雨宮さんの著作を出版していた大和書房は「事故のため、心肺停止の状態で床に倒れているところを警察に発見された」と発表。「たくさんの人の心を救ってくれた雨宮さん、ご冥福をお祈り申し上げます」としている。
ジェイムズ・ジョイスやルイス・キャロルの翻訳で知られる英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀(やなせ・なおき)さんが7月30日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。73歳だった。葬儀は近親者で行った。喪主は妻由美子さん。 北海道根室市生まれ。言葉遊びが随所にちりばめられて「翻訳不可能」とも言われたジョイスの小説「フィネガンズ・ウェイク」を8年がかりで訳して話題を集めたほか、キャロル「不思議の国のアリス」、ロアルド・ダール「チョコレート工場の秘密」などを手がけた。近年はジョイスの大作「ユリシーズ」の全訳完成を目指していた。 将棋ファンとしても知られ、羽生善治さんとの共著もある。朝日新聞で2000年4月から約4年間、「柳瀬尚紀の猫舌三昧(ざんまい)」と題してエッセーを連載した。
放送作家の草分け的存在でタレント・作家の永六輔(えい・ろくすけ、本名永孝雄〈えい・たかお〉)さんが死去したことが11日、分かった。83歳だった。 東京・浅草の浄土真宗の寺に生まれた。10代後半でNHKラジオ「日曜娯楽版」に投稿を始めた。早大在学中から、開局して間もないNHKテレビや日本テレビの番組で台本などを手がけ、放送作家として腕を磨いた。 作詞家としては、作曲家中村八大とのコンビで、日米両国で大ヒットした「上を向いて歩こう」(1961年)や「こんにちは赤ちゃん」を送り出した。いずれもNHKのバラエティー番組「夢であいましょう」から生まれた曲で、テレビ番組の企画・演出なども含めマルチな才人ぶりを発揮した。梓みちよが歌った「こんにちは~」、水原弘による「黒い花びら」はレコード大賞を受けた。 67年にTBSラジオで始めた… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます
カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを「桜桃の味」(1997年)で受賞したイランの映画監督、アッバス・キアロスタミさんが4日、療養先のパリで死去した。76歳だった。イラン国営通信が報じた。 40年、テヘラン生まれ。70年に映画監督としてデビューした。子供を主人公にした「友だちのうちはどこ?」(87年)をはじめ、「そして人生はつづく」(92年)、「オリーブの林をぬけて」(94年)などが国際的に高く評価され、現在まで続くイラン映画隆盛のきっかけを作った。「風が吹くまま」(99年)でベネチア国際映画祭審査員大賞を受賞した。 イラン政府は79年のイスラム革命後、表現の自由を厳しく制限。映画関係者の多くが出国したが、イランにとどまり映画をつくり続けた。小津安二郎監督に捧げた「5 five」を制作したり、12年に日本人の俳優やスタッフと日本で撮影した「ライク・サムワン・イン・ラブ」を公開したりした。3
厳しい演出、俳優育成 アングラから商業演劇、そして世界へ−−。戦後の現代演劇界をエネルギッシュに駆け抜けた演出家、蜷川幸雄さんが12日、80年の生涯に幕を下ろした。 評伝 作品名に「NINAGAWA」と名前が冠せられる希代のスター演出家。「人を驚かせたいし、自分も驚きたい」と常々口にしていた通り、1969年の演出家デビューから、その最期まで、芝居作りに情熱を傾けた。 演出家デビュー作は1歳年下の清水邦夫さん作「真情あふるる軽薄さ」。70年安保前夜、アートシアター新宿文化の狭い舞台に50人の俳優の行列を作り、ラストは機動隊の扮装(ふんそう)をした俳優が客席になだれ込むという挑発的な演出で、アングラ演劇界に躍り出た。
