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小飼弾さん。1991年12月米カリフォルニア州立大学バークレー校中退。その後帰国し、ネットワーク技術者として活躍。1996年ディーエイエヌを設立し、代表取締役に就任(現任)。1999年オン・ザ・エッヂ(現ライブドア)の取締役に就任するも、2001年に同社取締役退任。 書評を主なコンテンツとするブログ「404 Blog Not Found(参照リンク)」の書き手として知られる小飼弾さん。書評を書けばその本の売上に大きく影響するという、日本屈指の書評ブロガーだ。 404 Blog Not Foundでは、1日に何本もの書評が公開されることも珍しくない。個人ブログでそれが可能なのは、小飼さんが本1冊を10分弱で読むことができ、1日に10冊前後の本を読んでいるから。だからこそ、あのボリューム感のある書評サイトが続いているのだ。 今回は、本を“読む”スペシャリストである小飼さんにインタビュー。著書『
⇒買う本がない 買いたい、読みたいという本がなくなってしまった。 八重洲ブックセンターにいたら昔はいくらでも時間が潰せたのだが。 東京に戻って、私も八重洲に行って、あれ?と思った。我が青春の新宿紀伊国屋もそうだった。それほど楽しくない。神田古書街は面白いが、どうして若いころはこの街に終日いても足りないと思ったのだろうかと、いぶかしく感じられた。沖縄にいた頃は夢のジュンク堂だったが、2時間もすると疲労感はあった。それでも、ジュンク堂はすごいなとは思ったし、今でも好きだが、2時間もいられない。 私については、「買いたい、読みたいという本」はある。この数年古書市場が充実しているので、ある意味では天国というか、昔読んだ本を探して買って再読する。中学生のころ、結局人生をこの本で変えたなという本を再入手してうるうるしたりもする。 ああ、ちなみにその一つはこれですよ⇒「 愛はいずこに (1965年):
ニューヨーク発--Amazonの最高経営責任者(CEO)であるJeff Bezos氏は米国時間5月6日、待望の大画面の電子書籍リーダー「Kindle DX」を市内中心部のペース大学の講堂にて公開した。Kindle DXは、パーソナルおよびプロフェッショナルドキュメント、新聞、雑誌、さらには潜在的に非常に大きなターゲット市場となる教科書など、多彩な読者層が対象となっている。 より大画面のKindle DXの発表は、必ずしも秘密のベールに包まれていたわけではない。これまでしばらくの期間、Kindleに大画面モデルが追加されるとのうわさが流れており、今週に入ってからは、もっと具体的な報道も出回り始めていた。 AmazonのKindle DXに関する製品ページによれば、以下のような情報が明らかになっている。 16階調グレースケール表示の9.7インチディスプレイを搭載(現行の「Kindle 2」には
そういえば⇒MORI LOG ACADEMY: 反語が通じない 反語とか、通じないなと思うことはさらに多くなった。 最近はあまり言われなくなったが、「仄めかし」とかもその部類かな。普通に読解力ないのを、「お前は仄めかし」とかなる。まあ、そういって怒らせて「言葉の踏み絵を踏ませる」トラップに嵌めるというテクでもあるのだろうけど。 ブログへの罵倒というのも、この人知性ないなあ、反射だな、イデオロギー的な教条でやっているなというのは、つまらんな。 反面、いや、ぞっとするレベルまで読まれていることがある。 まあ、そういうものか、普通に。 ああ、あと、昭和は遠くなりにけり、で、そういう背景がないとまるで通じないっていうのはあるんだろうな。 この「昭和は遠くなりにけり」も元ネタ通じない人もいるだろうし。
ネタ元⇒ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊を紹介 - 分裂勘違い君劇場 儀礼上ネタ本のほうはアフィらないことにしときます。 1 人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ 分裂君がA.H.マズロー好きなのはわかるので、まあ、かな。たしか、松永さんも好きだったかな。私は、正直に言うと、マズローは偽科学だと思っているのでなんとも。ただ、それをいうならユングやフロイトもそうだけど。じゃ、どっちもどっちかというと、以下略な感じ。 2 道徳の系譜 (岩波文庫) これは普通に読まなくていいんじゃないかな。日本の伝統とは違うし。 3 ツァラトゥストラ (中公文庫) 私もこのヴァージョン持ってます。が、あまりお勧めしない。西尾幹二もそうだけど、みなさん、ツァラトゥストラを警句的に読み過ぎ。物語の構造がわからないと全体で何を言っているのか
