昭和29(1954)年、読売新聞が原子力平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」の連載を開始いたします。 いまだ戦後9年ほどしか経過しておらず、国民の間では広島・長崎の惨禍の記憶も生々しく残り原子力に対するアレルギーが強くある中で原子力平和利用をテーマした連載は異色であり異彩を放つのですが、「大正力」こと「読売中興の祖」正力松太郎社長の強力なリーダーシップのもと、読売はグループを上げて日本の原発開発推進の報道に突き進みます。 2年後の昭和31年(1956年)、正力松太郎は1月に原子力委員会初代委員長に就任、そして5月には初代科学技術庁長官に就任、日本初の原子力発電所建設に向けて強力に法整備や東海村建設などに動きます。 この功績で正力は後に日本の「原子力の父」と称されるわけです。 当時の正力は読売新聞社長という枠を越えてたいへん精力的に活動しています、やがて始まろうとするTV放送にもいち早