよし」に改名したという経緯を持

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  • オアシス (バンド) - アンサイクロペディア

    oasis(オアシス)とは、イギリス、マンチェスターのロックバンドであり、1991年に結成。ブリットポップからのブームに売名行為で乗っかってきたバンドであり、数多くの恐喝、誹謗中傷、暴力事件を引き起こすUKを代表するDQNギャラガー兄弟とその他のメンバーで構成されるが、元はオカッパの弟とハゲとデブなどが細々とやっていたバンドを兄ノエルが乗っ取ったものである。 だが2009年、件のごとくの兄弟喧嘩であえなく解散。弟の方が残りを率いて「Beady eye」なるバンド結成。シングル出す出す詐欺発動中。兄は地味にソロ活動開始。近年ではリアムが「兄貴と…また…バンドしたいな」という仕草を見せている。 楽曲[編集] 「この欄を作ったけれど今夜中の1:12だからやめるよ、だれか続けて書いてくれよな」 超音速 ノエロが夜中の3時に作った曲。歌詞は「俺は俺でなきゃ他の誰にもなれやしない気分はラリってるんだジ

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  • 徒然草 - アンサイクロペディア

    徒然草(つれづれぐさ)は、暇すぎて気が狂ってしまった坊主が書きなぐった随筆集である。1330年(鎌倉時代末期)ごろに成立したと考えられており、清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』と並ぶ代表的な古典随筆集となされている。 概要[編集] 著者の兼好法師は、鎌倉時代に吉田神社の神官の家に生まれ、朝廷に仕えたが30歳ごろに追放されて出家した人物である。 その後、暇を持て余した様子を「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(何もする事がなく、暇でしょうがないので、適当に筆を持っていろいろ思いついたことを書きなぐっていると、いよいよ正気を失ってしまいそうだ)」と、徒然草の序章に書き残している。この文章から、隠者となって発狂の兆候が出てきていることを、兼好自身が危惧していたことが窺われる。 徒然草の内容は、自らの偉

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    amanoiwato
    amanoiwato 2014/03/27
    だいたい合ってる。『自らの偉業を書きなぐったり、愚痴をこぼしまくっているような与太話が中心である』
  • 佐村河内守 - アンサイクロペディア

    佐村河内守(さむら かわちのかみ、1963年9月21日 - )は、広島県出身の(自称)音楽家である。譜面が読めなくても、ピアノが初心者レベルでも大作曲者になれる新しいビジネスモデルを開発したことで注目されている。またただの落書きを複雑な楽譜だと人々に錯覚させることにも成功しており、催眠術師としての実績も上げている。 概要[編集] 「鬼武者」の音楽を皮切りに音楽制作に取り掛かり、2003年秋『交響曲第1番 HIROSHIMA』を発表。「耳が聞こえない被爆2世。でも絶対音感で作曲する天才作曲家」という触れ込みで日で有名になり、アメリカのタイム誌には「現代のベートーヴェン」と言わしめ(タイム誌の記事では「聾唖の作曲家」という意味でべートーヴェンを引用しただけだだったが、日のメディアは、誤訳したのか意図的なのか、あたかも「芸術家としてのベートーヴェンの才能」に肩を並べるかの様に記述されたと紹介

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  • 長谷川町子 - アンサイクロペディア

    長谷川 町子(はせがわ まちこ)とは、日マンガ界のゴッド・マザーである。その戦後マンガ界における巨大な足跡は「町子なくしてマンガなし」「マンガなくして町子なし」と言われ、その巨大な権力と野望、そして空気を読まない毒舌は日中を震え上がらせた。代表作に「サザエさん」「意地悪ばあさん」「エプロンおばさん」。 日マンガ界のゴッド・マザー[編集] 戦後の混乱期、「カツオ、闇市いくわよ」というサザエさんのセリフから日の戦後マンガ史は始まった。以来、地方紙の夕刊フクニチからデビューし、全国紙の朝日新聞で四コマ連載を続けた「サザエさん」は文字通り30年以上マンガ界を支配下に置いた。フジテレビで流す日曜日のアニメは常時20%台を記録し、あわせて火曜日のサザエさんもゴールデン・タイムでの再放送なのに高視聴率をはじき出した。その波に乗って印税、キャラクター使用料で巨額の富を産み、「ゴッド・ハンド町子」「

