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  • プロジェクトS(プロジェクト瀬川)

    将棋世界2005年8月号、角建逸編集長(当時)の「プロ棋士への挑戦 -プロジェクトS-」より。 トリビアの種から 事の始まりは、2月3日発売の誌3月号「盤上のトリビア」だった。山岸浩史氏がアマチュアの瀬川耕司さんを取り上げ、彼の「プロになりたいんです」という衝撃的な発言を載せたことが全ての発端である。 奇しくも同日からアマ竜王の加藤幸男さんの竜王戦自戦記が読売新聞で掲載開始。加藤さんはその第3譜で「プロになる道」と題して瀬川さんについて触れ、「瀬川さんをプロ棋界に受け入れる―。そんな議論があってもいいのではないか」と提言された。 これを受けて将棋連盟で行われた棋士会、瀬川さん人からの嘆願書が理事会宛に届いたこと、棋士総会でプロ入り編入試験の実施が決議されたことまでの一連の流れは、野月七段の朝日オープン・プロアマ戦の文章に詳しい。 瀬川晶司さんは、昭和45年3月23日生まれの35歳。佐藤

    プロジェクトS(プロジェクト瀬川)
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/09/04
    『「朝日オープンで山田敦幹さんが屋敷九段をねじり合いの末破りましたよね。(平成12年9月)昔なら考えられなかったことです。あれでアマがプロにも勝つことができるんだという気持ちになった。」』
  • 「泣き虫しょったんの奇跡」前夜 | 将棋ペンクラブログ

    将棋世界2005年3月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第11回 『将棋は気分しだい』である」より。 「暗い」「勝てない」の悪循環 読みの深さと知識の量。もしコンピュータ同士なら、この二つの優劣で勝負は決まる。だが人間が将棋を指す以上、そこにどうしても第3の要素が入り込む。そして、それこそが勝敗を分けることを身をもって証明している人がいる。 「寒いですねえ」とニコニコしながら、その人は現れた。スーツが似合う長身。黙っていればかなり威圧感があるのに、ぼそぼそとした声を発したとたん、ただの「いい人」になってしまう。 瀬川晶司さん、34歳。ご存じ、恐怖のプロキラーである。 平成12年、銀河戦で対プロ7連勝。15年、やはり銀河戦で久保八段を破り、アマ初の対A級勝利。今期銀河戦も現在4連勝。その対プロ戦通算成績はなんと15勝6敗で、勝率7割1分4厘はプロの年間勝率ランキングならベスト5くらいには入

    「泣き虫しょったんの奇跡」前夜 | 将棋ペンクラブログ
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/09/02
    『「じつは、この機会に僕からも話しておきたいことがあるんです」急にあらたまった表情に変わった瀬川さんの続く言葉には、耳を疑った。』
  • 羽生世代、切れ負け将棋のそれぞれの棋風

    将棋世界1992年8月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ:浪速、正棋会、乱れ撃ち。(後編)」より。 1年くらい前、羽生が、持ち時間が短い将棋が終わった後に、奨励会の頃を思い出した、といったことがある。中盤戦から双方1分将棋の大熱戦を、やっと勝ったので、そういえば、こんなに秒読みをやったのは、(TV棋戦を除くと)奨励会以来だ、というのだ。奨励会は1時間30分の持ち時間なので、深くて正確な読みよりも、短くとも、鋭い読みが大切になる。中盤戦から秒読みになることが多いので、実力が拮抗していると、だいたい難解な終盤を1分将棋で指さなくてはいけない。そのときに、最も重要なことは、手が見える、ということである。言い換えれば、将棋に対する反射神経にすぐれているということだ。 切れ負け将棋は、反射神経を鍛えるには絶好で、奨励会、とくに有段者になってからは、当にたくさん指した。僕の有段者の時代、羽

    羽生世代、切れ負け将棋のそれぞれの棋風
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/08/19
    『何で勝っても勝ちは勝ち、ルールに不備があったならば、それを突いて勝つことは当然なのだ。そこで僕は自分で設問する。今、同じことが中原名人相手にできるか?』これが1992年の文章かあ。
  • 宮田敦史五段(当時)「僕の前に誰か出てきましたか」

