タグ

ブックマーク / gitanez.seesaa.net (23)

  • 私と踊って/ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団: DESIGN IT! w/LOVE

    ちょうど1年ほど前の2009年6月30日、ドイツのヴッパタール歌劇場バレエ団の芸術監督であるピナ・バウシュが急逝した。 6月8日から13日にかけて、新宿文化センター大ホールで行われたヴッパタール舞踊団の公演「私と踊って」は、彼女の追悼公演である。 その公演を6月9日の水曜日に観に行った。 僕がピナ・バウシュの作品を観たのは、今回が2回目である。 1993年に同じく新宿文化センターで「山の上で叫び声が聞こえた」が観て以来なので、実に17年ぶりだ。当然、僕もまだ20代前半である。彼女が創出した“タンツテアター”の独特の世界を観じながらも、暑い夏の日だったこともあってか、途中何度か寝てしまったことを覚えている。 それ以来のピナ・バウシュの作品観覧である。 結果から言うと、今回は眠るどころか、終始舞台で演じられる密度の濃い世界に圧倒され続け、終わり間近には自然と涙が出た。 すれ違う男女さて、今回観

    boyasan
    boyasan 2010/07/01
    ピナ・バウシュとテッシー
  • コンセプトワークにおける編集力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日、紹介した『地域ブランド・マネジメント』というのなかで、コンセプトづくりに関して、非常に納得のいく箇所があったので紹介しておきたい。なぜ、ここだけピックアップしてあらためて紹介しておくかというと、コンセプトづくりの過程において、まさにこうしたことができずにろくでもないコンセプトしか生み出せていない現場が多々あるように感じるからです。 「地域ブランド・マネジメント/和田充夫ほか」で書いたように、地域ブランドのコンセプトをつくるためには、その地域の歴史文化、産業、自然、生活インフラ、人びとのコミュニティなどの資産を収集・整理し、それが現在どの程度認知、評価されているかの現状を把握することからはじめます。つまり、これはブランドのコンセプトをつくるための素材を集める作業です

  • マーケティングとユーザビリティに対するデザイナーの失望: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日「製品中心から人間中心のデザインへ」というエントリーを書いたが、それに関連して「デザインの新しい基礎理論」で紹介したクラウス・クリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』というのなかに、僕がずっと感じているマーケティングやユーザビリティに対するデザイン側からの疑念と一致するくだりがあったので紹介しておこうと思います。 マーケットリサーチはデザインの革新を制限するだけでなく、人工物の生涯におけるきわめて限定された段階、すなわち販売に焦点を当てることで、デザイナーを失望させた。 まずはマーケティングリサーチに関してですが、ほとんどのマーケティングリサーチがデザイナーにとっては意味をなさない結果しかもたらすことができないのではないかと僕もずっと感じています。

  • 手仕事の日本/柳宗悦: DESIGN IT! w/LOVE

    なんて淋しく切ないなんだろう。 このはかつて存在した日というものの遺書のようです。 そして、最初に書いておきますが、このはこの国でものづくりに関わるすべての人びとが一度は読んでみるべき一冊だと思います。 私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日の固有な美しさを守るために手仕事歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。 それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。このは皆さんにそれをお知らせしようとするのであります。 このに関しては1つ前のエントリー「模様を生む力の衰え」でもすこし取り上げましたが、以前に『工藝の道』を紹介した日民藝運動の創始者・柳宗悦さんが、大正の終わり頃から約20年をかけて日全国を

  • 詩経―中国の古代歌謡/白川静: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 人間にとって、ことばとは何なのか? ことばを発するということはどういうことなのか? 何かしらの対象(object)を指示する記号・表象としてだけ、ことばを捉えてしまう現代においては、ことばと人間の関係はすでに壊れてしまっているように感じられます。親の庇護を失った子どもが日々無防備に大量のことばに曝されているような状況か。 現代の成人はことばに対する防御力をもたない、あるいは、ことばに対する惧れを抱かないという意味において幼児的であり、また、その幼児に道を教える親という存在の不在において、まさに現代は未来を喪失しているのではないかと感じます。そして、その未来の喪失は来の消失に起因するのではないかという気もするのです。ことばの来の消失に。 古代歌謡は、民族の歴史が刻まれはじ

  • 大事なことはわかることじゃない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今月はぜんぜんブログが書けてないですね。まぁ、この忙しさじゃ仕方ない面がありますけど。 そんな忙しさのなかでも最近思ったことをすこし。 自分の能力を高めるためには、を読んだり、誰かに聞いたりして、すぐにわかってしまうより、わからないことに自分でこだわってみることのほうが大切なことなんだなーと思います。 わからないことにこだわり、自分でいろいろ試して経験するなかですこしずつわかることが増えてくる。そういうわかり方を大切にしたいな、と。 わかった気にならないわかりやすい言葉を読んだり聞いたりして、わかった気になることって簡単です。でも、そういうのってあんまり役に立たない。役に立たないものをどんどんわかった気になって蓄積しても、それこそ役に立ちません。 それにわかった気になって