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  • イスラム教 - アンサイクロペディア

    また栄光あるイスラムでは、他の俗悪な宗教と違い、9歳の少女とのセックスも合法である。偉大なるムハンマドも、自身が56歳のときに9歳の少女アーイシャのおまんこにおちんちんをねじこむ快挙を成し遂げた。現在でもイスラム教徒は預言者のこの崇高なる精神を見習っており、それを理解できない俗悪な異教徒とのいざこざが起こることがある。 そして生前敬謙なイスラム教徒であった者の魂は天国へ行き、絶品の料理と贅沢を楽しめ、男性であれば一人につき72人の黒い瞳の処女(フーリー)との相手を永遠にすることができ、生前のうっぷんを晴らせるとされている。 実践[編集] イスラム教の主たる部分は目的より手段の重視、即ち戒律を守ることにある。このため、信者はいかに戒律を破らずに一般生活を送るか、ひやひやしながら毎日を送ることになり大変スリリングである。こうしたスリルを求め、創始以来世界各国でイスラム教に改宗するチャレンジャー

  • ユダヤ人 - アンサイクロペディア

    ユダヤ人(-じん)とは、三度のメシより勉強が大好きな変人グループだったため、19世紀半ばまで世界中でフルボッコにされた謎の集団を示す慣用句である。その勉強大好き精神のおかげで、不勉強な奴らから徹底的に憎まれボコられ追い出され、トルコのカッパドキアなどに住んだり、土地に価値を見い出せなくなり金の亡者になってしまった。結果、世界初の為替、保険などを発明するに至った。なお、ヒトラーさんにこっ酷く苛められたと一般人は思ってるようだが実は1000年以上前からヨーロッパ各国でボコられており(ポグロムと呼ぶ)、マインフューラーがやったのはその大規模版であって決してマインフューラーだけがジークハイルなわけではなく、アレはホロコーストなんて連中の付けた呼び名ではなくスーパーポグロムと呼ぶのが正しい。 Sieg Heil! Jude ist das minderwertigste Volk! Tötet je

  • 近衛文麿 - アンサイクロペディア

    近衛文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、ヒトラーと並ぶ、第二次世界大戦における二大ちょび髭の一人であり、悪魔である。またアンサイクロペディアよりも早く、日で初めてオスカー・ワイルドを紹介した偉大な人物であり、さらに貴族院出身の総理大臣でもあるが、特筆すべきは血筋である。令和の無能と並び、日の総理大臣史に強い印象を与えた人物だと言えるだろう。 概要[編集] 1891年、貴族の中の貴族の中の貴族と言える近衛家に生まれる。この近衛家は後陽成天皇という、一発変換が不可能だからあまり名前を載せたくない名前の天皇の子孫である。さらに父・篤麿は、第三代貴族院議長を務めている。親戚には井伊家、細川家、毛利家、徳川家とまさにオールスターな一族が揃っている。しかし血統は良くても頭があれだった為、後々新体制作りとやらに参加することになる。 またヒトラーにやたら憧

    近衛文麿 - アンサイクロペディア
    amanoiwato
    amanoiwato 2013/11/12
    『戦争を始めた原因とも言える人物だが、その責任を東条に押し付けた。その事から、近衛は何でもかんでも、責任転嫁する人物でああったと評価されている』
  • 爆笑オンエアバトル - アンサイクロペディア

    爆笑オンエアバトル(ばくしょうオンエアバトル)とは、1999年から2010年にかけてNHKで放送されたお笑い番組である。キャッチフレーズは「史上最もシビアなお笑い番組」。その名にまったく偽りはなかった。 概要[編集] 1999年、ちょうどノストラダムスが人類滅亡を予言した年に始まったこの番組は、毎週2~3人一組で10組の才能のある挑戦者から5組のいけにえを選択することを目的としていた。一般に「オフエア」と言われるこのいけにえの称号は、多くの若手お笑い芸人に取っての最後通牒・降伏勧告に当たり、実際にこの番組を卒業していった(出てこなくなった)芸人の多くは芸人を辞めていくことになる。しかし、中には何度跳ね返されても、30代半ばを超えても出演し続けるツワモノもいるにはいる。そして、番組が終了してもなお次の番組にまで持ち越す連中さえいる。 2009年には毎月1回放送、15組の才能のある挑戦者から7

