当事者論を標榜しながら私を非難してきた人たちと私との決定的違いは、「自分自身を対象化した当事者論になっているかどうか」だ。 相手を非難するのに自分を100%の正義に置ける幼児性に私は激怒している*1。 論じている自分を、相手との関係に置いて対象化していない。 「論じる側」=「見る側」が100%正義だという暴力。 論じているお前はどこにいるんだ。 生身の個人は、神ではない。 自分は常に間違いながら生きている。 何がどう間違っているかを100%決定できる地点を私は認めない(それが無神論だ)。 自分は弱者だから100%正しいとか、弱者の権利を代表しているから100%正しいとか言える馬鹿は、論じている自分が神だと考えている。 その絶対化=信仰を押しつける傲慢の暴力*2。 私は代わりに、場所としての自分を分節する作業を、そのプロセスにおいて絶対化している。 つねに新しく、ゼロから組み直される再検証。