【 本年4月よりスタートしたばかりの科研「挑戦的萌芽研究」のホームページ「源氏写本の触読研究」が、試験版ながらも産声をあげました。 まだ生まれたばかりです。 大切に育てていきたいと思います。】 つづきはこちらから。ブログ・鷺水亭より。 http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2015/04/post-b183.html ○科研「挑戦的萌芽研究」のホームページ「源氏写本の触読研究」 http://genjiito.sakura.ne.jp/touchread/
「世界ふしぎ発見!」の今のエンディングを歌っているのが Metis という歌手でして、 菅原道真の末裔にあたるという。家系図は原子爆弾によって焼失しており、祖母が菅原道真の家系であることを明かすまで本人も知らなかったという。しかし、現在子孫であるという物証は残っておらず、祖母の発言だけが子孫であるという根拠に過ぎない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Metis だそうです。どうでもいいのですが、当の菅原道真は、音楽は大の苦手だったということはあまり知られていないかもしれません。比較的若い頃の作品である「停習弾琴」(弾琴を習うを停む)詩、 偏信琴書学者資 三余窓下七條糸 専心不利徒尋譜 用手多迷数問師 断峡都無秋水韻 寒烏未有夜啼悲 知音皆道空消日 豈若家風便詠詩 ――音楽と読書は学者の助けになるとひたすら信じ、暇があれば(本を読むはずの)窓の下で琴の練習。しかし
どんな小説にも、どんな偉大な物語にも、調子が上がっていくところと、そうでもないところがあるものです。映画やテレビドラマがそうであるように、文学作品もそういうものです。 調子のよしあしは筋書きや内容のつながりというより、だいたい文章の興奮度や透明度や稠密度でわかります。ははん、このへん来てるなという感じがやってくるんですね。『源氏』の場合は、畳みかけるような暗示感と、肝心の出来事や浮沈する心情を一言やワンフレーズで伏せていくところです。 だいたい『源氏』は総数40万語で仕上がっている長尺な大河ドラマです。当然、緩んだり高まったりもする。それに40万語のうちの半分の20万語は助詞か助動詞です。だから、ちょっとしたことで調子が変わります。 それでも『源氏』全巻のなかで調子が最初に上がっていくのは、巻7「紅葉賀」(もみじのが)から「花宴」(はなのえん)、「葵」へと続くところでしょうね。暗示的文章が
栗東市手原の手原遺跡で、平安時代(九世紀後半)の地鎮祭祀(さいし)の跡「埋納遺構」が四カ所確認され、市教委が二十一日発表した。うち一カ所は古代銭が入ったつぼが東西南北を意識して納められており、市教委は「地鎮に対する信仰や思想のあり方を解明する上で重要な発見」と意義付けている。 方位が意識されている遺構は、約七十センチ四方、深さ二十八センチ。四隅には深めの皿が伏せられた状態で見つかり、八一八(弘仁九)年に鋳造された銭貨「富寿神宝」が五枚ずつ入った小型のつぼが五点、皿でふたをされ、十字になる形で置かれていた。中央を除く四点はそれぞれ東西南北に配置され、けがれを取り払うためとみられるモモの種も見つかった。 市教委によると、古代銭を埋納することや、つぼに皿でふたをすること自体が珍しい上に、古代銭が入ったつぼが一カ所から複数見つかる例は全国的にもほとんどない。配置方法から、密教や道教といった宗教との
京都市下京区で、鎌倉時代後期から室町時代の土坑が多数みつかり、土師器や金箔などが出土したと府埋蔵文化財調査研究センターが8日、発表した。周辺には、職人町があったとみられ、鋳造や金細工などに携わった工房が存在したとみられるという。 調査が行われたのは旧府警七条署跡地などの再開発地区。平安京の七条町、八条院町跡の約1900平方メートルで、大小約180基の土坑が確認された。穴の大きさは多くは1辺が1~1・5メートルの方形で、深さは5~40センチだった。 このうち70基以上の土坑では、土師器の皿がびっしり詰め込まれていたほか、焼けた骨片、鉄釘、貨幣などが出土。土坑がみつかった地層からは金箔や貝殻、小規模な建物の柱跡などもみつかった。 土坑からは、割れていない皿が積まれた状態で出土するなどしており、廃棄されたのではなく、何らかの儀礼に伴ってつくられた可能性もあるという。 宅地や工房の中に小規模の建物