日本近世史・近代史、宗教思想史の研究に大きな足跡を残した一橋大名誉教授の安丸良夫(やすまる・よしお)さんが4日午前、東京都内の病院で死去した。81歳だった。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。 富山県生まれ。京都大卒業後、名城大助教授などを経て一橋大教授。定年後は早稲田大で教えた。中世史の網野善彦氏や西洋史の阿部謹也氏らと並び、戦後の日本の歴史学界をリードした研究者の一人で、幕末の世直し一揆や自由民権運動などを検討し、斬新な民衆運動論を展開した。 表層下の民衆意識を把握すべく取り組んだ大本教などの新宗教の研究や近代日本の形成論、歴史学の研究史の再検討など、広範な業績を残し、宗教学や社会学にも影響を与えた。「安丸良夫集」(全6巻、岩波書店)ほか多数の著書がある。
安東巌について書かねばならない。 しかし、彼の経歴を遡る前に、前回の記事でも指摘した、「日本会議&日本青年協議会/日本政策研究センター/谷口雅春先生を学ぶ会といった3つのセクターは、70年代まで盛んだった『生長の家学生運動』の出身という同じバックグランドを持った人たちが、綿密に連携をとりつつ、右傾化運動に当たっている」という点を再度、確認しておこう。学生運動華やかりし頃から、もはや50年近い歳月が経っている。果たして「学生運動の頃の人間関係がそのまま生きている」などということがありうるのか? 日本会議事務総長であり日本青年協議会会長である椛島有三が、長崎大学で始めた「学園正常化運動」は、左翼学生たちの占拠するキャンパスを「解放」することに成功し、一躍、椛島有三はじめとする長崎大学学園正常化運動の運動家たちがヒーローとなり、彼らの運動スタイルは「学協方式」と呼ばれ、やがて、彼らの運動を母体と
戦後の上方落語復興に尽力し「上方四天王」に数えられた3代目桂春団治(本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日午前0時11分、心不全のため亡くなっていたことが14日未明、分かった。85歳だった。11日に親族や一門で密葬が行われた。 歌や芝居で表現される破天荒なキャラクターの初代、実父の2代目とは違い、繊細で華麗な語り口、色気あふれる高座で魅了してきた。四天王のうち、6代目笑福亭松鶴さん、5代目桂文枝さんに続き、昨年3月には人間国宝だった桂米朝さん(享年89)が亡くなっており、上方最後の大看板だった。 一門関係者によると、夫人や家族が見守る中、息を引き取ったという。体調は「内臓全般が段々、弱ってきていた」と明かした。 また、弟子の桂春之輔(67)は、最後に会ったのが昨年末だったといい、今春の大阪府池田市で予定している毎年恒例の「春団治まつり」のチラシ見本を見せに行ったときだった。 「福団治以下
戦後の上方落語を支えた「四天王」最後の一人、三代目桂春団治(かつら・はるだんじ、本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日午前0時11分、心不全で亡くなった。 85歳だった。親族と弟子たちで密葬を行った。26日にお別れの会を行う。喪主は妻、成子(しげこ)さん。 大阪市出身。二代目春団治の実子で、1947年に父に入門した。小春、福団治を名乗った後、59年に大名跡、春団治の三代目を襲名した。 当時は漫才人気などのあおりを受け、「上方落語は滅んだ」と評されるほどの危機的な状況だった。古典落語一筋に鍛錬を重ね、先輩の六代目笑福亭松鶴、同期入門の三代目桂米朝、五代目桂文枝とともに「四天王」と並び称される人気を確立。一方で、多くの弟子を育て、復興に尽力した。 持ちネタは「野崎 詣 ( まい ) り」「代書屋」「親子茶屋」「皿屋敷」など多くはなかったが、華やいだ上品な語り口に加え、人物や情景描写の緻密さに
1月11日は成人の日だった。 テレビでは晴れ着姿の「新成人」の姿や、毎年恒例の「荒れる新成人」の姿がメディアを騒がせた。ちなみに私は「荒れる新成人」報道は安易な若者バッシングに繋がるので、どうにかした方がいいと毎年思っているが、思っているだけで特に何もしていないという立場だ。だからちょっと書いてみた。 さて、そんな私が成人となったのは20年前。成人式からもう20年も経つのだ。 思い出すことと言えば、20歳のお正月、一通も年賀状が届かなかったこと。友達もなく、お金もなく、バイトをするだけで自分が何をしていいのかさっぱりわからずリストカットを繰り返すという、言わば「どん底」だったのが20歳だった。 なぜ、友達すらいなかったのかというと、必死で「キャラ変」をしていた頃だったからだ。私は高校を卒業した1993年に美大の予備校に入るため上京しているのだが、同時期、多くの友人が上京した。といっても「学