  • トロフィム・ルイセンコ - アンサイクロペディア

    トロフィム・デニソヴィッチ・ルイセンコ(Трофим Денисович Лысенко)は、ソビエトの2代目ゆで卵に大層気に入られたエセ植物学者である。 ある若者が、モスクワはクレムリンの議会で演説を振っている。いかにも太陽に当たっていなさそうな、やせ形色白のこの若者、名前をトロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコといい、破壊と創造の混沌時代、スターリン政権時には自分の独特すぎる遺伝学を流布して、レーニンの顔入りお星様とスターリンのヒゲ入りお星様を合計12回も貰い、常にそれを胸にジャラジャラさせて、いつのまにか国で一番の植物学者となっていた。 しかし、この気鋭の若者を鬼気迫る目で見つめる50がらみの品の良いもうひとりの男がいた。この男名前をニコライ・ヴァヴィロフといい、世界の農大の中でも当時世界最高水準を誇っていたモスクワ農業大学を卒業し、数々の名高き農大の教授を歴任し、当時のソビエトのお百

  • 湯川秀樹 - アンサイクロペディア

    湯川秀樹(ゆかわひでき、1907年1月23日 - 1981年9月8日)は、原子核内の陽子と中性子の間に中間子があるのではないかと予想しただけでノーベル賞を受賞した未確認生物寄り奇形人間の厨二病理論物理学者である。 1949年、湯川秀樹は日人として初のノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞した。この出来事は戦後・生きることがやっとの日人たちに多くの勇気や感動を与えた。当に素晴らしい人である。ところで、そのノーベル賞を受賞した研究や発見は何であったのだろうか。湯川秀樹の次にこのノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は量子電気力学分野での基礎的研究うん、意味は分からなくていいんだ、その次に受賞した江崎玲於奈は半導体におけるトンネル効果の実験的発見うん、分かる方が凄いんだなど、凡人なら何を言っているのかさっぱりわからないくらいの事を研究し、功績を挙げている。それでは主役の湯川秀樹の功績を見てみよ

  • 横浜市 - アンサイクロペディア

    横浜市(よこはまし)とは、神奈川県、1929年に独立国家となった神奈川県にある国家で、カッペの都会化を目的とする国。中心部はほぼ全域が埋立地だけど、海を離れると坂だらけ丘だらけの田舎。 隣接する神奈川県の県庁所在地は小田原市であり、横浜県に属する市町村は他に川崎市しかない。しかし、場合によっては三浦半島のある鎌倉市・逗子市・葉山町・三浦市・横須賀市や東京都町田市、厚木駅周辺、山梨県道志村なども含む場合がある。 東京と横浜の違いは、総合的にいろいろな人間が集中している東京と違い、横浜は全世界からカッペが殺到しているところである。昨年度は、新たに38人が横浜国民の認定を受け、国民の総数はのべ127億3608万人あまりとなった。一応東京を除いて一番の政令指定都市である。 しかし、真性横浜人かどうか判断する基準は横浜市歌を歌えるかどうかで横浜育ちか判断できんべ? この横浜では市内に5096校ある

  • 大隈重信 - アンサイクロペディア

    大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日)-大正11年(1922年)1月10日)は、大きなクマさん・クマーなどの愛称でおなじみのエロイ人エライ人であるんである。指で丸を作るとお金を意味するジェスチャーを考案したのが大隈重信であるんである。 概略[編集] 地元出身芸人さえも認めるド田舎・佐賀県の出身でありながら、2度にわたって総理大臣を勤めたほか、有名ニート私立おっぱっぴー大学を創ったのであるんである。そう、クマーさんの霊は今でも大学内の銅像の中からスーパーフリーのマジキチ連中を含む全学生を生温かく見守っているのであるんである、フフフ・・・。 口癖[編集] 「~なんである」 「~なんであるんである」 生涯[編集] 幼少~青年期[編集] 幼い頃から非常に反骨精神に満ち溢れ、かつ好奇心旺盛であったんである。平たく言えば、「カタブツ」「常人にとっては扱いづらい人物」

