28カ所のうち、23カ所は石垣の壁面が膨らむなどの変形にとどまったが、江戸―昭和期に造られた5カ所が崩落した。特に小ぶりで軽量の石が使われた明治期の石垣で被害が大きく、階段状の本丸南側では最多の364個、旧陸軍のトンネルがある本丸北側では124個の石が落ちた。いずれも地震前から局所的な凹凸などがあり、県の調査で要注意箇所とされていた。 金沢城の石垣は年代や場所ごとに積み方が異なり「石垣の博物館」と呼ばれる。研究所によると、江戸期には3回の大きな地震に見舞われた。1662(寛文2)年、1799(寛政11)年、1855(安政2)年の地震で、崩落があったとみられる。 当時の加賀藩には、藩お抱えの石垣の専門職人「穴生(あのう)」がおり、高い技術を誇っていた。だが明治期に入ると藩はなくなり、それに伴って穴生もいなくなった。研究所の担当者は「明治期以降は穴生の技術や知識が継承されておらず(石垣の)ポテ
県が復元を目指す福井城址(じょうし)(福井市)の坤櫓(ひつじさるやぐら)などに関して、設計や工事方法などについて助言する「福井城坤櫓等復元整備検討委員会」の第1回会合が31日、福井市の県水産会館であった。委員からは、時代に合った使える櫓にするよう求める意見が相次いだ。県からは本年度から始める復元に向けた調査・設計の説明があった。 坤櫓はかつて福井城址の石垣の南西角に存在したが、南東角にあった巽櫓とともに明治時代に撤去された。県は文献や古い写真を基に、高さ約16メートルの坤櫓と、高さ2・5メートル、延長100メートルの西側土塀の復元を計画している。 第1回検討委には6人の委員が出席し、互選で吉田純一福井工大客員教授を委員長に選んだ。建築、土木に関する問題を検討するために吉田委員長を含む3人の委員と外部の専門家からなる専門部会を設置することを決めた。 県は本年度から、表土をはぎとり礎石の位置な
福井地震翌日の福井城址。お堀の西側、北側、南東側の石垣が大きく崩れている。下(南側)の御本城橋付近ではお堀外側の護岸が崩れている=1948年6月29日、米軍撮影(国土地理院提供) 福井県福井市中心部に位置する福井城址の一角に、斜めに崩れ、波打つように起伏した石垣がある。県庁舎の北西側にある天守台跡付近。75年前の福井地震で損壊したまま残された石垣は、当時の激震を今に伝える。 1948年6月28日、福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生、現在の福井市と坂井市を中心に甚大な被害をもたらした。 福井城址のお堀では西側、北側、南東側の石垣が大きく崩れた。お堀外側の護岸も崩壊し、道路の亀裂は深さ1メートル以上に達したという。現在の県庁舎は1979~81年に建設され、82~83年には石垣の修復工事が行われた。 天守台跡横の崩れた石垣は保存され、脇に立つ看板にはこう記されている。「厳しい自
福井城跡(福井市大手三)の将来的な活用について、県の設置した有識者懇話会が二〇四〇年以降を想定し、お堀内は県庁舎移転後、開放的な屋外空間「オープンスペース」とする方向で検討していることが分かった。城郭施設は三〇年までに南西角の坤櫓(ひつじさるやぐら)、四〇年以降に正面の瓦御門を復元すべきだとした。十三日の県議会総務教育常任委員会で、県が提言の骨子案を説明した。 (山本洋児) 提言の骨子案は、福井城址(じょうし)活用検討懇話会(座長・西村幸夫東京大名誉教授)がまとめた。懇話会では昨年九月以降四回の会合で検討を重ねており、本年度内に最終的な提言に仕上げる。 骨子案の大きな注目点は、築四十年の県庁舎、築三十三年の県警本部庁舎を含めて「相当の期間、利用可能」と記されたこと。県庁舎の耐用年数は五十年とされ、県庁舎移転の議論もこれを「もうすぐ」と捉えて始まりつつあった。しかし現庁舎は長寿命化により八十
敦賀市金ケ崎町の金崎宮は、国史跡「金ケ崎城跡」の御城印の発行を始めた。よく知られた戦国時代の逸話からデザインされており、城の認知度アップを目指す。 金ケ崎城は南北朝時代に新田義貞が足利軍と戦った古戦場で、金崎宮には戦いで亡くなった親王がまつられている。戦国時代には朝倉氏との戦いで、追い詰められた織田信長が決死の撤退をした「金ケ崎の退き口」の地としても知られている。 御城印は、各地で人気を集めていることや、参拝客の問い合わせがあったため企画。信長の妹、お市の方が、両端がしばられた小豆袋を信長に送って危機を知らせたという逸話にちなみ、小豆袋に「難関突破」と書かれたデザイン。中央に大きく「金ヶ崎城」とプリントされている。
