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ブックマーク / garegesale.hatenablog.com (26)

  • 『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(『ストリートの人類学』総括) その3  関根康正 - Garege Sale

    PDFで読む 3 ストリートの2つの見方―デリダ的差異からドゥルーズ的差異へ ここまで,(1)「冷酷さ」を漂わせる現代のストリートは,写真家の感性に人と街の分離として嗅ぎ取られる,二重に反転した後の姿をさらしていること,したがって,(2)その消去の消去という二重の屈折を意識した系譜学を意識化しないと現代のストリートには正しく接近できないこと,つまり,近代福祉国家的な生・政治と監視管理社会との二層を遡及しなければならないこと,を見てきた。こうして,上記の意味での精緻な考古学,系譜学を可能にするストリート民族誌が急ぎ必要であることが明らかになった。 では,それを実践することで,一体どんな世界が見えてくるのであろうか。 一言で言うなら,それは〈臨床の知〉が導き出すだろう,新しいリハビリテーションの思想(久保田・宮井 2005)とでも言うべきものである。中村雄二郎は『臨床の知とは何か』でこう述べる

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    sphynx 2012/08/17
  • 『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(『ストリートの人類学』総括) その2  関根康正 - Garege Sale

    PDFで読む 2 「管理社会」化の中のストリートとそのエスノグラフィーに向けて ネオリベラリズムは,ドゥルーズの言う管理型権力の社会に対応する(ドゥルーズ 1992。ドゥルーズによれば権力には君主型,規律型,管理型の3つの形態があり,現代はフーコー的な生・政治の規律型の権力社会から管理型の権力社会に移行してきているとする。書では加藤政洋論文がこの移行を集中的に扱っているので,参照願いたいが,ここでは樫村のコンパクトな説明を便宜上引かせていただく。「仏哲学者ドゥルーズは,社会が『規律社会(均一な労働者や主体を,国家が責任をもって育成する社会)』から 『管理社会(主体の育成を放棄し,少数のエリートのみを必要とする。その上で 「多数となるコンマ以下の主体」を,テクノロジーを駆使した警察権力によって監視して統治する社会)』へと移行していることを指摘する。……『管理型』は『コミュニケーション』を操

    『ストリートの人類学』という批評的エスノグラフィーの実践と理論(『ストリートの人類学』総括) その2  関根康正 - Garege Sale
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    sphynx 2012/08/15
  • 日常的抵抗論 終章 民衆的なものと敗北の場所 小田亮 - Garege Sale

    epub PDFで読めます 1.敗北の場所からの抵抗論 社会言語学者の田中克彦氏が、「『国民文学』を通じての『世界文学』の普及は、もはやそこに参与することが絶望的となった文学的落伍者を作り出した。その文学的落伍者とは、まず何よりも言語的少数者、あるいは少数者言語の話し手としてあらわれる。言語的少数者は、圧倒的な国家語からの絶え間ない圧力に抗しきれずに、かれらの伝統的文学活動の要具である母語を放棄するよう迫られるのである」と書いているのを受けて、市村弘正氏は、つぎのように述べている。 たしかに流通力とその範囲を問題にするかぎり、小さな言語は敗けいくさを戦わざるをえないだろう。遺棄されていく小さなもの。この現代性の形姿をここにも確認するほかはないのだろうか。しかし、小さな言語が放棄を迫られるままに消えていくのでないとすれば、それを肯んじないとすれば、そこに何が現れるだろうか。/困難ないくさを戦

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    sphynx 2012/01/14
  • 平日昼間の男たちをめぐって - Garege Sale

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    sphynx 2011/10/21
  • A Scanner darkly 統合されたスペクタクルと秘密の支配 酒井隆史 - Garege Sale

    権力は何も創造しない。それは取り込む ( co-opt ) のだ ( internationale situationste /10 ) 。 それに死者だって、感情があればの話だけど、生者に利用されて悪い気はするまい。理解はできなくても、見ることはできる死者。こいつらは、おれたちのカメラなんだ ( Philip K. Dick ) 。 ロサンジェルスはオレンジ郡保安官局の捜査官、フレッド(コードネーム)は、覆面麻薬関連の秘密警察官( undercover cop )である。彼は実際には誰に扮して秘密操作をおこなっているのか、警察内でも把握されていない。というのも覆面捜査官には、メモリ・バンクにさまざまな人間の数百万におよぶ人相が蓄積され、その断片化され目まぐるしく組み合わせを変容させるイメージがレンズを通して投射されることで顔の可視性を低く維持するスーツを支給されている。つまりそれを着用す

