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ブックマーク / finalvent.cocolog-nifty.com (188)

  • [書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン ): 極東ブログ

    「脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )」(参照)をなんとなく読んだ。翻訳がこなれていないとも思わないのだが、この手の日語の類書は改行が多く日人ライターによる甘口で通常読んでいるせいか、多少読みづらい感じがした。英国風のウィットとかもふふと微笑むにディレイがかかったりする。 話は日語の標題がある意味よく表現しているように、脳というのは意外とおバカなものだなということだが、つまり、自分の脳というのはそれほど賢いものではない、というか、人間の脳は人間が想定しているほど賢くないということを、主に心理学的なファクツを元に叙述している。 訳者後書きがなかなか上手な釣りになっていて、つまり書を読むとこういうことがわかるのだそうだ。まあ、そうかな。 病気のリスクがこれほど喧伝されているのに、なぜ禁煙できない人が多いのか。 なぜ不幸な被害者を責め、批判してしまうのか。 別れたくない相手に

  • [書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳): 極東ブログ

    大変な労作だと思うし、この一作をもって私は島田裕巳への評価を変えることした。粗方は想定していたことでもあり、驚きは少なかったとも言えるが、いくつかかねて疑問に思っていたことやミッシング・ピースをつなげる指摘もあり、貴重な読書体験でもあった。 ただ、読後自分なりの結論を言えば、あの時代島田裕巳を批判していた人々と同じ地平に島田裕巳が立ってしまっているのではないか、そうすることで暗黙の大衆的な免罪の位置に立とうしているのではないかとも思えた。もっとも、彼の意識の表出としてはこれ以上はないというくらいきちんとした反省の思索の跡が見られるので、それは批判ということではない。 書がどのようなであるかについては帯書きがわかりやすいと言えばわかりやすい。 初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し、サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない中沢新一。グル思想、政治性、霊的革命、殺人の恍惚な

  • [書評]マンガ音楽家ストーリー: 極東ブログ

    すでに五〇歳にもなって懐古するのもなんだが、大人になったなと思う機会はいろいろあるが、それでも一様に感慨にふけることがあるとすれば、大人買いをした後の自己嫌悪みたいなものだろう。そうひどい自己嫌悪っていうこともないことも多いのだけど。ってな前振りで、先日の大人買い報告。「マンガ音楽家ストーリー」全八巻。上達もしないが、ときおりキーボードを叩きつつ、お子様向け名曲もええもんだわいと思っていくうちに、意外と名作曲家の人生とか知らないことに気が付き……それにあの怖わーい音楽室の肖像画が懐かしく……てな次第。 「 バッハ(岸田恋)」は無難に面白い。マンガがマンガっぽくてよい面もあるし。読んでいて、バッハって若いころもあったし、マンガだからそう思えたのか、けっこう過激な人だったなと思うようになった。インヴェンションとか聞いているとあるバッハのイメージを持つけど、実際にはけっこう諧謔精神もありまた柔軟

  • [書評]アフターダーク(村上春樹): 極東ブログ

    もう少し間をおいてから読むつもりだったのだが、なんとなく夜というものにつられて「アフターダーク(村上春樹)」(参照)読んでしまった。日では長編という扱いになっているのだろうか。しかし長編というほどの重さはなく、さらっと数時間で読める。私は朝を迎える前に読み終えてしまったのだが、できたら、そのまま渋谷の深夜でぶらぶらと彷徨して読みたかったようにも思う。街の深夜が、いとおしいというのでもないが、とてもキーンに感じられた。 この作品も従来の春樹らしい作品だと言える。あるいは言えると思う。冒頭の「私たち」の映画的な、あるいは無人称的で超越的な(吉隆明のいう世界視線のような)視線を維持する文体が少しばかり従来の村上春樹とは違った印象も与えるが、展開されているエピソードと会話はむしろ初期の村上春樹の短編を特定の主人公に寄りあわせたようになっており、その意味では短編集という趣も感じられる。 作品の統

  • 極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)

