小説をよく読む人やたまに読む人に聞いてみたいこと 気になっている 小説家の友人と通話をしたのだが、そのとき、「文体、とくに人称について悩んでいる」という話になった。 日本語で一人称で物語を書くときは、「僕」とか「私」とか「おれ」とかを使わないといけないのだが、どうしてもその選択によって、その人がどういうセルフイメー…
NWatch ver.4 - 非モテ・非コミュについてだらだらと http://d.hatena.ne.jp/rir6/20051213/1134428417 例えば「日常」価値観の実に良く現れている作品として『クレヨンしんちゃん』、特に映画の『オトナ帝国の逆襲』があります。あれが如何に「日常」価値観を増強しているかは見た人なら一発で分かるでしょう。僕はあの作品が大嫌いなのですが、しかしネット上ではこの作品に対する批判は殆ど無く、あったとしても「いつものしんちゃんと違う」程度の細部に対するマニアックな批判です。これじゃ駄目なのです。僕はあの作品を見るたびに腹が立って仕方がありません。何故ならあの作品では誰もが「尊ぶべき今日がある!」かのように示しているからです。あの作品にはヤンキーだったりオタクエリートは出ても、引きこもりだったりメンヘルは決して出てきません。そのような「不健全な人達」はあ
http://d.hatena.ne.jp/foo_fighter/20051205/eureka(発信元) http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20051208#1134051289(反応) エウレカセブンは多くの「引用」により世界観を広げようと試みていることはだれもが認めてくれるだろう。エウレカセブンに埋め込まれたキーワードを手がかりにアニメ以外の存在があることをしめしているのかもしれない。 だが、それは成功しているのか。 エウレカセブンのコンセプトって「引用なんて飾りですよ飾り!」だと思ってたんですが違ってたんでしょうか。作り手側のコメントに触れていないので実際の所は知りませんが。 広げているのは客層であって、別に世界観じゃないような……。 情報を集めリスト化すること自体に快楽を感じるのは所詮ごく一部の人間でしかない。何より圧倒的な情報量を持って描こうとするアニ
皆さんは大自然への畏怖の念というものを感じた事はあるだろうか? 僕は、小学生の時自然科学教室というものに入っていた。そこでは他の小学校と合同で、珍しい石を拾いにいったり、滝を見に行ったり、化石をとりに行ったりしていた。 小学校の時は僕は石が好きで、水晶だとか大理石だとかを集めていた。たぶんそれは宮沢賢治の童話の影響なのだが…宮沢賢治の童話に出てくる石を図鑑で見てはその美しさに心惹かれ、童話に出てくるモノや様子を想像していた。 “ダイアモンド会社で、値段が安くならないために、わざと獲れないフリをして、隠して置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたという風に、”“この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ”などなど。 自然科学教室では、川の中に入って米粒ほどの水晶を拾ったり、石がいっぱいあるところで、シダ類の植物の化石を探したり、きれいな植物や食べれる山菜などを探したりし
僕たちの身体は喪失しつつある…と押井守が言ってた。 そもそも身体の喪失というのは、身体に広がる感覚が退化していってるのではないか?ということです。 以前哲子の部屋を見ていたときに、大山のぶ代が、最近の人は歩いてて他の人とよくぶつかる。昔はどんなに人が歩いていてもぶつからないのが粋だった…みたいな事を言っていたが、まさにこれは身体の喪失だと思う。今の人は自分の身体をうまく扱えなくなっているんじゃないかということです。(もちろん僕も含めて) そのかわり感覚は、無限に広がっている。 “個体が作り上げたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現系である”イノセンスに出てくる言葉ですが、これはそんな事を表しています。感覚は身体をこえて、人間が使う道具にまで広がっているのです。 そして都市でさえも、それは人間の身体の一つである。そう押井守は言います。 “皮膚とは延長された脳だ。唯一他人にさわれる脳がここな
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