    A Scanner darkly 統合されたスペクタクルと秘密の支配 酒井隆史 - Garege Sale
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    sphynx 2011/10/14
  • 日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ - Garege Sale

    epub PDFで読めます 1.オリエンタリズム批判と啓蒙主義的主体 序章でも紹介したが、現代の文化人類学の質主義批判に大きな影響を与えたのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』による、近代西欧のオリエンタリズム批判だった。「オリエンタリズム」とは、広い意味では「『東洋』と……『西洋』とされるもののあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」[サイード 1993上:20]と定義されている。この意味でのオリエンタリズムは、古代ギリシア以来のものだろう。けれども、サイードが『オリエンタリズム』で主に批判しているオリエンタリズムとは、18世紀末に始まる「近代オリエンタリズム」であり、西欧近代が創り出した「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」[サイード 1993: 上21]である。したがって、オリエンタリズムを古代ギリシア以来の西洋/東洋の存在論的・認識論

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    sphynx 2011/07/12
  • 今日オートノミーとはなんであるか? フランコ・ベラルディ(ビフォ) 櫻田和也 訳 - Garege Sale

    主体ではなく主体形成を アウトノミア(オートノミー)*1運動の歴史的復元をしようというのではなく、その特異性を理解するために「労働の拒否」や「階級組成*2」といったコンセプトをふりかえってみたい。ジャーナリストはよく、60年代のイタリアにあらわれたこの政治的・哲学的運動を「労働者主義 operaismo 」という言葉で説明するが、わたしはこの用語がきらいだ。というのも、この言葉は社会的現実の複雑性を後期近代の社会的ダイナミクスでの産業労働者の中心性だけに還元してしまうからだ。労働者階級の中心性というのは20世紀の偉大な政治的神話だったが、わたしたちの取り組むべき問題は資主義支配からの社会的空間のオートノミーであって、社会的労働のもたらした多様な文化的・政治的・想像的な組成の方なのだから。 この哲学的・政治的運動の起源はマリオ・トロンティ、ロマノ・アルクァティ、ラニエロ・パンツィエリ、トニ

    今日オートノミーとはなんであるか? フランコ・ベラルディ(ビフォ) 櫻田和也 訳 - Garege Sale
  • 魚を抱えた恵地寿様 武盾一郎/丸川哲史(聞き手) - Garege Sale

  • 悪名を継ぐ 上野俊哉 - Garege Sale

  • 原発は資本と国家の狂気である 小倉利丸 - Garege Sale

    家サイト PDFで読む 福島第1原子力発電所の状況は一進一退を繰り返しながら、対処に時間がかかればかかるほど「安全」と言えるような収束の見通しが見えにくくなっている。問題はほんの数時間先の将来すら見通せないことからくる不安なのだ。この不安は事故が未曾有で未経験だからではない。政府と電力会社が自己保身のために躊躇しているからであり、メディアもまたこの躊躇を弄んでいるからだ。多くの犠牲がでることになっても、危機が深まれば深まるほど、彼らはその危機に対する救世主を装えると信じている。このような根拠のない国家と資への信頼は、この国の「国民」にしか通用していない。すでに多くの国はこの国とメディアの情報を信じなくなっている。 すでに、大量の放射能が空気、地下水、海水などさまざまな経路をたどって福島県から近隣地域から首都圏に到達している。モニタリングがある程度機能し、情報にアクセスできる首都圏などで

    原発は資本と国家の狂気である 小倉利丸 - Garege Sale
  • The Warrior, the Merchant and the Sage「戦士・商人・知者」 フランコ・ベラルディ(bifo) (渡邊太訳) - Garege Sale

  • 秘密言語の共同体──スペクタクルの社会におけるドゥボールの闘争の戦略 木下誠 - Garege Sale

    スペクタクルはいつどこにでもある。美学の重要性はいまでも、酒の後の冗談の結構な話題になっている。われわれは映画館から外に出た。スキャンダルはあまりにも理にかなっている。わたしは決して説明することはないだろう。今、君はわれわれの秘密を前にして孤独だ。新しい美の起源にあって、そしてやがては、アレ・デ・シーニュの区切られた広い液状の荒れ地のなかで(すべての芸術は、凡庸で何一つ変化させない遊びである)、美の顔は美自らがその生と呼んでいたあの幼年期を初めて脱しつつあった。映画の特性は、空虚な沈黙に覆われた大衆によるエピソードを終わらせることを可能にしていた。アラビアのすべての香、ヴィレンヌの夜明け。新しい美の起源に。だが、もはやそんなことが問題ではなくなるだろう。これらはみな真に興味あることではなかった。重要なことは、道に迷うことだ。「フランス・シネ-クラブ連合のための略述」 ギ=エルネスト・ドゥボ

    秘密言語の共同体──スペクタクルの社会におけるドゥボールの闘争の戦略 木下誠 - Garege Sale
  • 〈運動〉以降 酒井隆史 - Garege Sale

    「しかし、どうしても歴史を参照するというのであれば、なぜ、堅固このうえなく定着しているかにみえた人間、制度、思想が一掃された画期的な時期を参照の対象としてえらばないのか……」(フェリックス・ガタリ) 1 post-political politics イタリアの76年はフリーフェスティバルの年であった。とりわけ都市部の若者に多大な影響を与え、また「若きプロレタリア」という語を流通させ、68年世代の新左翼とも一線を画する新たな集団性、ポリティクス(77年の運動の高揚の大きな源泉であった新たな政治的主体性としての「若者」)の形成に一役を買っていた雑誌レ・ヌードの支援のもとで、ミラノでは多くのポップ・フェスティバルが開催される。「われわれの生を自らの手に」。それは旧来の体制の崩壊を、左派と中道ともにタッグを組んでの上からの混乱回収のための「危機のイデオロギー」とそれに足場を置く「緊縮政策」に対し