    boyasan
    boyasan 2009/01/09
    引用がわかりやすかった
  • ハードウェアとソフトウェアのデザインを統合する: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 アラン・クーパーは『About Face 3 インタラクションデザインの極意』のなかで「インタラクションデザインの観点から見ると、組み込みシステムの特徴とは、インターフェイスに含まれるハードウェアとソフトウェアの関係がたいてい複雑に絡まりあっていることだ」と書いています。それゆえ、ハードウェアとソフトウェアのデザインを統合する必要があると述べています。 システムのハードウェア要素とソフトウェア要素(およびそれらの間のインタラクション)を同時にデザインすることが大切だ。そして、そのときにゴールダイレクテッド、人間工学の観点と美的観点を忘れてはならない。 当たり前のことのように思えますが、実際の現場ではそうなっていないのが現実です。プロダクトデザインと情報デザイン(あるいはUI

  • 江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる/田中優子: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 さて、この3連休、たまっていた書評を書いてしまおうと、 カムイ伝講義/田中優子初期万葉論/白川静外は、良寛。/松岡正剛ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ と続けてきましたが、5冊目はこの『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』。1冊目とおなじく田中優子さんのです。 こので田中優子さんのを紹介するのは6冊目となります(たぶん、当ブログで紹介している著者のなかでは、松岡正剛さんのに次いで多いのではないかと思います)。 というわけで、これまで田中優子さんのは6冊読んだわけですが、僕はこのが一番好きです。 世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる(いた)のだなあ-私は江戸時代を知れば知るほど、その時生きていたさまざ

  • 知の編集工学/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 そろそろ、こののことも紹介しておこう。 あまり自身の仕事そのものに関しては書かない松岡正剛さんが、ご自身の仕事の根幹をなす「編集」について、「編集工学」という方法について書いたです。 情報が情報を呼ぶ。 情報は情報を誘導する。 このことは書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というふうに考えてもよいかもしれない。 確かにこの言葉には「編集」というものの主要な性質が凝縮されているように思います。情報を収集し選択し分類すること、対称性、類似、相違、順番などで情報を並べ、要約、モデル化、列挙、言い換え、引用、図解、例示、強調などの方法を用いて編集を行う際、情報同士が呼び

  • 発想の自由度を高めたければ過去に学ぶ必要がある: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 先日、「温故知新:possibilityとactuality」というエントリーで、「学ぶとか考えるとか活動するとかいうことには、possibility(可能性)とactuality(現実性)の両方のバランスを保つことが重要」と書きました。「故(ふる)きを温め新しきを知れば、以て師為(な)るべし」という温故知新からの連想として。 また、昨日の「WHATとHOWのあいだの"溝"」というエントリーでは、WHAT(問題・目的)とHOW(どのように解決するか)のあいだの溝をいかにして埋めるかが、インタラクション・デザインの主要な課題であるとも書きました。 この2つのエントリーを重ねると、次のような整理が可能です。 possibility(可能性)possibilityは、過去にこそあ

    boyasan
    boyasan 2008/10/09
    発熱のため
  • 定量/定性の垣根を越えて全体的な調査~デザインの設計をする: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 あー、これわかるなー。そして、当にもったいない 定量調査と定性調査はどっちも専門分野なのでわかれがち、偏りがちという印象がある、という話。UCDな分野では統合されているだろうけど、現場では別れている。 (中略) どちらかがより効果的ということはなく、組み合わせてはじめてできること、はじめて出る効果がある。だが実際の現場としてそれらをバランスよく配分できていることは当に少ない。 堀内さんは、「UCDな分野では統合されているだろうけど、現場では別れている」と書かれてますけど、むしろ、分かれている原因は学術的な方面にある気もします。UCDな分野でこそ、定性と定量を的確にミックスして全体のディレクションができる人がいないし、その方向性を示している資料やも少ないですし。 僕は逆

  • 宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 文字、絵、物の形。それらが一体となり、触感、匂い、味覚や音さえも感じられるような表現が必要じゃないのか。マンガや絵では絵と文字が一体になっている。過去にさかのぼれば江戸時代の黄表紙などでは文字はマンガのような吹き出し表現すら介することなく絵と共存していました。 テキストが物を表象する。そういうシニフィアンとシニフィエのような従属的関係ではなくて、かつての象形文字や、オーラル・コミュニケーションでの言葉のように、言葉そのものが触感、匂い、味覚をまとって表出されるような表現を開発していく必要があるのだろう、と思うのです。 空気が読めない? いや、そもそも空気が書き表せていない「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」の前篇・後篇、そして、それに続く「自分が見たこと・

  • 自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために: DESIGN IT! w/LOVE

    言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。 見聞を言葉にすることがへたくそになっている松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。 と書いています。 下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。 その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。 田中優子さんが『江戸の想像力』で書いて

    boyasan
    boyasan 2008/09/19
    明日か来週
  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。 善と悪の共存善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マーシャル・マクルーハンの後継者ともいわれるデリック・ドゥ・ケルコフは、『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、「テレビの心理効果のなかでもっとも知られていないのは、それが個人の情報処理の文脈とプログラムの両方を外部化させてきたこと」だと述べています。 また、 テレビは、刺激とそれに反応するまでの間合を排除することによって、私たちから意識的に情報処理をする時間を奪ってしまうのである。 といい、や新聞などのテキストを読む場合のような情報のスキャニングのコントロール権を人間の側がもっておらず、あくまで画面に外部化されたスキャニング済みの映像を網膜に照射されているのだとしています。情報処理されることなく、直接網膜に、そして、身体に植えつけられるというわけです。そこに心的な