  • 山縣有朋 - アンサイクロペディア

    経歴[編集] 後に日の最高権力者となる山縣であるが、生まれは卑しいものであり、下級武家の奉公人の息子として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。武士どころか足軽以下というその身分の卑しさから剣術を学ぶことが叶わず、彼が日刀を憎む一因ともなった。 もちろん身分の低い人間である山縣にまともな友人はおらず、狂介という救いのない名前は更に人が彼を避ける理由となった。明治維新後に有朋と改名したことは、表向きは「論語」からとったとか格好のいいことを言っているが、当は友人がいなかったことのコンプレックスによるものである。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾で学んだ、とされる。山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、もちろんただの自称であり、松陰人は「狂介?誰それ」てな感じであった。 そんなぱっとしない前半生であったが、大した功績もないのに

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  • 猫鍋 - アンサイクロペディア

    鍋(ねこなべ)とは日民族が好むを材料とした料理の一種である。鍋料理であるが、火にかけたりせずに太陽熱で自然に暖めただけで頂ける極めてエコロジーな料理である。ニコニコ動画で作り方が詳細に公開されたことから大流行した。 鍋は土鍋など保温性と肌触りの良い鍋でなければを捕獲することが困難であるため、金属製の鍋では美味く作ることが出来ない。そのために捕獲器&調理器である土鍋の需要が拡大し、土鍋メーカーの株価が上昇するなどの社会現象が起きた。 歴史[編集] 来、用にするという事は、日人にとって考えもつかない事であった。ところが江戸時代、佐賀藩による家督相続(鍋島家による藩の乗っ取り)問題に関連しての『鍋島の騒動』(佐賀化け騒動)が勃発する。むろんこれは用にする事とは何の関係も無いが、噂が九州から江戸に広まるにつれて、「鍋島の騒動」が何故か「を鍋にすると美味い」と間違

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  • グレン・グールド - アンサイクロペディア

    グレン・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダ生まれ、スタジオ育ちの歌手、ボーカリストである。また後述するグールド病の病原体としても知られている。 ピアノ伴奏が世界一上手い歌手[編集] 歌手なので当然だが、現存するあらゆる映像、録音物の中でグールドは常に歌っている。後述するように人嫌いらしく、時には動物に対しても歌いかけることで、言語の壁を越えて意思疎通していると彼は信じている。絶対音感を持っている癖にあまりに下手な前衛的なその歌声は、世間からは全く評価されず、レコーディングエンジニアからは再三「黙れ」といわれ続けたほどである。そして、いまだにボーカリストとして評価されないまま現在に至っている。 鮮烈のレコードデビュー[編集] ところが、その下手すぎる前衛的すぎる歌声に反して、歌に付随される伴奏はまさに神技であったため

  • ボリス・ヴィアン - アンサイクロペディア

    ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの小説家・詩人・コラムニスト・劇作家・画家・翻訳家・ジャズトランペット奏者・シャンソン歌手・作詞家でおまけにエンジニアの資格も持っていたが、周りからは多分バカか変人だと思われていた。 ラッパ吹きから作家へ[編集] パリ郊外の裕福な家に4兄妹の次男として生まれ、おちゃらけた生き方を父から学んだ。有り余る金と速い車と大邸宅と倉庫にぎっしりのがあるのをいいことに家族そろって平日も休日も遊びまくっていたが、1929年に突如金融危機が起きて家が一気に没落した。仕方がないので、それまで住んでいた大邸宅を借家にして、狭い家でさらに馬鹿馬鹿しい遊戯にふけっていた。この能天気な血筋に加え、生来心臓が悪く、兄妹の中でも特に過保護に育てられたことが、ボリス・ヴィアンの三度の飯より悪ふざけを好む性格を形成してい

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  • 芥川龍之介 - アンサイクロペディア

    芥川文の物語[編集] さようでございます。夫の死骸を見つけたのは、私に違いございません。明け方、あの人の部屋をのぞいてみましたら、布団の中でぐったりしていたのでございます。枕元に聖書がおいてあったので、はッと思って、葛巻さんに知らせに行ったのですけれど、もうだめでした。 あの人が遺書を書いて持っているというのは知っていました。でもまさか、私を遺して当に逝ってしまうと思いませんでした。当に――あの人は、思いつめていたんですね。あの人は、私の前ではとても優しかったのです。結婚する前からそうでした。「文ちゃんは、自然のままの優しい心持でいらっしゃい。■■■■■のように、小さく利口になってはいけません。あれではいくら利口でもいけません。馬鹿です。当の生まれたままのところがありません。今のままでいらっしゃい。今の文ちゃんは、■■■■■を千人合わしたのよりもっと立派です。」あの人はこう私にいって

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