    将棋世界2005年5月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 最終回 『人間にとって終盤は大変である』」より。 「コンピュータ以上」の男 誌のN記者が証言する。 「彼には最近まで『詰将棋サロン』の問題の検討をお願いしていたのですが、その検討能力はおそるべきものがあります。パソコンが発見できなかった余詰めを見つけたことが何度もあったのです。いつしか編集部では、彼を『マシン』と呼ぶようになりました」 彼―宮田敦史五段には昨年の第1回「詰将棋解答選手権戦」で初めて会った。超難問ばかり10題の解答速度を競うこの大会にはプロ2名(宮田五段と上野裕和四段)を含む28名が参加し、ぶっちぎりのタイムで優勝したのが宮田五段、ダントツの最下位が私だったのだ。 苦痛に耐えきれず白紙で解答用紙を提出して廊下で一服していると、一番の回答を終えた宮田五段が飛び出して来た。自己紹介しようとすると、いきなり 「僕の前に誰か

    宮田敦史五段(当時)「僕の前に誰か出てきましたか」
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/08/08
    『だが、どうも様子がおかしい。首を傾げながら独り言を繰り返し、スタッフに「パソコンないですか」とマシンらしからぬことをいう。《中略》「最後の問題で駒が余ったんです」余詰めがあるというのだ。』
  • 「B級1組=鬼の棲み家」が死語になっていた時代

    将棋世界2004年7月号、「第63期順位戦B級1組」より。 一時、B2からの昇級者が当然のように一期で通過していった。いわゆる「顔パス状態」で、鬼の棲み家という言葉が死語になっていたが、再びその名にふさわしい場となってきた。 棋界の層が厚くなってきている現在、それが一番形となって表れているのがA級とこのB1である。 「B1史上最強」「全員が昇級候補であり全員が降級候補」などの声が聞こえる。 (以下略) * * * * * 「B級1組は鬼の棲み家」と昔から言われてきたわけだが、B級1組を1期で駆け抜けていった「顔パス状態」の棋士は次の通り。(タイトル・段位は当時) 1992年度 羽生善治竜王 1993年度 森下卓七段 1994年度 森内俊之七段 1995年度 佐藤康光七段 1996年度 井上慶太七段 1997年度 丸山忠久七段 1998年度 郷田真隆棋聖 1999年度 先崎学七段 2000年

    「B級1組=鬼の棲み家」が死語になっていた時代
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/07/14
    『一時、B2からの昇級者が当然のように一期で通過していった。いわゆる「顔パス状態」で、鬼の棲み家という言葉が死語になっていたが、再びその名にふさわしい場となってきた。』
  • 先崎学八段(当時)「順位戦データベースというのがあるのを知ってますか」

    将棋世界2004年7月号、河口俊彦七段(当時)の「対局日誌」より。 大広間の対戦をちらっと見て、編集室に降りると、先崎八段がいて、「順位戦データベースというのがあるのを知ってますか」と言う。小生パソコンはやらないから知らない。 「これがおもしろいんです。河口さんならハマりますよ。見てみませんか」 と言いながら素早くセットしてくれ、「お望みのデータを言って下さい」と言うので、調べている芹沢九段のB級1組時代の成績を出してもらうと、なるほど総てが一目でわかる。将棋世界の合をめくって調べるより、はるかに早く見やすい。どういう人が作ったのか知らないが、便利でおもしろいものがあるものだ。先崎君が言ったように、すっかり熱中し、1時間あまりも楽しんだ。ちなみに小生のデータを見ると、C級1組に19年もいた。割のわるいクラスに長くいたわけだ。 (以下略) * * * * * 順位戦データベースは、各期各級

    先崎学八段(当時)「順位戦データベースというのがあるのを知ってますか」
    y_koutarou
    y_koutarou 2018/07/06
    『編集室に降りると、先崎八段がいて、「順位戦データベースというのがあるのを知ってますか」と言う。《中略》「これがおもしろいんです。河口さんならハマりますよ。見てみませんか」』
  • 佐藤康光九段の戦慄の3段ロケット型居飛車穴熊退治

    将棋世界2002年3月号、毎日新聞の山村英樹さんの第51期王将戦七番勝負第1局〔羽生善治王将-佐藤康光九段〕観戦記「炸裂したスズメ刺し」より。 〔意表の三間飛車〕 記録の天野貴元二段が行った振り駒は1枚が回り将棋の「10」のように立って、歩が3枚出た。羽生の先手番が決まった。そうなると盤側で予想したのは当然相居飛車の戦型になる。ところが、佐藤の4手目は△4四歩。「?」と見るうちに飛が3筋に移動した。なんと、公式戦では初の佐藤の「純正」三間飛車。これから何番も対戦する羽生を相手に、初戦からいきなり意表を突くことをやってくれた。羽生も「驚きました」と語っていたという。 しかし、振るにしても現在は四間飛車の全盛時代で、三間飛車の実戦は少ない。ということは、必ずしも有利な戦法とは思われていないのではないか。さらに控え室では「三間飛車は軽いサバキが求められる作戦。佐藤さんの棋風とは違う感じがするが」