    ようやく読めたということに個人的な感慨がある。長いこと読めなかった。私事めくが私は村上春樹の熱心な読者で十年前までは初期の作品のほぼコンプリートなライブラリーを持っていた。後に「回転木馬のデッド・ヒート」(参照)にほぼ収録された『IN・POCKET』も全巻持っていた。が、ごく僅かを残して捨てた。彼が国分寺で経営していた喫茶店ピーターキャットにも行ったことがある(もっともそのときの店主の記憶はない)し、その他、彼が住んでいた地域や「遠い太鼓」(参照)の異国の町まで見聞したこともある。それほど好きだった村上春樹の文学がぱったりと読めなくなった。 私に二つの事件が起きた。一つは期待していたというかあまりに期待していた「ねじまき鳥クロニクル」(参照1・2・3)の第三部「鳥刺し男編」(参照)にぶっち切れしてしまったことだ。私はこの作品は二部までの力量で最低でも五部まで続くと信じていた。ひどく裏切られ

  • [書評]〈つまずき〉のなかの哲学(山内志朗): 極東ブログ

    以前は人に勧められたをよく読んだし、そうしたことで自分の視野の狭さを知るきっかけとなったものだが、いつからかそういうことが減ってきた。書「〈つまずき〉のなかの哲学」(参照)は、久しぶりにそうした契機で読んだものだ。一読して、なるほどな、私に勧めたくなるだな、ということがよくわかった(ありがとう)。「私」とは何か、人生とは何か、そういうものに私は今四十九歳までぶつかり続けた。これからもそうだろうが。 筆者山内志朗については私は知らなかったが一九五七年生まれとのことで私と同年である。もしかしたら過去のネット世界のどこかでハンドルとハンドルで遭遇していたかもしれないと思った。 書は率直に言うと私には読みにくいだった。理由は私にある。私が思考の柔軟性を失いつつあり、哲学書に対してまず哲学史的な特定の枠組みを求めてしまうことと、また、書で多く言及されているヴィトゲンシュタインについて顕著

  • カラーテレビの思い出(ずっこけ): 極東ブログ

    自民党復党議員問題を書こうかどうか考えてやめた。復党議員に投票した有権者はどう思っているのだろうか。政策じゃなくて人柄で選んだんですからということか。で、ぼんやりカラーテレビのことを思い出した。 このところいざなぎ景気(参照)を超えたという話をよく聞く。いざなぎ景気は、一九六五年から七〇年にかけて五年近く続いた好景気のことで、ちょうど私の小学生時代に相当する。ああ、あれが発展途上国の好景気というものなのかとなつかしく思い出す。好景気というわりには、今の生活水準からすると貧しいものだったなという思い出もあるし、それでいてなんか毎年のごとく家を改築してたような記憶もある。 三種の神器(参照)の話はもううんざりなので先に進めるとして、いざなぎ景気のころは、3Cというのがあった。カラーテレビ、クーラー、カーである。と、ふと英語でこれをなんて言うのかとまどった。カーは Carでいいだろう。cdr の

    RanTairyu
    RanTairyu 2007/01/21
  • ブログと金銭的インセンティブの辺り: 極東ブログ

    どういうふうに書いたらいい話題なのかよくわからないが、気がかりなので書きながら考えてみたい。発端は、ブログBigBang”オーマイニュースを巡る匿名性の問題について(2)---小倉弁護士に答える/ 心苦しいが鳥越編集長には勇退をお奨めする。”(参照)を読んでいて思ったことだ。最初にお断りだがエントリの批判ではないし、オーマイニュースへの批判でもない。 エントリの中心的な話題も、それはそれでとても重要なのだが、読後私はちょっと別の方向を考えていた。編集長が勇退する契機にはいろいろあるだろうが、一般的には経営状態である。雑誌なら編集長を変えることで刷新し売り上げを向上させたいものだ。そうした視点からすると、オーマイニュースと鳥越編集長の関係はどうなのだろうか。内容面で批判があるにせよ健全に運営されているのだろうか。つまり、利潤が上がり、投稿者=市民ジャーナリストに十分なキックバックが与えられて

  • ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ

    この間というかこの数年ハイデガー「技術論」のゲシュテル(Ge-stell)の視点から情報技術や超国家性について折に触れて考えているのだが、うまくまとまらない。そんなことを書くのはつらいし、およそ読みに耐えるものでもなかろうと思っていたのだが、なんとなく年越し前に少し書いておきたくなった。 ハイデガーの「技術論」は一九六三年に発表されたもので、その後七〇年代から八〇年代、九〇年代と、いわゆるテクノロジー来の人間という枠組みで問われてきたように思う。子細に見るなら、七〇年代はサルトル流実存主義の系譜、八〇年代にはニューアカ的な例えばデリダの背景的な後期ハイデガー論とも関係しているだろう。九〇年代には浅薄にジャーナリスティックなハイデガー論も起きたが、今となっては収束したかに見える。現在、ハイデガー「技術論」がどのように問われているのか、もはや時代に問われることはないのか、よくわからない。自

  • 極東ブログ: [書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)

    対談書「ウェブ人間論」は、表題の類似性から「ウェブ進化論」の続編として読まれるかもしれない。確かにそうした文脈もあり、特に「第三章 、iPod、グーグル、ユーチューブ」に詳しい話が展開されている。いわゆるネット業界的にはこの三章の情報が有益だろうし、出版界にとっても非常にわかりやすく示唆的な内容に富んでいる。 単純な話、未来の書籍はどうなるのか。平野啓一郎はある危機感を感じているがこれは現在出版に関わる人にとって共感されることだろう。これに対して梅田望夫は大きな変化はないだろうとしている。 文学者と情報技術の先端にいるコンサルタントとの、時代の変化に対する嗅覚の差もあるが、ここで梅田の判断の軸になっているのは「情報の構造化」という考え方だ。確かにネットには多くの情報がある。だがそれは構造化されていない。梅田の著作に表現されているアイデアの大半はすでにネットで公開されているが、それらは書籍

  • 豪イアン・キャンベル環境大臣は日本人英霊を敬すとのこと: 極東ブログ

    ココログに投稿できないうちになんとなく、極東ブログも千日をもって終わってしまったような感じがしていた(人談)。が、気を取り直してなんか書いてみるべか。と気になる最近のニュースだが、そういえば先日オーストラリア、シドニー北部沿岸海底で旧日軍の特殊潜航艇が発見され、その報道が興味深かった。 話の発端は、オーストラリアのテレビ局、チャンネル・ナインによる十一月二十六日報道番組「60ミニッツ」だ。第二次世界大戦時、シドニー湾攻撃で豪艦艇を撃沈した後、母艦に帰還せずに行方不明となっていた旧日海軍の小型特殊潜航艇一隻が、シドニー湾沿岸約五・六キロ沖の海底で発見されたと報じた。しばらく真贋が論じられたが、報道内容は後日は確認された。 一九四二年五月三一日夜、三隻の日海軍特殊潜航艇がシドニー湾の連合軍艦船を攻撃する任務を負った。二隻は湾内に侵入できず自決。残骸は回収されキャンベラのオーストラリア戦

  • 高校の世界史履修漏れ雑感: 極東ブログ

    高校の世界史履修漏れの事件だが、以前は私も高校・大学の歴史の先生とか交流もあったのでいろいろ現場の声を聞いていた。しかしもう十年くらい聞かない。あまり変わってないのではないかとも思うが、現場の感覚を失うとピンとこない。 しかし、今回の事態は基的には、世界史がどうの大学入試がどうのということより、学校経営の問題であり、どちらかというと岐阜県庁とかの組織ぐるみの裏金作りなんかと同質の問題ではないかと思う。 この件について最新のニュースはどんなだろうと、朝日新聞のサイトを見て”「補習出ない」「学校ふざけるな」 履修漏れ、受験生ら”(参照)に驚いたというか、なーんだというか。 学校への同情を口にする生徒もいた。秋田県立秋田南の男子生徒は「テストを受けていない世界史の成績表には日史と同じ点数が記載されていて変だと思っていた。だけど、学校は僕らの受験のためにやってくれたことで仕方がなかったとも思う

