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徳川家康に関するume-yのブックマーク (5)

  • 徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳

    だが、朝廷は前例のないことを何より嫌がるもの。当初は難色を示されてしまう。それでも、家康から「なんとか前例を探してほしい」と依頼された公家の近衛前久と吉田兼右がよい働きをすることになる。万里小路家の古文書から、次のような事例を発掘したという。 「源氏である徳川の惣領(そうりょう)の筋は2つあり、そのうちの1つは、何らかの理由があって藤原氏に改姓した経緯がある」 家康にとって都合のよい記述が、このタイミングで見つかるとは……。怪しさしかないが、しつこさは相手を疲弊させる。もう面倒になったのだろう。提出された正親町天皇はこれを認めている。家康の姓は「源」から「藤原」に変更されることになった。 こうして永禄9(1566)年、家康は思惑どおりに、「松平」から「徳川」に改姓することに成功し、朝廷から従五位下三河守に叙任されることになった。 伝記では語られない家康の泥臭い工作 苦難に耐え忍ぶ姿ばかり

    徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳
  • 裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側

    現代風にいえば「営業部の部長」と社の「管理部門の部長」との対立のようなものです。豊臣家は、この三成ら官僚と清正ら前線で戦う武将の軋轢を家康に利用され、結局は政権を徳川に奪われます。この分断作戦を練ったのが正信でした。 しかし三成に起こったことは、同じ官僚的な立場にあった正信にも当てはまります。ただ、それは正信存命時には起きず、正信のあとを継いだ正純の代に勃発します。正純を嫌ったのは、ほかでもない二代将軍徳川秀忠でした。 特筆すべき正信の鋭い危機察知能力 正信はこのことを事前に予測し、正純に「3万石以上の加増は断るように」と遺言していましたが、正純は宇都宮藩15万石を与えられます。正純人は固辞したともありますが、結局この加増がきっかけとなり、正純は秀忠暗殺を目論んだ罪(宇都宮城釣天井事件)によって所領を没収されてしまいます。この事件の真実はわかりませんが、背景には将軍秀忠とその側近たち

    裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側
  • 今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳

    同盟といえば、今川氏も武田氏と北条氏と同盟を結んでいる。「甲相駿三国同盟」とのちに呼ばれる軍事同盟だ。 桶狭間の戦い後、家康がまだ織田軍と争っていたときに、今川氏が援軍を送れなかったのも、氏真が同盟を重視して北条氏のサポートを行っていたからである。当時は、上杉氏が関東へ侵攻を開始しており、北条氏は同盟国の援軍を必要としていた。 ところが、14年続いた「甲相駿三国同盟」も破綻するときは、あっけない。永禄11(1568)年12月、武田信玄は駿河国へ侵攻。家康と密約を結んだうえで、かつての同盟国である今川氏に、容赦なく牙をむいている。そんなふうに同盟国でも決して油断できないのが、戦国時代だ。 「強き者に逆らわない」 そんななか、家康は信長との同盟を守り続けた。それも当初こそは対等な同盟だったが、信長が勢力を伸ばすにつれて、様相が変わってくる。武田氏からの防波堤として、家康は過酷な役割を背負わされ

    今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳
  • 徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断"

    しかしながら、それ以前に、室町幕府の第13代将軍である足利義輝が、今川家と松平家との対立を手紙でいさめるなど、両者がすでに緊張関係にあったことがわかっている。 おそらく家康は、駿府に子を置き去りにして、「捨て城ならば拾わん」と岡崎城に入った時点で、独立する腹を決めていたのではないだろうか。その後、家康は今川家から少しずつ離れて、やがて織田家と和睦を果たすことになる。 家康にとって大きなターニングポイントに 難しい局面で、これ以上ない判断を下して独立を果たした家康。17歳とは思えぬ冷静さだが、義元の討ち死にまでは予想せずとも、戦の混乱に乗じて、岡崎城に入るシミュレーションは頭のどこかであったのではないか。 6歳から織田家や今川家の間を人質として行き来した家康の幼少期を思えば、「何が起きてもおかしくはない」と普段から、いざというときのことを考える癖がついていたとしても違和感はない。 多難な人

    徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断"
    ume-y
    ume-y 2023/01/29
    家康が岡崎城に入ってから、今川から離反するまで一年くらい経ってるのか。
  • 徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由

    「氏真はしまいには国を亡ぼすだろう」 そのため、信長の要請に従い、織田方につくことになったと書かれている。しかし、家康とて、氏真の置かれた大変な状況は想像できたはず。援軍が来ないからといって、子を捨ててまで、あっさりと織田方につく理由になるだろうか。むしろドライな印象すら受ける。 家康が今川からの離反を決めたタイミングは諸説あるが、今川義元が討たれて岡崎城に入った時点で、織田家につくことはある程度、腹に決めていたのではないか。子の待つ駿府にいち早く戻らなかったことがすべてを物語っている。 今川義元が討たれたあと、家康がすぐに織田家につかず交戦したのは、どこにも味方しない立場をとることで、自身の影響力を高めようとしたのだろう。その後、家康は信長の要請を受けるかたちで「清州同盟」を結ぶにいたっている。 氏真より家康が一枚も二枚も上手だった 『徳川実記』は「忠義深い家康」というイメージ守ろう

    徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由
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