⇒404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか 弾さんらしいというべきか、まためちゃくちゃなことを書いているなぁとも思うが、批判ではないよ。まして、被害妄想にもほどがある、ほどでもないつもりなんだけど。 ま、ちょっとだけ。 この「国」が「日本語」に対して来た非道は、本書にも詳しく書かれている。この国において、日本語を虐げて来たのは他ならぬ国家であり、その走狗たる役人であり、その役人たちに一目おかれていた文学者たちであった。彼らが日本語につけてきた傷は未だ痛々しく、いまこうして我々が使っている日本語に残っている。中途半端で意味不明な漢字簡素化に新仮名づかい....私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。私の名前が「彈」ではなく「弾」なのも、実はその余波である。 これはそうではないんです
些細なツッコミでどうでもいいといえばいいのだが。 日本は木材消費の8割を外材でまかなっている世界有数の輸入国だ。 その主要な輸入相手国であるインドネシアで、日本は人工衛星の画像を使って伐採状況を監視する方法を開発した。広い熱帯林のどこで、違法伐採が進んでいるかを知る手段になる。 多分執筆子、インドネシアの具体的なイメージがなく頭でこの社説書いているのだろうと思う。というのは、日本の材木消費からインドネシアの熱帯林伐採と思念を動かすとき、あの自然の体感があれば、まずパームツリーを思い描くはずだ。 文章というのが難しいのは、こういうところにある。文は人なりというのは文体論として問われるが、さらに人としての経験の豊穣さというものが裏打ちされる。あるいは文を読むとはその人の経験や感性を読み出すことだ。別の言い方をすれば、優しいわかりやすい文章に価値があるというものでもない。文章は頭の良い人、文章が
かつては、通勤・通学の電車内で小説ばかりでなく難しい学術書に読みふける人々が珍しくなかった。それがいつの間にか漫画に変わり、今は音楽を聴くか携帯電話とにらめっこ、あるいは電子ゲームに興じる人が急増している。 そうとばかりでもないと思うが。あと、昔の「難しい学術書」というのは大半が日本語として意味不明、よく読んだらナンセンスというのが8割かな。 人は自らの日常から得る経験知はごくわずかだ。核家族化や仕事の都合で一家が顔を合わせる団欒(だんらん)の機会も減って、祖父母から父母へ、父母から子へと当然伝わるべき経験知も、すんなりと継承することが難しくなっている。 Wii Musicよいですよ。リモコンとぬんちゃくをもう1セット。 残念ながら、今の小学校の漢字教育は、子供によい影響を与えていないのではないか。例えば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」も読めない。 まあ、読めないかな。ただ、あれ読むと
⇒ブロガー必見! 文章上達のための 12 と1/2のルール | Lifehacking.jp 私はよく悪文と言われるし、文章がうまくないなと自分で思っている。ただ、ここがどうもいけないのだが、うまい文章というのが底が見えて好きではない。いわゆるうまい文章というのを見ると、この人ただのバカでしょとかどっかで思っている。もうちょっというと私の文章を悪文とそしる人にそれほど納得しているわけでもない。 私は小林秀雄の悪文が好きだし、吉本隆明の悪文も好きだ。この二人についてはもう救いようがないという感じがする。山本七平も初期のものはけっこうな悪文が多い。昨年ようやく漱石の明暗を読んだがこれなんか洒落にしかならないような悪文のオンパレード。しかし、なぜ、こうも悪文は魅惑的なんだろう。と、悪文に魅惑されている自分には、もう救いようがない。 神足さんとか文章うまいなと思うが、技術で書いているのがわかるうま
カナル型(耳栓型)イヤフォンが高音質なイヤフォンの代名詞となって久しい。最近は3,000円程度のモデルも豊富にラインナップされているが、こだわり派に人気の価格帯と言えば1万円程度のラインになるだろう。上を見ればキリが無いが、付属イヤフォンからの買い替えとして「高価ではあるが、買えないことはない」ラインがここだ。 そんな価格帯の代表格と言えば、2006年5月から発売されているソニーの「MDR-EX90SL」が挙げられるだろう。標準価格は12,390円だが、実売は1万円を切っている。通勤電車の中で、シルバーヘアライン仕上げのイヤフォンをしている人を見かける事も多い。 だが、「MDR-EX90SL」は構造的に、決して“標準的なカナル型イヤフォン”ではない。筐体を直接耳穴に入れるカナル型では、搭載するユニットの大口径化に限界があるが、その問題をクリアーするためにユニットに対して角度を持たせたイヤー