  • [書評]世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子): 極東ブログ

    「世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)は書名通り、満洲帝国を世界史に位置づけようとした試みのだが、その試みが成功しているか妥当な評価は難しい。いわゆる左翼的な史学からすれば書は、珍妙な古代史論と偽満州へのトンデモとされかねないところがある。史学学会的には概ね無視ということになるだろうが、おそらく日には書をカバーできる史学者は存在していないのではないかと私は思う。 一般読書人にとって新書としての書はどうかというと、率直に言えば、有無を言わず買って書棚に置いておけ絶対に役立つとは言える。各種の事典的情報がコンサイスにまとまっているので便利だ。ブログに書評を書いてブックオフへGO!というではない。ただ、読みやすさと読みづらさが入り交じる奇妙な読書体験を強いられるかもしれない。 言うまでもなくと言いたいところだが、宮脇淳子は岡田英弘のであり、その史学の後継者である。岡田英弘

  • [書評]郵政省解体論(小泉純一郎・梶原一明): 極東ブログ

    「郵政省解体論(小泉純一郎・梶原一明)」(参照)は一九九四年九月にカッパブックスで出版されたなので、もう十二年も前のものだ。 アマゾンを見ると、カバーのデザインを変えていまだ販売されているようだが、確かに今読み返してみても面白いし、今読み返す面白さもある。古では一円よりともあるので配送手数料三百円程度で買える。たぶん、古屋なら百円ではないだろうか。ついでアマゾンの素人評が二つあり、二〇〇五年の八月と九月に付いている。あまり参考にならなかった意見のようだが一つ引用する。 21 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 ★☆☆☆☆ 置き去りの拉致問題, 2005/9/1 レビュアー: カスタマー 拉致被害者はどうでもいいのだろうか。 このを読んで悲しくなった。 「世に倦む日々」というブログが上手く説明しているので そちらも参考にするといいでしょう。 そのブログ

  • [書評]田中角栄と毛沢東(青木直人): 極東ブログ

    「田中角栄と毛沢東―日中外交暗闘の30年(青木直人)」(参照)というがまさに題名の問題にとってどれほど重要な情報を提供しているのかよくわからないが、この問題について近年扱った書籍としては類書がないようだ。小学館あたりから出版されているならSAPIOみたいなものかと思うがちょっと左がかった講談社から出ている。が、それほどイデオロギー臭がするわけでもない。読書人なり歴史に関心を持つ人に特にお勧めというほどのではないものの、今朝の朝日新聞社説”歴史認識 政治家が語れぬとは ”(参照)を読みながらこののことを思い出した。話のきっかけは日中国交正常化について触れた朝日新聞社説のこのくだりである。 外交とは、水面には見えない交渉が下支えしている。国交正常化の際、中国側はこの理屈で、まだ反日感情の強く残る国民を納得させ、賠償を放棄した。日はそれに乗って国交回復を実現させた。 朝日新聞はさも日

  • [書評]岸信介(原彬久): 極東ブログ

    「岸信介」(原彬久・岩波新書赤368)(参照)は一九九五年に小冊子ふうの岩波新書として出たものなので、その後の研究を含めてバランス良く、かつ研究者以外が読んでも理解できる他の岸信介論もあるのかもしれない。なお書には「極東ブログ: 下山事件的なものの懸念」(参照)で少しだけ触れたハリー・カーンへの言及は明確にはないようだ。 とはいえ同書に優る岸信介論を私は知らない。著者原彬久は「岸信介証言録」(参照)の著者でもあり生前の岸に直接触れていただけあってその人間的な洞察は岩波新書にも反映されている。 岩波新書「岸信介」は岸の生い立ちから青春期、戦前の満州時代、戦中、戦後とバランスよく描かれている。ただ、今日的な課題からすれば、安倍晋三の祖父というだけではなく、安倍晋三がどのように祖父の意思を継いでいるかが問われるところだろう。 話を端折るが岸が設立に関わる自由民主党が元来どういう党是の政党なのか

