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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (10)

  • ウェブは実社会と変わらず貨幣の力で動いている - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネットは実社会と変わらず貨幣の力で動いている 素朴にネットこそが左翼的な世界を構築する理想的な場ではないのか。現に「民主化」はネットを象徴する言葉として使われる。しかし実情は、左翼思想は嫌われ、自由競争、市場主義が歓迎されている ネットは実社会と変わらずまさに貨幣の力で動いている。この貨幣の力とはなにか?実社会の貨幣の力とは、単に「金に汚い」守銭奴的なことではない。実社会でもみなただ金を儲けるために働いているのではない。その意味で、実社会の資主義の拡張としてネットがあるということだ。 ウェブに生まれる反資主義、共同体幻想の不思議? ウェブはほぼ無償で愉しむことができるが、その経費はテレビ同様に広告費でまかなわれている。さらに無償で働くユーザーの生活は実生活の賃金により支えられている。また彼らが公開する知見の多くも実社会の仕事の経験からくるだろう。次々現れるウェブサービスの開発のインセン

    ウェブは実社会と変わらず貨幣の力で動いている - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 安楽死2.0とウェブ労働で対価をもらう可能性 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1) コンビニエンス化では感情的サービスはセルフサービスを前提とする。 2) 介護2.0 3) 民主党が救う「可哀想な取り残された下層」は存在するか。 4) 安楽死2.0 5) ウェブの発達はコンビニエンス化を加速した。 6) ウェブはウェブと実社会の二重の労働を求める。 7) ウェブに課金システムを広めてウェブ労働で生活できる人々を増やすことはできないか。 1) コンビニエンス化では感情的サービスはセルフサービスを前提とする。 現代のポストフォディズムの労働では、創造的で知的な労働とルーティン作業の分裂が起こり、格差の元になっている。セルフサービスとは、個人の中でこのような分裂が起こる。ルーティン作業を貨幣依存し処理しつつ、創造的知的操作をセルフに任せる。 コンビニエンス化とは、創造的知的操作をセルフサービスとすることで、売り手は情報技術による効率化を進め、低コスト化、他者回避を進める販

    安楽死2.0とウェブ労働で対価をもらう可能性 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ベーシックインカム(働かない権利)からリビング‐ウイル(生きない権利)へ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    現代の大きなトレンドは「他者回避」 現代の大きなトレンドは「他者回避」なんでしょうね。象徴的なのは「コンビニエンスな商品提供」です。コンビニ、ファーストフード、ファミレスなど。これらのマニュアル化されたサービスは経費削減だけでなく、客への不干渉ということが価値になっている。 なのにネットでは人々は異常なほどに他者を求めているわけですが、ネットの魅力は関係の脱着が容易であるということでしょう。自分の都合でくっついたりはなれたりでき、実社会のようにコントロールできない継続した関係性を持たない。ネットコミュニケーションは「コンビニエンスな他者関係」といえる。 快適な「コンビニエンスな貧困生活」 現代の貧困問題の難しさもここにありますね。かつてのように社会的な搾取により貧困であるという面と、貧困者が「他者回避」したい故に貧困を選択しているという表裏がある。たとえば派遣やフリーターは単に正規雇用され

    ベーシックインカム(働かない権利)からリビング‐ウイル(生きない権利)へ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜTwitterにはまるのか Twitter育成ゲーム説 - pikarrrのブログ

    Twitterはブログ型 140字をつぶやき続ける。なぜそれだけではまるのか。というのがTwitterに対する素朴な疑問だろう。Twitterは一種の「育成ゲーム」だからである、と考えてみる。なにを育てているのか。掲示板そのものである。 掲示板では場所としての枠組みがあり、議論のテーマがあり、コンテクスト(文脈)の連続性が支えられている。それに対してブログでは自分の知識の積み上げが静的に蓄積される。蓄積されるキャラクター(自分自身)が連続性を支えている。 ではTwitterは?Twitter掲示板(チャット)のようだが、「ミニブログ」と呼ばれるブログの一種である。Twitterには掲示板としての固定された場所はない。固定されるのはつぶやきが蓄積されていく自分のページ(ミニブログ)であり、それがTwitter上のキャラクターとなる。そしてキャラクターが他のキャラたちとフォローする/フォロー

    なぜTwitterにはまるのか Twitter育成ゲーム説 - pikarrrのブログ
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/12/02
    「蓄積されたコメントを編集しコンテンツを作成するようなストック機能の充実。」
  • 1÷0=生きる意味とはなにか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1÷0=生きる意味とはなにか 生きる意味とはなにか。これは「1÷0=」に似ているのではないだろうか。数学において、0で割ることはできない。これはルールである。1÷0は、1個のケーキを0個に分割するということではない。1個のケーキを0個に分割するということが、1÷0という数式のあとに言葉にされただけである。 西洋でアラビア数字が広まったのは活版印刷が普及しだした15世紀である。そのときまで西洋には0はなかった。だからといって0は発見されたのではない。発明品として西洋に伝わったのだ。そして新たな数学技術が生み出されたのである。 「1÷0=」が数学という体系の臨界であるように、「生きる意味とはなにか」は言語体系の臨界である。「生きる」ということは実際の生存とは関係がなく、言語表記である。だから生きる意味が答えられないことに絶望するのは、1÷0=に解がないことに絶望することと同じである。 人以外の

