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ブックマーク / www.tapthepop.net (7)

  • モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作

    『モ’・ベター・ブルース』(Mo’ Better Blues/1990) 2017年に大ヒットした映画『ラ・ラ・ランド』に印象的なシーンがあった。主人公の男性ジャズ・ピアニストが恋人に「ジャズは滅びかけている音楽」と悲しい表情を浮かべながら言うところ。 実際に2017年度上半期、アメリカでの音楽ジャンル別売り上げシェアを見てみると、R&B/ヒップホップ25.1%、ロック23%、ポップ13/4%、カントリー8%、ラテン5.7%、エレクトロ/ダンス4%、クリスチャン/ゴスペル2.5%、キッズ1.4%、そしてジャズはクラシックと並んで1%となっていた。 20世紀初頭にニューオーリンズで誕生したジャズは、1910年代にはリバーボートによってアメリカ各地に広がっていく。シカゴ、カンサスシティ、ニューヨークなどだ。ルイ・アームストロングをはじめ、ハーレムのコットン・クラブに出演したデューク・エリントン

    モ’・ベター・ブルース〜コルトレーンの「至上の愛」にヒントを得たスパイク・リー監督作
  • 「ブラックカウ」を飲み干して ――スティーリー・ダン

    1974年、アメリカの『ニューズウィーク』誌に、24歳の日女性が「新しい時代の4人のトップモデル」として紹介された。漆黒のおかっぱに切れ長の目、“東洋”を体現する神秘的な佇まい――山口小夜子である。77年にはロンドンのアデル・ルースティン社が小夜子のマネキンを製作。世界各都市のショーウィンドウを飾った。 そんな彼女の写真をジャケットに起用したのが、スティーリー・ダンの『彩(エイジャ)』だ。1977年に発表されたこのアルバムは、完成度の高さゆえポップ・ミュージックの芸術品とも評され、彼らの代表作となった。 ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるスティーリー・ダンが誕生したのは、1971年のことだ。2人の出会いは1967年、ニューヨークのバード・カレッジ。ともに文科系の学生だった19歳のフェイゲンと17歳のベッカーは、ジャズとウィリアム・バロウズが好きで意気投合した。「スティーリー

    「ブラックカウ」を飲み干して ――スティーリー・ダン
  • 『シン・ゴジラ』で生まれ変わったゴジラの音

    庵野秀明によって12年ぶりにリニューアルされた映画『シン・ゴジラ』は、1950年代に初めてゴジラを観た人々と同じぐらいの衝撃を僕たちにも与えた。 個人的には小学校1年生の時に初代ゴジラシリーズが終わってから12年、昔より高い熱量でゴジラを語る日が来るとは思わなかった。 『シン・ゴジラ』はエンターテインメント作品としても楽しめる上に、震災を経験した日人に対しても強烈なメッセージを発信している。 作ではゴジラを容赦なく街を破壊し尽くす災害のような存在として描いている。その圧倒的な脅威に対して「想定外」と慌てふためきながら後手後手の対応しかできない政府や、絶望の中で必死にゴジラと戦おうとする人々の葛藤を中心に物語が進んで行く。 その物語を包むのは圧倒的なリアリティと、そこから生まれてくる不安感である。ゴジラ登場したことによって起こる津波や街が瓦礫となる様子は我々の中にある震災の記憶を思い起こ

    『シン・ゴジラ』で生まれ変わったゴジラの音
  • エルヴィス・コステロが国外追放を覚悟で挑んだ銀座でのゲリラライブ

    エルヴィス・コステロが初来日を果たしたのは、サタデー・ナイト・ライヴでの騒動からおよそ1年後の1978年11月のことだ。 ツアーは23日からはじまり、大阪御堂会館や一ツ橋の日教育会館、渋谷の西武劇場(現PARCO劇場)などを回る計6公演だった。 当時のコステロはデビューしてまだ2年目で、その年の3月にリリースした2ndアルバム『ディス・イヤーズ・モデル』は全英チャーオ最高4位という大ヒットを記録した。 ところが日ではチャートインすら果たせなかった。イギリスでは注目の若手だったコステロだが、日ではまだまだマイナーな存在だったのだ。 知名度の低さもあってチケットの売れ行きは芳しくなく、コンサートでは空席もちらほらと見られた。そこでコステロは大胆なプロモーションに打って出る。 そのときの心境をのちにこう振り返っている。 「これだ!って思ったよ。結果は2つに1つ、一晩中騒ぎになって俺たちのレ