    RanTairyu
    RanTairyu 2006/09/02
  • 下山事件的なものの懸念: 極東ブログ

    安倍晋三政権がほぼ確実という流れになってきた。私は安倍晋三は評価しない。父っつあんの晋太郎みたいにきちんと外交の仕事とかしてきたわけでもないのにというのが理由。つまり評価しようがないというのがより正確。経歴を見るにあまり頭もよさそうでもないが、それを言うなら森喜朗とか鈴木善幸とか指三とかなので特に言うまい。この間の官房長官としての仕事はというとそう悪くもなかった。経済面での発言などを聞くに、ブレーンの説明を理解しているようではある。うまく人を使える人なのかもしれないが、そのあたりは蓋を開けてみないとわからないところはある。 個人的に気になるのは、祖父岸の亡霊が出てくるってことはないのかというあたりだ。先日安倍晋三が統一教会に祝電したと左翼っぽい感じの人たちが一部騒いでいたが、率直に言って君たちそんなことも知らないでこれがネタだと思っているのとか驚いた。昭和の歴史が忘れられて久しい光景なの

    RanTairyu
    RanTairyu 2006/08/31
  • ヒーローものゲームの攻撃性、そんなのどうでもいいじゃないですか: 極東ブログ

    たるい話題だが、読売新聞"ヒーローものゲーム、子供の攻撃性高める可能性"(参照)を読んで思ったことを少し書いておきたい。話は、標題のように、ヒーローものゲームをやっていると子供の攻撃性が増長されるというのである。心理学的にそうなのだという話で、また、ゲーム脳ですか、とも当初思ったのだが、研究の中心者はお茶の水女子大の坂元章教授であり、彼はゲーム脳にはどちらかというと批判的だ。 記事を追う。 6校の児童592人についての調査結果を分析すると、知的だったり、見た目がかっこよかったり、魅力的な特徴を持つ主人公が登場し、攻撃するゲームでよく遊んでいた児童は、1年後に「敵意」が上昇していた。「ひどいことをした悪者に報復する」という、暴力を正当化するゲームでよく遊んでいた児童も同様に「敵意」が高くなっていた。 これに対して、攻撃回数が多い、たくさんの人を攻撃するなど、暴力描写の程度が高いゲームで遊んで

  • [書評]日本人と中国人(イザヤ・ベンダサン): 極東ブログ

    「日人と中国人」(イザヤ・ベンダサン)(参照)についてこのブログで取り上げることはないだろうと思っていた。分かり切った無用な議論はしたくない。だが、昨日のエントリでいただいた「うんこ」さんのコメント「かっこつけて間違ってたことを誤魔化そうとするから何年経っても進歩がないんだよ」に触発されて、あっ違った、もとうんこさんこと現「私」さんからのコメントで、こののことを思い出した。 倭寇の時代の物語など考察されると、今後10~20年程度の行く末が見えるんでないかと。>最終弁当(finalvent) 氏が倭寇の時代の物語にどう謎を掛けているのか、よくわからないので、その応えということではない。思い出したのは、同書に描かれている日中国と倭寇の関係である。 先日蒋介石国民党関連の資料を見ていたら「倭寇」とあって、いつまでたっても日人は倭寇かよ、しかし歴史上の倭寇は日人とは言えないぜと苦笑しつ

    RanTairyu
    RanTairyu 2006/08/12
  • [書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン): 極東ブログ

    私はカレル・ヴァン ウォルフレンについて「日 権力構造の謎」(参照上・下)以来の愛読者で考えてみればもう十五年以上にもなる。当時の空気を思い出すと、市民派の新しい理念の可能性を秘めながら、改憲や差別問題にも屈しない姿はすがすがしく思えたし、小沢一郎を明確に支持したのもスジが通っていた。彼は日史・東洋史についての知識は乏しいものの、逆に欧米人の考え方の根幹のようなものをくっきりと見せてくれた。彼から私が学んだ最大のことは、市民と社会が敵対するとき国家が市民を守らなければならないということで、それまで私は吉隆明風に国家という共同幻想は曲線を描きながら死滅することを理念とすべきだと思っていた。が、まさにその曲線の部分で自分なりに西洋の考えかた特にルソーの一般意志論などを考えなおした。今思うと九〇年代だなと思うし、三十代の尻尾で自分もぶいぶいしていたと思う。 ウォルフレンについての私の違和感

    RanTairyu
    RanTairyu 2006/08/08