    1÷0=生きる意味とはなにか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ幸せはお金では買えないのか マクロな形而上学とミクロな否定神学 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マクロコンテクスト、ミクロコンテクスト 宝くじで一等にあたることは奇跡といってもよいだろう。そして人生さえもかえてしまう。しかし宝くじというシステムにとっては一等がでることは当たり前である。それを見越して収益が出るように統計的に設計されている。 たとえば飲酒運転の車に追突されてしまう。これは不幸でついていないことである。人生を狂わせて家族のその後さえも大変なものにしてしまう。あと少し時間がずれていれば事故にあわなかっただろう。しかしある交差点ではある確率で事故が起こるというような統計的な必然性があると言われる。 このようにミクロコンテクストでみると特異なことが、母数を増やして観測すると正規分布などの一定の分布に収まってしまう。だからマクロコンテクストではほんどの現象は確率論的な必然として回収されてしまう。たとえば背丈、あるいは性格、あるいは幸福な出来事も、不幸な出来事も、誰かに起こっただろ

    なぜ幸せはお金では買えないのか マクロな形而上学とミクロな否定神学 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/10/15
    なるほど否定神学か。
  • マクロコンテクストの誕生(仮) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    統計学という思想体験 ボクは以前、統計を集中的に学ぶ機会があったが、いまもボクの思考を左右するほどの強烈な思想体験だった。簡単にいってしまえばこの世界は統計でできているということだ。いかなる現象も統計的にみれば必然なのである、と考えさせられるほどに統計手法は世界を露にする。そこに影響するいくつかの原因があり、それぞれの影響度がわかれば、結果は推定できる。そして統計を学ばなくても現代の社会の基は統計思想の影響のもとに設計されている。それが統計的であるというよりも、社会はそれを前提に設計されているということだ。 「全体の中の一部であることを知れ。」 たとえば大きな駅で切符を買うとき列に並んで待って買う。あるいは街の昼どきは込みあってならばなければならない。しかしなぜ並ばなければならないのだろうか。勝手に割り込んではなぜいけないのだろうか。なぜみな順番に並ぶことを当たり前としているのだろうか

    マクロコンテクストの誕生(仮) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ベーシックインカム 「貧困であることの自由」は許されるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ベーシックインカムと貨幣依存社会 ベーシックインカムとは政府が全ての国民に対して毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金(5万円〜8万円程度)を無条件で支給するという構想。(Wikipedia) ベーシックインカム(BI)の怖さって、貨幣依存を進めるよね。たとえば田舎などの金銭収入が低くても、自給自足的にそれなりの生活している人がいるよね。でもBIって貨幣価値ではかるわけでしょ。ようするに、すべてを貨幣価値ではかれるか。というか、貨幣価値がすべてか。経済の半分は非金銭経済と言われているわけで、BIに依存することで、金銭経済という孤立の世界で孤立するだけではないかな。人は貧しさの中で、生活力、助け合いという非金銭経済能力を身につけていくわけで、その力がたたれるよ。 たしかに新自由主義は、貨幣依存社会を進めたわけで、いまの貧困は、非金銭的な生活力が弱体したことで、金がないことが、生命

    ベーシックインカム 「貧困であることの自由」は許されるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/09/19
    「だからBIというのがかなり開き直り戦略であることを自覚する必要がある。」
  • 言語ゲームというリズム その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    お経のリズム たとえば宗教の基は反復です。意味のわからないお経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。これってすごく「言語ゲーム」なんです。宗教の教え=規則を理解すること以上に訓練し習慣化させること。これによって「言語ゲーム」に深く引き込まれていく。 教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りがある。これに対して哲学はたえずみずからをみずからの言語ゲームのメタ位置にたとうとする運動といえるかもしれません。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにメタ位置は存在するのか、ということでしょう。なんらかの言語ゲームに帰属しないとコミュニケーションそのものが不可能で、それは習慣として深く刻まれている。 お経や呪文の重要なところは「リズム」です。それはある種の音楽音楽は運動性であり、言語理解と異なる経路で体にしみ込み、刻まれる。反復することで訓練される。たとえば軍隊の訓練でもリズムが重視されます

    言語ゲームというリズム その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜドラマ「任侠ヘルパー」は面白いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ドラマ「任侠ヘルパー」 今期のドラマでは「任侠ヘルパー」(http://wwwz.fujitv.co.jp/ninkyo-helper/index.html)が別格に面白いですね。ヤクザと老人介護の組み合わせ?っと、最初はキワモノコメディかと思いましたが、フタを開けてみると、現代の問題を見事に描き出しています。 物語は、将来ヤクザ組織を背負っていく者を選ぶために試験をすると若手組長が集められる。そして彼らが試験場として連れていかれたのは、街のしがない老人介護施設だった。そこで実習生として働くことを求められるが、当然、なんのことかわからず冷めた彼らだが、社会的弱者の現実を目の当たりにして"男気"がわきあがり老人たちのために奔走するのだが・・・ たとえば第3話では、孫と二人暮らしの老婆が描かれます。その老婆は明らかに孫に虐待されているのに、彼らが助けにいっても決して虐待を認めません。虐待されて

    なぜドラマ「任侠ヘルパー」は面白いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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