    佐藤康光九段の戦慄の3段ロケット型居飛車穴熊退治
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/07/02
    『ちょうと青野照市九段、勝又清和五段も控え室を訪れたが、「(後手陣の)こんな形は見たことがない」。《中略》先手の堅い穴熊を見ると、素人目にもそう見える。だが、6手進むと見方ががぜん変わる。』
  • 禁断の▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲2四歩

    将棋世界1982年8月号、大島映二四段(当時)の「定跡研究室」より。 初手からの指し手 ▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲2四歩△同歩▲同飛(指定局面図) ▲2四歩△同歩▲同飛が成立するか、答えは否。 これは棋界の通説である。恐らくはこのことは今後も変わらないだろう。 あまりにも有名な定跡なので今さら解説する必要はないかもしれないが、なぜ先に角頭を突破しているのに不利になるのか、簡単に振り返ってみたい。 指定局面から予想される指し手は△8六歩であるが、この手は予想と言うより、絶対の一手である。それに対して先手の応手として▲2三歩と▲8六同歩がある。 変化1 △8六歩▲2三歩△8七歩成▲2二歩成△同銀▲2八飛△2七歩▲5八飛△8六歩にて後手優勢(変化1図) ▲2三歩。先に角を取るねらいであるが、結局角を手にしたものの後続がなく▲2八飛と引き下がるようでは失敗である。最終手△8六歩が良さを決定

    禁断の▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲2四歩
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/07/02
    『すると、変化2図の△1二飛が定跡のところ、△8二飛と技巧2が指してきた。それではと▲4五角と打つと、技巧2は△5四歩。▲同角なら△8六飛▲8七歩△5六飛で先手はハメられてしまう。』
  • 藤井猛九段「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ」

    将棋世界2002年6月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。 4月1日、新年度入りである。順位戦が終われば竜王戦で、この日は、丸山名人対藤井九段戦、深浦七段対鈴木(大)七段戦などの好取組がある。 1図は、丸山対藤井戦。おなじみの「藤井システム」だが、▲9六歩と受けてある所が見なれぬ形だ。 いうまでもなく、穴熊に組ませぬ、が藤井システム。端を受けた分、先手の駒組が立ち遅れているのを見とがめて、さっそく仕掛ける。調べてあるのか進行が早く、1図が昼休みの局面だった。 1図以下の指し手 △8五桂▲8六角△4五歩▲8八銀△7三銀▲5七銀△6五銀▲5五歩△9五歩▲同歩△7六銀▲7八金寄△9七歩▲同桂△同桂成▲同香△8五銀▲5九角△5五角(2図) 一見当たり前の手の連続のようだが、両者長考の連続だった。戦法の中核をなす部分なのだろう。このあたりの詳しい変化について、局後ほとんど語られなかった

    藤井猛九段「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ」
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/07/01
    『名人も同じだった。△4六飛と出る順にここで気がつき、さっきの大長考のときにこれを読み切られた、と読んだ。そうして―。』
  • 神谷広志六段(当時)「泣くな先崎、明日がある」

    将棋世界1992年5月号、神谷広志六段(当時)の順位戦C級2組最終局レポート「泣け!!」より。 9回戦の杉-先崎戦は壮絶な将棋だった。必敗形となった先崎が自陣にありったけの駒を投入。奇手を連発してネバる様はすさまじく、この将棋を並べた人は一様に「ウヘ!!」「へ~」と驚いたものだった。だがそれも報われずについに敗戦。約5ヵ月続いた自力が消滅したショックは大きかったろう。 2月終わり、先崎、神谷それに囲碁の棋士数人と飲んだ時、先崎がらしくない愚痴をポツリともらし「冗談じゃねえ、オレ達碁打ちほ方がずっとキツイ勝負をしているんだ。甘えんじゃねえ」と猛烈におこられて、普段酔っ払ってわめいているはずのぼくがなだめ役になったりした。 その先崎は関西で森安(正)と対戦するためここにはいない。それが物足りないなあと思いながら3階の事務室に行くと、有森がいて朝から「疲れました」を連発している。すでに昇級を決