「大江戸温泉物語 片山津温泉ながやま」に一泊した二日目である。車の便利がよさそう、すなわち「ICから近い」「駐車場が確保しやすい」「ナビが教えてくれる」の三条件を満たしそうなところを、検索して選んでみた。 この日はまず、吉崎御坊蓮如上人記念館というところに行ってみた。「ICから近い」というより「片山津温泉から近い」かな? 下道だけ走って30分ほどだった。ICからも近いけど。 広々とした無料駐車場。浄土真宗の門信徒か、でなきゃマニアックな仏教好きじゃないと興味が向かないところかも知れない。 蓮如上人とは室町時代の僧侶で、当時衰退していた浄土真宗の中興の祖と言われる。他宗の迫害を受けて一旦京都を追われ、この吉崎を再起の拠点としたことが知られている。 イスラームの開祖ムハンマドの生涯との相似を、過去記事にちょっと書いたことがあった。 www.watto.nagoya 立派な建物だが、内部は展望台
戦国時代の築城とされてきた福井県坂井市の丸岡城天守(国重要文化財)について、江戸時代の寛永年間(1624~44年)に建てられたとみられることが、坂井市教育委員会の学術調査でわかった。市は「現存する最古の天守」と城の重要性を訴えてきたが、科学分析による結果を受けて軌道修正を迫られそうだ。 市教委は城の国宝化を目指し、建築史学、歴史学、考古学、構造力学などの専門家による「丸岡城調査研究委員会」を発足。2015年度から調査を進めてきた。市教委によれば、現在の天守の柱や梁(はり)など主要部材について、年輪、放射性炭素、酸素同位体比の三つの年代調査を実施。1948年の福井地震で天守は倒壊したが、主要部材の多くが江戸時代の1620年代後半以降に伐採されたことが明らかになった。このため、調査委は寛永年間に丸岡藩初代藩主の本多成重(なりしげ)が整備したと結論づけた。 丸岡城天守の創建年代については、主に織
現存最古との説もあった国重要文化財、丸岡城の天守(福井県坂井市)について部材の柱などを調査したところ、江戸期の寛永年間(1624~44年)に建造されたことが判明した。同市教委が26日、発表した。 【焼失前の名古屋天守閣も】写真で見る「日本の城」 城が築かれたのは1576年と伝えられるが、天守の建築年代は不明だった。1600年以前に建造された現存天守は、1590年代の築とされる松本城乾小天守(長野県松本市)だけとなり、丸岡城の天守が最古でないことが確定した。 坂井市教委によると、部材に含まれる酸素同位体の比率などを調べたところ、その多くが1620年代後半以降に伐採された木材だったことが明らかになった。地元では丸岡城の国宝化を目指す動きがあり、坂本憲男市長は「残念だが(国宝化への)決め手が他にあるかも含め、調べたい」と述べた。【岸川弘明】
JR福井駅の北約300メートル、福井城跡(福井市大手3)。堀が囲む旧本丸には福井県庁と県議会議事堂、県警本部が建つが、「お堀の内にあるのはおかしい」と反感を持つ市民は少なくない。西川一誠知事は年頭、庁舎移転に向けて新年度から本格的な議論をする意向を表明。2022年度末に北陸新幹線の福井開業を控え、新たな観光資源として城の復元を期待する声も上がる。【岸川弘明】 ◇1世紀近く鎮座 福井城は徳川家康の次男、結城秀康が1601年に築城を始め、江戸時代を通して福井藩主越前松平家の居城だった。本丸は天守が1669年の大火で焼失し、以後再建されなかったが、明治初期まで本丸の西南と東南にそれぞれ3重の坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽(たつみ)櫓がそびえ、将軍家の「御家門」にふさわしい威容を誇ったと伝えられる。 城跡に県庁が建つのは、前庁舎が完成した1923年にさかのぼる。70年代にも移転が検討されたが立ち消え
◇敦賀市、南越前町、滋賀・長浜市 ◇国内最古級の駅舎、トンネル 敦賀市、南越前町、滋賀県長浜市は、3市町に残る明治期の鉄道遺産について、来年度の日本遺産認定を目指して文化庁に申請することを決めた。敦賀―長浜間では1882年(明治15年)に日本海側で初めて鉄道が開通したことから国内最古級の駅舎やトンネルなどが散在しており、日本遺産認定で認知度を高め、観光客の呼び込みを図る。 日本遺産は、認定されると地域の知名度が高まり、観光ツアーに組み込まれるなど観光客の増加が期待できる。3市町は、鉄道遺産を広域観光に活用しようと昨年10月に観光連携協定を締結。首長や観光団体関係者で設けた観光連携協議会の総会を今月15日に敦賀市役所で開き、鉄道遺産に関連する「ストーリー」を来年度に向けて申請することを決めた。 敦賀市などによると、同市には現存する鉄道トンネルでは国内最古の「小刀根トンネル」や、滋賀県境をまた
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