  • 組み立てる。その前に、空中に空いた穴の輪郭を見いだす: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 まったくどうして世の中、こうも仕組みを組み立てるという発想・考え方に欠けているのでしょう。 組織で事業を行い、利益をあげるというのは1にも2にも仕組みだと思うのです。どんなに優秀な人材を集めても仕組みがなくては利益があがりません。昔からマーケティングは売れる仕組みをつくることだといわれます。 でも、現実には、その仕組みを作れないことが非常に多い。仕組みを組み立てるというデザイン思考が身についていない人が多すぎるんだと思います。 売れる仕組み、利益をあげる仕組み例えば、Aを買った人はBが欲しくなり、Bを買えばCが欲しくなるというような仕組みを考えたとしましょう。さらにCの利益率を高く、かつCが最も量が売れるようにすることで、Cを柱とした利益をあげる仕組みを組み立てなくてはなら

    boyasan
    boyasan 2008/09/16
    読み取った輪郭が帰納する方法を考えるのではなく、帰納させる輪郭をデザインする?
  • 生活のなかで養われる物を見る眼: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 物を実際に使うことで、物を見る眼が研ぎ澄まされていく。 当たり前といえば当たり前のことですが、どうやらこれは機能面や使い勝手の面での批評眼だけにいえる話ではなくて、見た目での意匠・スタイリングの面での評価でもいえそうなことだなという気がしています。何かにこだわりをもって使用するなかで、よいと感じる意匠の幅が広がったり、評価する眼を変化させたり、そういう変化が生じる「使う」という行為と「見る」ということの関係というものを、あらためてきちんと捉えてみたいと考えるようになりました。 自分の生活・身体に密着した眼で物を見るそもそも人が「物を見る」という場合にも、どの程度の深さで見るのかという意味で、見方のレベルには違いがあると思います。「お金を払って購入するために見る」「お金を払っ

  • 近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ちなみに右が「君看雙眼色(君看よ双眼の色)」で、左が「不語似無憂(語らざるは憂なきに似たり)」と書かれていて、それぞれ良寛の書。 松岡正剛さんの『外は、良寛。』に載っているものです。 「読む」以外の文字の機能とは?こういう文字を目にして、あっ、またしても読めないと思うとき、いったい、識字率ってなんなんだろうって思います。 活字に慣れてしまった僕らだから読めないのか? それとも、こんな字ばかりだったから昔は識字率が低かったのか? いや、毛筆の文字が読めないのは、きっと臨書体験の少なさも影響しているのでしょう。いろんな人の書いた書を臨書でもして、文字を深く見ることがなければ、草書で書かれた文字をわかることはできないのではないかと思っています。 それにしても、なぜ、このように読み

  • 説明/質問という枠組みを応用した情報デザインの5つの手法: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「質問ができる人/できない人」では、学ぶという視点から質問することの重要性について書きました。これは質問する側だけではなく、質問される側にとっても有益です。普段の生活でもあることだと思いますが、質問されてそれに答えることで、質問された側もより理解が深まるということは少なくありません。 人間の想像力/創造力の基盤にあるのが、この質問する/説明するということを含んだコミュニケーションだと思います。自分ひとりのなかで考えてもそうです。自分が何かを理解するということは、自分に対して納得のいく説明ができるようになることを含んでいるからです。 説明/質問とインタラクション・デザインそして、機器・システムと人間のコミュニケーションを含んだインタラクション・デザイン、情報デザインの分野でも

  • 狩野芳崖 悲母観音への軌跡: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 展覧会名狩野芳崖 悲母観音への軌跡-東京藝術大学所蔵品を中心に会期2008年8月26日(火)-9月23日(火・祝)会場東京藝術大学大学美術館 展示室1,2(地下2階展示室)詳細情報東京藝術大学大学美術館HP「狩野芳崖 悲母観音への軌跡-東京藝術大学所蔵品を中心に」 狩野芳崖の絶筆『悲母観音』は、日画の幕を開けた記念碑的作品といわれています。 僕らはいま「日画」の存在を疑いませんが、芳崖の『悲母観音』以前に「日画」などというものは存在しなかったのです。 日画という名称自体は明治初期の東京美術学校の「日画科」のために、とりあえず岡倉天心によって用意されたものにすぎなかった。洋風画(洋画)あるいは「西洋画科」との対比のためである。それまでは日画などという言葉はなかった

    boyasan
    boyasan 2008/09/05
    「この断絶、そして、それ以降にさかのぼることができない現代の日本人の極度の無知。いや、無知以上に無知であることを知らずにいることに対して、最近とても強い危機感をおぼえるのです。