    神谷広志六段(当時)「泣くな先崎、明日がある」
    y_koutarou
    y_koutarou 2017/06/21
    『先崎、君は情けないヤツだ。明日などない。泣け。』『棋士ならばどんな対局も全力投球するのは当たり前で、相手が大切な時にだけ使う力があるとすれば、普段は何をしているのかということになる。』神谷、熱い!
  • 井上慶太八段(当時)「もう立ち直られませんて、ホンマ」

    近代将棋2002年3月号、神吉宏充六段(当時)の「関西マル秘情報」より。 先ほどから登場している井上八段は、加古川在住の棋士だ。地元の将棋クラブや将棋イベントには欠かせない存在で、明るく楽しいキャラクターは関西でも地元でも人気者。一度は井上独特の関西弁と聞いて欲しいものだ。 さて、村田四段に振られて、私はと子、井上八段は奥さんを連れて、計5人での事会となった。 その席で少し酒が入ったからか、ケイタ先生「ワシ、年末にエライポカやってまいまして……」と切り出した。 年末と言えば最後に井上が戦ったのはB1順位戦で神谷広志七段との勝負。そこで「棋士になって初めての経験してしまいましたわ~」という一手を指してしまう。 え?どんな手って。そりゃ、皆さんきっと一度はやったこともあり、やられたこともあるアレですがな! 「へえ、王手飛車に掛かってもたんですわ」と嘆く。なんでも8五飛戦法で4一玉のナナメの

    井上慶太八段(当時)「もう立ち直られませんて、ホンマ」
    y_koutarou
    y_koutarou 2016/07/31
    『4図で▲6八銀なら、△4五桂▲5八玉△9九飛成で後手の勝ち。プロとして、まさに会心の読みだったに違いない。ところが……。』
  • 「観戦記者になりたい」

    今回の将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞を受賞された朝日新聞記者の佐藤圭司さんの高校生時代の将棋世界への投稿。 将棋世界1984年5月号、田丸昇七段(当時)の「将棋相談室」より。 <問> 観戦記者になりたい 山口瞳さんの「血涙十番勝負」を読んでから将棋が大変好きになりました。指すのも好きですが、観戦記を読むのが好きです。文章を書くのが好きなせいもあって、将来観戦記者になれたらいいなあと思っています。(あ、ここまでは雑誌にのせないでください。でも書いちゃったゴメンネ=筆者)。観戦記者になるためには、どうすればいいのでしょうか。 (岡山市 佐藤圭司 17歳 初段) <答> 職業的にはまだ大変 プロ同士のギリギリの勝負を盤側からみつめ、それを文章で新聞や雑誌で広く将棋ファンに伝える。それが観戦記者の役目です。文章を書くことと将棋が好きな方からみれば、これほど魅力的な仕事はないでしょう。しかし現実的

    「観戦記者になりたい」
    y_koutarou
    y_koutarou 2016/07/31
    『佐藤さんは大学を卒業後、日本興業銀行(現・みずほ銀行)へ入行したが、3年後、朝日新聞社へ転職。将棋担当となったのはそれから8年6ヵ月後、2002年のことだった。』
  • 天野貴元さん逝去

    天野貴元さんが10月27日、多臓器不全のため亡くなられた。享年30歳。 →アマチュア棋士の天野貴元さん死去 闘病中も大会出場(朝日新聞) →【将棋】元奨励会三段の天野貴元さんが死去(スポーツ報知) 病気と闘いながらの将棋普及や大会出場、奨励会三段リーグ編入試験など、天野さんは多くの人に感動をもたらせてくれた。 ……とはいえ、やはり若い人が亡くなるのはとても辛い。 ——– 昨年、天野さんの著書「オール・イン」が将棋ペンクラブ大賞文芸部門対象を受賞したときの、天野さんの受賞のことばより。 失うことによって手に入れたもの 私にとって「プロ棋士」という職業は、「もしなれたらいいのになあ」といった手の届きそうもない遠い夢ではなくて、確実で具体的な自分の未来像として存在していたものでした。 プロ棋士になるということは、夢や憧れではなく自分に課せられた絶対的な使命であって、高校にも行かず、将棋に賭け

