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2022年9月27日のブックマーク (13件)

  • 【動画】【安倍元首相国葬】菅義偉前首相「真のリーダーでした」 友人代表の追悼の辞全文

    安倍晋三元首相の国葬で追悼の辞を述べる菅義偉前首相=27日午後2時50分、東京都千代田区(松健吾撮影) 27日に営まれた安倍晋三元首相の国葬(国葬儀)で、自民党の菅義偉前首相は友人代表として追悼の辞を述べた。菅氏は安倍氏との出会いや第2次安倍政権時代の日々を振り返り、「あらゆる苦楽を共にした(第2次安倍政権での)7年8カ月。私は当に幸せでした」と述べた。菅氏の追悼の辞の全文は次の通り。 ◇ 7月の8日でした。 信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい。同じ空間で同じ空気を共にしたい。その一心で現地に向かい、そしてあなたならではの温かなほほ笑みに、最後の一瞬、接することができました。 あの運命の日から、80日がたってしまいました。 あれからも朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくよう

    【動画】【安倍元首相国葬】菅義偉前首相「真のリーダーでした」 友人代表の追悼の辞全文
    amanoiwato
    amanoiwato 2022/09/27
    国葬自体にも現政権にも、故元首相にも前首相にも思うところは多々あれど、やはり彼らも、極悪人でも怪物でも神様でもなく、人の子でありひとりの人間だったのだなと。正直、この弔辞以外はオマケでよかった。
  • 琉球の童名を解説してみた|ちなー

    童名とは童名(ワラビナー)とは、琉球諸島で用いられていた名前です。 沖縄芝居「泊阿嘉」に登場する「樽金(タルガニ)」や「思鶴(ウミチル)」、歌人として知られる恩納ナビーや吉屋チルーの「鍋(ナビー)」「鶴(チルー)」などが童名になります。大正・昭和初期生まれのおばあさんに「カマド」さんや「ウシ」さんといった名前を見ることもありますが、これらも童名に由来するものです。 琉球王国時代には国王から庶民まで貴賤を問わず、老若男女すべての人がこの童名を持っていました。近世の士族男性は唐名(例:蔡温)や大和名(例:羽地朝秀)など公務で用いる名前も持っていましたが、それとは別に童名も持っており、家族や友人など親しい間柄では童名で呼び合っていたそうです。 童名は昭和初期頃まで名付けられていましたが、現在では廃れています。なお、近代では戸籍上の名とは別に付けられることも多くありました(例:戸籍上は花子だが童名

    琉球の童名を解説してみた|ちなー
  • 入め御拝領墓/ハイホーの沖縄散歩

    「入(いり)め御拝領墓」とは、1822年ころに浦添御殿(うどぅん 注)から「入り」(費用)を拝領して、伊祖に築造された農民の墓です。被葬者は、呉勢(ごせい)という浦添按司(御殿)の乳母です。この墓は、現在は残っておりません。何故なら、当該地にはマンションが建っているからです。 この地区一帯は、近年まで真久原(まくばる)遺跡や古い岩陰墓などが隣接していたため、浦添市では埋蔵文化財の調整区域としていました。ここに平成6年、マンションが建設されることになり、造成の前に現地踏査を実施したところ、墓が1基と墓中の厨子甕が21基確認され、発見された厨子甕のひとつの銘書(みがち:氏名・家族関係・洗骨日などが書かれている)には「墓之儀者浦添御殿従入めご拝領」と記されていました。浦添市教育委員会は、これは御拝領墓という貴重な文化財であると判断し、「伊祖の入め御拝領墓」と名付けました。 この墓の周辺を見て回り

  • 家族葬の棺を見送り、岸田首相が口にした言葉 「国葬に近い形で…」:朝日新聞デジタル

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    家族葬の棺を見送り、岸田首相が口にした言葉 「国葬に近い形で…」:朝日新聞デジタル
  • 安倍晋三氏の国葬、菅義偉氏が友人代表で追悼の辞「私は本当に幸せでした」 - ライブドアニュース

    by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 安倍晋三氏の国葬で菅義偉氏が友人代表で追悼の辞を涙ぐみながら読み上げた 安倍氏に対する感謝と尊敬の念を語ったその全文をABEMA TIMESが公開 菅氏は安倍氏と過ごした7年8カ月を振り返り、「当に幸せでした」と述べた 提供社の都合により、削除されました。 概要のみ掲載しております。 関連ニュース ランキング 総合 国内 政治 海外 経済 IT スポーツ 芸能 女子

    安倍晋三氏の国葬、菅義偉氏が友人代表で追悼の辞「私は本当に幸せでした」 - ライブドアニュース
    amanoiwato
    amanoiwato 2022/09/27
    生前スキャンダルと利権塗れで挙句に同様の殺され方をした伊藤博文と、取り巻き以外には全く人望が無く国葬の参列者が碌に集まらなかった山縣有朋を出してくるのはちょっと…下手をしたら皮肉にも取られかねない。
  • 沖縄のお葬式の風習としてあった洗骨ってどんな事をしていたの!?

