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絵画に関するamanoiwatoのブックマーク (7)

  • 魚はキリスト教徒のシンボル 絵画と聖書

    聖書(キリスト教)の物語を主題とした西洋絵画で卓のシーンが描かれる場合、テーブルの上に並べられた材や料理の中に「魚」が書きこまれることが少なくない。 レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」 クリスチャン以外の日人には馴染みがないが、実は魚とキリスト教の結びつきには古くて長い歴史がある。一体どのような経緯で魚がキリスト教と関連づけられたのだろうか?その理由としては、当時ヨーロッパを支配していたローマ帝国の存在が大きく関係している。 ローマ帝国から迫害を受けていたキリスト教 ローマ帝国が皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus/244-311)の治世にあった頃、徐々に信者の数を増やしつつあったキリスト教は、警戒感を抱いた皇帝により抑圧・迫害され、ローマ帝国に対して公然と反抗した一部急進派が次々と処刑された。その数はローマ全土で数千人を数えたという。 迫害の時代の中、キリスト教徒

    魚はキリスト教徒のシンボル 絵画と聖書
  • ドン・カルロに会いに、エル・エスコリアルへ。マドリッドで絵を見る その2. | Music for a while

    順路に従って内部を見学する。 最初の部分は修道院の建設に関する展示で、設計図や模型や建築に使われた工具や機械が 大量に展示されていて、建築の専門家や学生には興味深いだろうと思われる。 その後、暗くて寒々しい小部屋を沢山通るのだが、インテリアよりもそれらの部屋部屋に 掛けられている絵画の数に驚嘆する。主にフェリペ2世が当時スペインの属領だったフラン ドルから集めたものが多い。 大小の中庭を囲む複雑な作りで、建物内部の写真撮影は禁止。 この庭をドン・カルロスは、フィアンセから一転継母になったエリザベッタ といっしょに散歩したりしたのだろうか。 外庭に面した王宮部分の内部には、少し開放感と家庭的な雰囲気が感じられる。 しかし、そこから地下にある王家の霊廟に進むと、あっと驚く。 王や王妃や、王位を継ぐことが出来なかった王子や王女などの石棺の並ぶ廟が続くのだ。 面白いなと思ったのは、王子や王女の墓碑

    ドン・カルロに会いに、エル・エスコリアルへ。マドリッドで絵を見る その2. | Music for a while
  • もしヘンリー・ダーガーが、アウトサイダー・アーティストでなかったら…… - チェコ好きの日記

    私の好きなアーティストに、ヘンリー・ダーガーという、シカゴ生まれのちょっと変わった人がいます。いや、“アーティスト”とよぶのは適切ではないかもしれません。なぜなら生前のダーガーは、一度も“アーティスト”として仕事をしたことはなかったからです。 1892年にイリノイ州シカゴ市内にて、ドイツ系移民のもとに生まれたダーガーは、幼くして母を失います。学業に関しては優秀で飛び級を経験するも、「口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立て、級友たちを楽しませようとした」(自伝より)などの奇癖があり、同級生たちの反感を買ってしまいます。「クレイジー」というあだ名で呼ばれ、いじめられたダーガーは、感情障害の徴候もあったとされ、12歳になると精神薄弱児収容施設に移されます。その施設というのが、これなかなか壮絶なところだったようで、ダーガーの入所中、虐待や陰湿な体罰・放置による入所者のケガや事故、または遺族の許可なく実

    もしヘンリー・ダーガーが、アウトサイダー・アーティストでなかったら…… - チェコ好きの日記
  • 絵画『東方巡礼 - 5. 若き詩人への手紙』 : 二百十日

    『東方巡礼』より. リルケの『若き詩人への手紙』に題を取った. 『若き詩人への手紙』は、詩人志望の青年フランツ・クサーファ・カプスからの手紙に対する、リルケの誠実すぎるほど誠実な返事をまとめた書簡集である. 若き日のロマン・ロランがトルストイに似たようなことをした話は有名だが、トルストイの誠実(おそろしく長い返事を書き送っている)がロマン・ロランの成長と感謝によって大いに報われたのに比べると、リルケの誠実は無駄になった.訳者後記によると、カプス青年はその後つまらぬ大衆小説の書き手となり、今ではすっかり忘れ去られているようである. この訳者後記について、「大衆小説を書くことのほうが、翻訳よりはよほど独創的な作業のような気がする」と吐き捨てているブログ記事を読んだことがある.大衆文芸を見下すことに些かの疑いも持たない訳者の感覚(「みじめな大衆小説を書いているのを僕はこの眼で見た」と書いている)

    絵画『東方巡礼 - 5. 若き詩人への手紙』 : 二百十日
  • 明治時代のイコン画家山下りんの生涯のあらまし

    ≪山下りん≫ 安政4年(1857)~昭和14年(1939)聖像画家 ★生い立ち 安政4年(1857)笠間市生まれ。7歳の時に父が亡くなり、生活はとても苦しいものでした。が、勉学に励む、絵の大好きな女の子でした。 15歳になったころ、(絵をもっと勉強したいのに、ここには良い先生がいない。)と家出を決行。結局このときは、家に連れ戻されましたが、翌年、母や兄などを説得して、再び上京、浮世絵師や日画家のところに弟子として住み込み、伝統的な日画を学び始めました。けれど弟子とは名ばかりで、実際は掃除や炊事洗濯といった家の仕事を手伝わされる毎日でした。 ★工部美術学校 そんな時、明治政府が美術学校を創ることになりました。明治10年 (1878) りんは試験に合格します。そして、一生懸命洋画の勉強しました。 ★入信 その工部美術学校のころ、同級生の友人の影響を受け、ロシア(ハリストス)正教に入信します

  • ダリが描くと、「不思議の国のアリス」の世界はすごく不思議に満ち溢れていた : カラパイア

    サルバドール・ダリは、言わずと知れたシュールレアリズムの代表的な作家であり、様々なエピソードを残している人物だ。幻想世界をこよなく愛するダリは、児童文学の傑作とも言える、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に興味をもっていたようで、アリスの夢と魔法に満ちた冒険世界の挿絵に挑んだことがある。

    ダリが描くと、「不思議の国のアリス」の世界はすごく不思議に満ち溢れていた : カラパイア
  • 山口晃『ヘンな日本美術史』を読む - mmpoloの日記

    山口晃『ヘンな日美術史』(祥伝社)を読む。ちっともヘンではないしおもしろかった。もしヘンだというなら、取り上げ方だろう。画家の選択がオーソドックスではなくユニークなのだ。まず日の古い絵として、鳥獣戯画、白描画、一遍聖絵、伊勢物語絵巻、伝源頼朝像が取り上げられる。 ついで章を変えて雪舟が詳しく語られる。なぜ雪舟は邪道を選んだのか「破墨山水図」、雪舟の生み出す恐るべき絵画空間「秋冬山水図」、莫迦っぽい絵「慧可断臂図」、妖しい空間の描き方「天橋立図」等々。 次の章は「絵の空間に入り込む」として洛中洛外図が語られる。岩佐又兵衛の舟木、狩野永徳の上杉、群を抜いて異様だという高津を素材に洛中洛外図の見方がていねいに語られる。舟木には2,700人の登場人物が描かれている。山口は大学生時代にこの絵を見たとき「非情にシビれた記憶がありまして、絵の前で叫びだしたくなったのはそれが初めてでした」と書

    山口晃『ヘンな日本美術史』を読む - mmpoloの日記
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