    天野貴元さん逝去
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/10/30
    『プロ棋士になるということは、夢や憧れではなく自分に課せられた絶対的な使命であって、高校にも行かず、将棋一本に賭けてきたのもそれを固く信じていたからです。』
  • 佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」

    将棋世界2004年6月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第3回 森内の将棋は羽生のチェスで変わった」より。 「日人じゃない」 「あの二人にはついていけません。顔が合えばポーンがどうしてナイトがどうしたとか話し込んでいる。私にはチェスの棋譜などまったく頭に入りませんが」 自身もかなりのチェス好きであるはずの佐藤康光棋聖は、半ば呆れ顔でいう。 誌昨年3月号「棋士たちの真情」で佐藤棋聖が松治人氏の取材に答えて、<羽生さんとはその思考方法が違うような気がします。結論は結局同じになるかもしれませんが、それにたどり着くプロセスがどうも違う。チェスをやってよくわかりました。> と語っているのが非常に気になっていた私は、棋聖に発言の真意を尋ねた。具体的な指し手の話になるのかと思ったら、棋聖が感嘆するのは、羽生善治名人のチェスに対する常人離れした「姿勢」だった。そして、それは森内俊之竜王にも共通して

    佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/10/24
    『「それは将棋をやってる人にありがちな誤解です。ぴょーん」と現れたのは私の勤務先の後輩、塩見亮である。最後のぴょーんは彼が熱狂するモーニング娘。のカゴちゃんの真似だ。』
  • 伝説の名作「盤上のトリビア」

    2005年の将棋ペンクラブ大賞一般部門佳作受賞作。 将棋世界2004年4月号、山岸浩史さんの盤上のトリビア第1回「将棋には『裏の世界』がある」より。 ♪世界に一つだけのクズ……そんな歌が、頭に響いて離れない。私が勤務する出版社の創業者は「記事の中にクズが入ると雑誌がクズになる」というおそるべき遺訓をたれた。子供の頃から愛読してきた『将棋世界』を、この手でクズにしてしまうわけにはいかない……。 人生の正念場に立たされた一介の将棋オタクは決意した。以後は「世界に一つだけのバカ」になりきり、ほかの執筆陣が考えもしないムダなことを大真面目に研究することで活路を見出していく。 研究対象は、盤上の話に限る。だが、読者の上達にはいっさい役立たない。いわば「盤上のトリビア」である。 「互角」のはずなのに で、表題に掲げたのが今回のトリビアというわけだが、これで一発「へぇ」の嵐とはいかないのはお許しいただき

    伝説の名作「盤上のトリビア」
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/10/24
    『ちょっと見慣れない形だが、あなたなら、ぱっと見て形勢をどう判断するだろうか。正解をいえば、形勢は「互角」である。なぜなら1図は、プロ間でも《中略》もっとも人気を集めている戦形の一つだからだ。』
  • 藤井猛九段「こっちは優秀かどうかで戦法を選んでない。指してて楽しいかどうかなんだから」

    将棋世界2004年5月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第2回 居飛車党と四間飛車党は別の人種である」より。 四間飛車が嫌いだ! お互いを理解しあえないのは、男と女だけではなかった、という報告である。もともと私は四間飛車党を、同じ将棋趣味とする人間とは認めていなかった。 何より四間飛車のズルさが許せない。居飛車の攻めを待ってるだけで自分から仕掛ける手順はほぼ皆無。△4二飛の上に△4三銀が乗ったあんな重い形でじっとしているふざけた戦法が、ほかにあるか。(藤井システムは居飛車が角道を止めたときだけ成立する特殊戦法である) さらにその精神構造が理解できない。居飛車が急戦でくるのか穴熊なのか、やってみるまでわからないのだ。これから指す一局をどんな展開にするか相手まかせなんて、いい加減にもほどがある。 なぜ彼らは四間飛車を指すのか? 「そりゃ美濃囲いがかっこいいからですよ。ほら僕、名前がミノでし

    藤井猛九段「こっちは優秀かどうかで戦法を選んでない。指してて楽しいかどうかなんだから」
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/10/24
    おー、藤井の鰻屋発言の記事だ。『だいいち、この局面(3図)は研究する気がまったく起きませんね。千日手にされてもべつにくやしくない。自分の将棋人生には関係ない局面です』
  • 神谷広志六段(当時)の歯に衣着せぬスタジオジブリ作品評論