    エルヴィス・コステロが国外追放を覚悟で挑んだ銀座でのゲリラライブ
  • デューク・エリントンを偲んで〜ジャズ界に偉大な功績を残した“公爵(デューク)”の足跡

    作家の村上春樹は著書の中で、デューク・エリントンについてこんな風に綴っている。 天才というのは往々にして短気でせっかちで短命なものだが、彼はその才気溢れた人生を、まことに優雅に、まことにたっぷりと、まことにマイペースで生きた。 見事に“生ききった”と言うべきか…。 そしてその奇跡的なまでに豊かな音楽的水脈は、広い平野の隅から隅までを、余すことなく潤した。 言うまでもなく、ジャズの歴史にとっては慶賀すべきことである。 <引用元『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著> 1974年5月24日、デューク・エリントンはニューヨーク市内にある病院の一室で静かに息を引きとった。享年75。 癌に冒され死期が近くなってからも病室で作曲を続けていたという。 印税などで莫大な収入を得ながらも、お金のかかるビックバンドを率いて晩年まで旅を続けていたのは、自分の頭の中にあるサウンドをすぐに実

    デューク・エリントンを偲んで〜ジャズ界に偉大な功績を残した“公爵(デューク)”の足跡
    sivadselim
    sivadselim 2016/05/24
    May 24, 2016 at 0455PM - デューク・エリントンを偲んで〜ジャズ界に偉大な功績を残した“公爵(デューク)”の足跡〜
  • プリンスとジャズが邂逅、マイルス・デイヴィスとの共演

    1984年、自伝映画『パープル・レイン』を発表したプリンス。 映画の興行収入は年間11位、アルバムは全世界で1500万枚を売上げ、その人気と名声は頂点にまで上り詰めた。 その年の11月からはツアーに旅立ち、各地で賞賛の嵐を浴びる。 ツアー中のサポートで加わっていたのが、ジャズサックス・プレーヤーのエリック・リーズだ。 兄のアラン・リーズがプリンスのツアー・マネージャーを務めていた縁で、プリンスと知り合ったエリックはその腕を買われてツアーに参加していたのだ。 父がジャズ・ピアニストでありながらもあまりジャズを聴いてこなかったプリンスにとって、エリックの加入によってもたらされたジャズ・フィーリングは大きな刺激となった。 そんなある日、エリックはジャズに興味を抱いたプリンスに、マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』と『スケッチ・オブ・スペイン』、そして思い出せないがもう一枚レコードを渡

    プリンスとジャズが邂逅、マイルス・デイヴィスとの共演
    sivadselim
    sivadselim 2016/04/27
    April 27, 2016 at 0432PM - プリンスとジャズが邂逅、マイルス・デイヴィスとの共演
  • I’ve Got Life!私は生きている!〜伝説の歌手ニーナ・シモン

    私には家がない もない 金もなければ 品もない 土地もなければ 信じるものもない 頼る教会もないし 祈る神もいない じゃあ、私には何があるの? 私には何があるのか教えて 私はなんで生きてるの? 時代を超えて人々を惹きつけて止まないニーナ・シモン。 黒人女性としての誇りと尊厳を歌いあげた伝説のシンガーソングライターとして音楽史にその名を刻んだアーティストである。 “ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー”では第29位に選ばれている。 1933年にアメリカ南部の貧しい黒人家庭のもとに生まれた彼女。 60年代には公民権運動に積極的に参加し、様々なメッセージを込めたシニカルで大胆な楽曲を数多く残した。 2003年4月21日に乳ガンで息を引き取るまで力強く生き抜いた人である。享年70だった。 他界から12年後…2015年、そんな彼女の歌手という側面だけではない、真の姿に迫った

    I’ve Got Life!私は生きている!〜伝説の歌手ニーナ・シモン
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