⇒本を読まない人間 私は本を何冊読むかというのはどうでもいいことじゃないか以下略なんだけど。 繰り返し読む本は、その著者の内的な感覚に耳を澄ましているという感覚がある。 というか、人の話を聞いているというか。 私は若い頃、今でもそうかな、人の話を聞かないとよく叱責された。この話は書いたけど、それは大半は私がさっさと話をマクロ処理してその権力性を脱色してしまうからのようだ。人の話を聞けというのは、ようするに命令なのだから。 それはそれとして。 私は、人の話を、自分としてはよく聞いている。声とか論理とか、特に、言葉と言葉使いの感性を。 特に、言葉のなかのある内的な感性の揺らぎみたいのを聞き分けようといつも無意識の努力をしている。 文章のうまい人や頭のよい人というのはいて、そういう人は、ある程度文章をそのままマシン的にかける。わかりやすく明解というか。でも、そこの内的な感覚はおもむろに欠落してい
大学生の読解力の低下が問題視されているという。2003年のOECD「生徒の学習到達度調査」によれば、高校1年生の読解力が、国際的に見て平均程度しかなかったそうだ。そして調査当時の高校生は今、大学で学ぶ年齢になっている。 ●『考えるヒント』の難解さ ずいぶん昔の話で恐縮だが、ぼくが高校生の頃に悩まされた代表的な作家が小林秀雄だった。現代国語の試験に頻繁に登場する『考えるヒント』からの引用出題は、その難解さに閉口したものだ。 このコラムを書くために、書店で文庫本を探したら、まだちゃんと売っていたので買ってきた。そして、その『考えるヒント』(2004年文春文庫)をパラパラとめくってみると、難しいどころかとても明確だ。どうして、この文章に悩まされたのか、今から思うと不思議な感じがする。 よくよく考えてみると、難解な文章というのは下手な文章でもあるのかもしれない。文章は本来、人に読んでもらうために書
楽しい本を読むときはできるだけゆっくり読む。終わってしまったら残念な気持ちみたいなのがある。 私はいわゆる速読というのはしないが、人から速いねと呆れられたことはなんどかある。たぶん、読み方の処理が違うのだろうと思うし、そのあたり、どうも私の誤字脱字脳と関連しているのかもしれない。というか、速読というのは、私について言えば、読みが粗い、というか、即座に理解スキームを組み立ててフィリングしている感じがする。ネットの情報もそうやって読む。むしろ、はてなユーザーの日記はあまり速読しない。というか、文章のうまげな人なら速読しても大丈夫だがそうでない文章は速読することで何かを読み落とすというか、他者という感覚を忘れる。 気になる本はたいてい二度読む。つづけて二度読むこともある。二度読むと理解が進む。あと解析しつつ読むこともある。 なんど読んだかわからない本もあるが、それでも読めた気はしない。ただ、そう
WEB Davinci Last update 20 Jun,2004. WuƂɂ͏cDɊ҂BvԊO WuguKN̍hɕqȕ|͂ǂꂾHvԊO eWB fڎ҂ɂ͒IŐ}v[gI ̃v`i{ 6/5UP cȐ̖{oł�Â錻݁A ̒{ɂ낢{ɏô͂ȂȂނB vĂǎ҂݂̂ȂɁA_EB`ҏW Acホテル東京銀座 東京都 Anaインターコンチネンタルホテル東京 東京都 Bulgari Hotel 東京都 The Aoyama Grand Hotel 東京都 THE GATE HOTEL 東京 by HULIC 東京都 ウェスティンホテル東京 東京都 キンプトン 新宿東京 東京都 グランドプリンスホテル新高輪 東京都 ザ・キタノホテル東京 東京都 ザ・キャピトルホテル東急 東京都 ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町, ラグジュアリーコレクションホテル 東京都 シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホ
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
⇒猫を償うに猫をもってせよ - 古典はいつ読み終わる 先日、ゴーゴリの「死せる魂」と、ゾラの「居酒屋」を、いずれも百円くらいで古書店で買った。どちらもまだ読んでいないが、はて、自分はいつになったら、このレベルの古典的文学作品、あるいは古典的著作を全部読んでしまうのだろう、と考えた。 これほど読みに読んでも古典的作品を読み終わらないのに、新作小説の片々たるものなど読む人は、何であろうか。そういえばトゥキュディデス「戦史」もまだだ。 私も同じ嘆きを持つ。まあ、猫猫先生とは嗜好が違うし、私は後期モームや後期ヘッセからは強い影響を受けた。 「月と六ペンス」なんか現代でもまだまだ面白いと思う。この作品はゴーギャンの文脈や芸術家の文脈で語られることが多いが、女という奇っ怪な生き物という点で読むのほうが面白い。 月と六ペンス: モーム,行方 昭夫 平成の時代の優れた翻訳, 2005/11/13 レビュア
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