    将棋世界1997年1月号、神谷広志六段(当時)の「待ったが許されるならば……」より。 一昨年浜松に越して依頼、歯磨きと散歩がささやかな楽しみというきわめて退屈な毎日を送っている。 当然ここに改めて書く程の面白い体験などとは無縁。どうすればいいのか困ってしまったがもう一つの趣味であるアニメを生かし、スタジオジブリの宮崎&高畑作品について私なりの批評というか感想をダラダラと書いてお茶をにごすことに決めた。アニメに興味のない方には読むだけ時間の無駄と思われるので即ページをめくることをおすすめする。 「風の谷のナウシカ」 私をこの世界に誘ってくれた記念すべき作品。最初観た時は大変感動したものだが今の目で見るとなんだか全体的に力が入り過ぎている印象。それと主人公のナウシカばかりが強調されて他のキャラクターの存在感が弱い。強過ぎる女性は私苦手なんです。 「天空の城ラピュタ」 私が最も好きな作品。これか

    神谷広志六段(当時)の歯に衣着せぬスタジオジブリ作品評論
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/09/13
    『ポルコもカーチスも飛行機乗りなのだからやはり決着は空中戦でつけるべきだろう。席上対局を見せるのに、千日手になってしまいジャンケンで勝負をつけるのを見て誰が喜ぶか。』神谷、熱いな。
  • 花村元司九段「軌道はずれの将棋人生」(後編)

    将棋世界1971年10月号、連載対談「軌道はずれの将棋人生」より。 ゲストは花村元司八段(当時)、聞き手は石垣純二さん(医事評論家) 石垣「ところであなたがプロになったのは各地が空襲にあい、もうバクチや賭け将棋が出来なくなったからじゃないんですか?」 花村「いや、そういうわけじゃないんです。戦時中、木村名人と関根十三世名人が豊橋に来られたことがあるんです。その時、稲垣さん(花村八段を引き立ててくれた人、木村名人の後援者で七段)が、非常におもしろい男がおる。もう勝負事ならなんでもやり、囲碁なら素人で四段は堅い。将棋は五段ならピンと指す。バク才にたけている。花札を持たせたら天下一品だと宣伝したんです。まんざらホラでもなかったんです。その頃、木村名人は産業戦士慰問で各地を回っておられた」 石垣「大政翼賛会でしょう。あの方は講演がうまいから―」 花村「その時、そこで去年亡くなられましたが、一丁半な

    花村元司九段「軌道はずれの将棋人生」(後編)
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/08/20
    『「2千万円も持って賭け将棋をした方が……いまの将棋連盟の給料は少ないでしょう。よくそれでご満足ですね」花村「満足はしていませんが、賭け将棋の時代は終わったんですから、あきらめるしかないでしょう」』
  • 故・米長邦雄永世棋聖は言っていない「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」

    故・米長邦雄永世棋聖は言っていない「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/05/24
    『私も「米長永世棋聖はそんなこと言っていない。いつからそのようになってしまったのだろう」と昔から思っていた。なぜなら、以下の対談を中学生の時に読んでいたので。《中略》将棋世界1972年1月号』
  • 「縁の下の力持ち」の引退

    将棋世界1992年6月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『引退』」より。 3月31日―。 一人の棋士が静かに棋界を去った。吉田利勝七段。八段昇段まであと6勝、59歳の誕生日を数ヶ月後に控えての引退である。 棋士(四段)になったのは1957年。いらい35年間にたたかった公式棋戦902局、389勝513敗、勝率4割3分1厘。 盤上でのはなばなしい活躍はなかった。1974年度第5回新人王戦で青野照市四段と新人王戦三番勝負をたたかい、敗れた。その翌年、第27期棋聖戦で、二上達也プロと挑戦者決定戦を争い、無念の涙を呑んだ。1970年、B級2組に昇級し22年間その座を守った。それくらいである。地味を絵にかいたような棋士人生であった。 「引退は4年前から考えていた・・・あと何勝で八段昇段だからそれまで頑張れと、先輩棋士から励ましの手紙をもらったが、八段に昇ることへの執着はまったくなかった・・・以前

    「縁の下の力持ち」の引退
    y_koutarou
    y_koutarou 2015/04/26
    『―将棋連盟の経理はどうなっているのか・・・《中略》吉田はみずから志願して将棋連盟の経理部スタッフになった。棋士の生活条件を改善するためには、連盟の財布(経理)の構造を知らなくてはならない。』