    沖縄出身のお笑い芸人であるガレッジセールのゴリこと照屋年之監督がメガホンを取った映画『洗骨』。 2019年2月に公開予定のこの映画では、日を代表する実力派俳優・奥田英二さんや筒井道隆さんなどがキャストとして出演しています。 そんな映画『洗骨』は、かつて沖縄県内のどの地域でも見られたお葬式の風習・「洗骨(せんこつ)」が物語のキーを握っています。 でもこの「洗骨」という風習は、現代を生きる沖縄の人々の中でもその実態を知っている人はもうそれほど多くはいません。 ただこの風習の歴史や意味にはいろいろなものがあります。 今回は映画のタイトルにもなった沖縄の古いお葬式の風習「洗骨」について紹介してみます。 沖縄のお葬式の風習「洗骨」って何をしてたの!? 沖縄のお葬式の風習である「洗骨」を知るには、かつての沖縄のお葬式について少し知っておく必要があります。 日では古くから「亡くなった人は土に埋める」

    沖縄のお葬式の風習としてあった洗骨ってどんな事をしていたの!?
  • 「洗骨」ネタバレレビュー、あらすじ、感想、評価。

    ラスト、洗骨&〇〇シーンの静かな盛り上げ方がうまいです チベットの鳥葬という埋葬方法を知ったときは、驚きはしてもその文字からおおよそ想像はできたのですが、この洗骨というのは、骨を洗うことはわかっても具体的にいつどうやって洗うのかは想像できません。 洗骨 / 監督:照屋年之 映画を見るとわかります。ちょっと驚きます。でも次第に厳粛な気持ちになってきます。映画のつくりがうまいです。 監督の照屋年之さん、名前を見てもわからなかったのですが、バラエティ番組をじっくり見たことがない私でもその顔と「ゴリ」という名前でなんとなくわかりました。お笑いだけではなく10年ほど前から主に短編ですが映画を撮っているようです。 10年前といいますとちょうど吉興業が沖縄国際映画祭を立ち上げたころですので、おそらく何らかの関係があるのでしょう。 それはそれとして、この「洗骨」、シナリオも照屋さんとクレジットされていま

    「洗骨」ネタバレレビュー、あらすじ、感想、評価。
  • 【終活映画】『洗骨(せんこつ)』習わしに見える、核家族時代に迫るグリーフ

    10年位前に、沖縄の遺骨供養として洗骨という風習があることを教わったことがあります。遺体は風葬にして自然のまま朽ちてゆく時間を待ち、遺族がその朽ちた骸遺を墓から出してきれいに洗い清めて改めて遺骨として埋葬するという儀式です。 後に沖縄スタイルの墓を知る機会にもなるのですが、興味をもって調べてもなかなかその風習を記したものにあたることがなかったものでした。ですからこの映画はとても待ち遠しく、東京に先駆けて封切られた沖縄へ安売りの航空チケットを調べながら仕事の休みと照らし合わしていたりした一月を過ごし、ようやくその映画を鑑賞することができました。 『洗骨』の物語 映画は死化粧を施された恵美子のアップから始まります。 節だらけの板材で拵えた小さく簡素な棺に、あおむけで足を折り曲げるようにして納棺された母の髪をなでる娘、ひとり酒をあおり無言の夫、長男は嫁と冷ややかな視線を交わすのみという独特の雰

    【終活映画】『洗骨(せんこつ)』習わしに見える、核家族時代に迫るグリーフ
  • 沖縄島の写真「玉陵」

    県道50号線に面している、玉陵の入口。入口を入り、突き当たりにある管理事務所の窓口で観覧券を買う。大人一人二百円。窓口の人に、管理事務所の地下にある展示室を観てから玉陵を観ると良いと勧められたので、そのとおりにした。

  • 玉陵

  • 「玉陵」にまつわる歴史物語

    玉陵碑に刻まれたリスト 玉陵が造られたのは1501年。琉球王国時代の第二尚氏王統と呼ばれる政権のとき。第二尚氏三代目の尚真王(しょうしん王)が、亡き父・尚円王を葬るために造らせたお墓です。 玉陵が造られた頃、いやそれよりもっと前から、王宮内では激しい権力争いがあったようです。 それを物語っているのが、玉陵の墓室の前に建てられた石碑、玉陵碑(たまうどぅんひ)。 この石碑には、玉陵に葬られる“資格”がある者のリストが刻まれています。リストにあるのは尚真王とその母・宇喜也嘉(オギヤカ)、妹、そして尚真王の息子娘たち。 なのですが、不自然なことに尚真王と妃の間に生まれた長男・尚維衡(しょういこう)の名前がありません。 実は尚維衡は策略にはまり王宮から追い出された人でした。そして長男であるのに王位を継ぐことはなく、尚真王の跡を継いだのは五男の尚清(しょうせい)でした。 さらに過去には、尚維衡の祖父・

    「玉陵」にまつわる歴史物語
  • 王家の墓に愛憎劇アリ!世界遺産・玉陵 | J-TRIP Smart Magazine 沖縄

    沖縄島、それも那覇市の定番観光地といえば、 首里城を思い浮かべる人は多いはず。 でも、限られた時間の中で、首里城から歩いて4分の 世界遺産・玉陵まで足を伸ばす人はそう多くないのでは? それ、実はもったいないことなのです。 入場料たったの300円で見られるのは、 1501年の建立から現代までつながる、琉球・沖縄のドラマ。 王家の陵墓に秘められた愛憎劇を知らずして首里は語れません。 次の沖縄旅行では、ぜひ足を伸ばしてみてはいかが。 第二尚氏、王位を巡る愛憎劇 ちょっとだけ琉球史のおさらいをします。 沖縄にも群雄割拠の時代があり、中山王・尚巴志によって島内が統一されたのは1429年のこと。1470年、重臣だった金丸はクーデターを起こし、自ら即位して尚円と名乗って中国との外交関係を継承しました。そこで尚巴志の王統を第一尚氏、尚円以降の王統を第二尚氏と呼びます。尚円が1477年に亡くなると、息子

    王家の墓に愛憎劇アリ!世界遺産・玉陵 | J-TRIP Smart Magazine 沖縄
  • 琉球史に残る顔(御後絵) - 浮き雲

    2015.02.25 撮影

    琉球史に残る顔(御後絵) - 浮き雲