「火垂(ほた)るの墓」や「アメリカひじき」などの小説、「四畳半襖(ふすま)の下張」裁判やヒット曲「黒の舟唄」などで知られる黒めがねがトレードマークの作家、野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日午後10時半ごろ、誤嚥(ごえん)性肺炎からくる心不全のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。葬儀は19日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻暘子(ようこ)さん。 神奈川県鎌倉市生まれ。早稲田大文学部仏文科中退。63年、作詞した「おもちゃのチャチャチャ」が、レコード大賞童謡賞を受賞。68年に、敗戦と占領から日米親善という時代を生きる男の米国に対する屈折した心理を描く「アメリカひじき」と、終戦直後に栄養失調で亡くなった義妹をモデルに兄の記憶をつづりアニメ化もされた「火垂るの墓」で直木賞を受賞した。 「焼け跡闇市派」を名乗り、歌手としてもデビュー、映画への出演やキックボ
「日本サッカーの父」と呼ばれ、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得したサッカー男子日本代表の礎を築いたドイツ人のデットマール・クラマーさんが17日、自宅があるドイツのライトインビンクルで亡くなった。90歳だった。 ドイツ・ドルトムント生まれ。60年に東京五輪へ向けた日本代表のコーチとなり、来日。64年東京五輪のベスト8へ導いた。その後、日本を去ったが、68年メキシコ五輪でもアドバイザー的な役割で銅メダル獲得という快挙を果たした日本代表を支えた。 離日する際には、国内リーグの創設、指導者の育成、日本代表の定期的な海外遠征、芝生のグラウンドの増設、高校年代の担当を含めた日本代表コーチの常設を提言した。日本サッカー協会は65年に日本リーグを創設、69年に国際サッカー連盟のコーチングスクールを開いて指導者養成を始めるなど、クラマーさんの提言を少しずつ実現させた。 メキシコ五輪後はドイツの強豪バイ
旧谷中村の強制廃村110周年を来年に控え、ある村民が田中正造(たなかしょうぞう)研究者に注目され始めた。神原勘之丞(かんばらかんのじょう)(1884-1955年)。正造にも一目置かれた抵抗運動の先導役で、鉱害を黙認し日露戦争を進める政府に異を唱えた言葉も、時代を超えて共感を集めている。 神原は青年組織のリーダーの一人として名前は知られていた。ことしに入り研究者が子孫と初めて接触し、証言や保管史料から人物像が明らかになった。 特に関心を集めている史料がある。1905年2月。日露戦争に徴兵された20歳の神原が、出征式で読み上げた「答辞」の原稿とみられている直筆文だ。 「谷中村は政府の乱暴圧政で人権を蹂躙(じゅうりん)され貧困に陥った」「危急存亡の谷中村に老弱男女を残して故郷を去る。実に憤慨に耐えない」 神原は「栄誉」とされた出征の場でも臆せずに政府への憤りをあらわにし、強い責任感や郷土愛をにじ
サントリーのウイスキー「トリス」のキャラクター「アンクルトリス」のデザインで知られる画家でイラストレーターの柳原良平(やなぎはら・りょうへい)さんが17日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。84歳だった。葬儀は近親者で営んだ。 東京都生まれ。京都市立美術大(現・京都市立芸術大)で商業デザインを学び、卒業後、寿屋(現サントリー)に入社。後に作家となる開高健や山口瞳らと組み、洋酒の広告に取り組んだ。1958年に生み出した「アンクルトリス」は、新聞広告やテレビコマーシャルなどで人気を博した。59年から60年まで、開高や山口らと4人で、朝日新聞日曜版でマンガ「ピカロじいさん」を連載した。船舶を多く描いた画家としても知られる。
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