  • 日常的抵抗論 第2章 原初的紐帯と想像の共同体 - Garege Sale

    epub PDFで読めます 1.差異の連続体と「原初的紐帯」 前章で、文化の異種混淆性に注目するときに重要なのは「境界や起源に先行する異種混淆性」という視点だと述べたが、そのような異種混淆性が具体的にどのようなことなのかを、「民族」というまとまりを例にして説明してみよう。 「民族」というものを客観的属性によって規定される実体としてとらえる質主義と、民族的アイデンティティを状況や利害に応じて創りだされる虚構としてとらえる反質主義(構築主義)という2つの立場のうち、現在では構築主義の方が優勢だといえるだろう。けれども同時に、文化人類学者の多くは、民族を単なる虚構だと断ずることに躊躇しているようにみえる(たとえば、人類学者が集まって民族とは何かということで討議をした川田/福井編『民族とは何か』[川田/福井 1988]の総合討議を参照)。たしかに民族という単位は作られた虚構かもしれないが、その

  • 日常的抵抗論 第1章 異種混淆性とクレオール - Garege Sale

  • だめ連は何をめざすか 鵜飼哲+小倉虫太郎+神長恒一+ペペ長谷川 - Garege Sale

  • だめ連宣言 神長恒一 - Garege Sale

    1 ダメをこじらせてはいませんか? ダメと一口に言っても、その内容、程度はいろいろです。 どうも仕事が続かない、異(同)性にもてない。これといってとりえがない。人とうまくコミュニケーションができない……。ちょっとダメ入っているなというレベルからかなり厳しい状態まで、人生さまざまのダメ模様があります。 人は多かれ少なかれ、それぞれのダメを抱えながら暮らしているのでしょうが、このダメを恐れるあまりつい力が入りすぎてしまった、そんな場合にえてしてダメをこじらせてしまいます。 1つには、自分のダメさ加減を過剰に意識し過ぎてしまう場合。「うー、私はダメだ、ダメだ」と思い込み、人と話しができなくなったりします。そして、ますます状況が煮詰まっていってしまうのです。 もう1つには、自分のダメを直視できないケース。「ダメだけは避けたい」「人からナメられたくない」というプレッシャーからうだつを上げようと思い、

  • メガロポリスの予言者 ──現代都市における所有と占有について──  酒井隆史 - Garege Sale

  • 情動構成の美学 ──観客を消滅させ、群衆蜂起をうながす  スティーブン・シュカイティス 西川葉澄=訳 - Garege Sale

    まず叫びがあった。現実のショックによってたががはずれた世界は、もはや理解できないものとなる。この突如として実現した知覚の切断によって、宙吊りの状態がつくりだされる。何かが起きたのだ。偶然見出された目印となるものに導れ、周囲のひとびとも動き出す。彼らは世界で進行している血なまぐさいペテンに巻き込まれることを望んでいない。だから抗い闘うのだが、感じているのは禁欲的な情念ではなく蜂起の愉悦である。あなたは覚えているだろうか? おそらくきっかけとなるのは、街路に響くマーチングバンドのリズム、路地の壁に殴り書きされたぱかげたスローガンといったものであり、ほとんど意識されていなかったような、はかなく捉えがたい瞬間である。ちよっとした身振り、わずかな内面の動きとともに、集団的な時間がくっきりと立ち現れる。そしてその瞬間にすべてが変わる。それまで何千もの身体がひしめきあう空間に漂っていたのは、きまりの悪い

  • 都市空間に介入する文化のアクティビスト パブリック・アートの政治性 小倉利丸 - Garege Sale

    PDFで読む フォーマリズムの批判からアクティビズムの形成へ アートの政治性を論ずるということに関して、もはや何の規制も偏見もあり得ないというのは、批評家の世界のことであって、実際にそれが作品として提示されるということになると、まだ大きな制約を背負わされているというのが、実情だろう。 アートが政治や社会とは切断された純粋な美的な表象として理解されるべきであるという観念は、決して古いものではない。むしろそれは、フォーマリズムの主張の中で確立してきた考え方であり、よく知られているように、とりわけクレメンテ・グリンバーグによる主張が大きな影響力をもった。彼は、宗教芸術であれ、娯楽のための芸術であれ、宗教や娯楽といった他の価値に依存してしかその存在価値を主張できないようなアートのあり方を批判して、アートに対してそれ来の「独自のまた削減し得ないようなもの」「それ自身に固有のものである諸々の営為」〔

    都市空間に介入する文化のアクティビスト パブリック・アートの政治性 小倉利丸 - Garege Sale