空海 - 古文書 タイトルをクリックすると詳細情報を表示します。 タイトル 巻 次 著 者 出版者 出版年
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このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。 校注者、校正の畑さんから拝領。ありがとうございました。藤井さんは、加藤昌嘉さんの藤井批判を受けて、 「学者の責務として、できるだけ合理的な解釈案を示し、それに基づいた改訂本文と訳注を提供する」「注釈者によって咀嚼された“読解に足る本文”を提供する」というのが「氏の方法」だと言う。それって、近世や近代の学者たちが本文をいじり回してきた、これまでの国文学と同じじゃないか? 新編全集は加藤氏の言うのに近い方針で作られた本文である。氏の『揺れ動く『源氏物語』』は新編全集を支えてしまうことにならないだろうか。好漢、語るに落ちた本といわれてもしかたがない。 「本文、底本、揺れ動く『源氏物語』、研究者」「物語
わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日本近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 鶴見大学が購入した古筆手鑑の中に、これまで全く知られていなかった『新古今和歌集』の新しい歌が見つかったという「事件」は、一年ほどまえ、新聞各紙で報道された。今回久保木秀夫・中川博夫両氏による、その資料の紹介と学術的な検討結果が、ブックレット風の装幀で、800円という安価で笠間書院から出版された。『新古今和歌集の新しい和歌が見つかった!』 問題の切(断簡)は、藤原隆方の和歌が記されたもの。鎌倉初期の書写で、寸法・筆跡・書式などから、これまで11葉の断簡の存在が確認されている
古代や中世での朝廷の権力争いといえば、女性によって左右されることが少なくなかった。そのすさまじさは、「女性の活躍推進」を掲げる安倍内閣も真っ青といっていいほどだ。源氏と平氏が争った動乱の時代、次々と有力な女性に近づいて政治的地位を上昇させていった人物がいる。源通親(みなもとのみちちか、1149~1202年)。村上天皇の末裔(まつえい)という血を誇りつつ、たくましく政界を泳ぎ切った奇人の生き方を見てみたい。 「聖帝」の末裔として…“ホスト人生” 村上天皇は10世紀後半を生きた天皇で、その治世は醍醐天皇の世と合わせ「延喜・天暦の治」と後世、理想化された。通親はその皇子(具平=ともひら=親王)に始まる村上源氏の嫡流である。 しかし、皇胤(こういん)貴族といっても、通親らの世代まで下ると貴種性は薄れた。そればかりか、藤原摂関家やその庶流の台頭の前に、望む昇進も難しくなっていたのだ。通親は父・雅通(
このBlogは、私が物語研究の途上で出会った様々な発見や、物語をともに学ぶ人々との出逢いを綴ったものです。ごらんのみなさんにも物語文学の深遠なる森の如き世界の一端をお知りいただければ幸いです。 「耄及愚翁」の手になる三巻本『枕草子』。定家と思しき書写者が入手した本には、「所持本を無くしてしまい、借りた本で再度本文を書写したものの、絶対的な証本がないので、「不審」を拭えない」とある。 そこで、定家自身の分かる範囲で校合したり、文献史料を参照して年月日等の注記をしたが、それでも誤謬はあるかもしれぬ、としています。これはある本に仮託した定家の韜晦とも読めます。どうもおなじみの文飾であって、ある本の信用度と言うより、むしろ奥書をどこまで信用するかと言う問題があります。 本云 往事所持之荒本紛失年久 更借出一両之本令書留之 依無證本不散不審 但管見之所及勘合舊記等注付時代年月等 是亦謬案歟 安貞二年
今も昔も多くの信仰を集める 日本有数の観音霊場 石山寺は、清流瀬田川のほとり、伽藍山(標高239m)の麓にあり、奈良時代から観音の聖地でありました。縁起によれば、石山寺は天平19年(747)、聖武天皇の勅願で良弁僧正が創建とされています。現在、本堂に安置されている本尊如意輪観音(重文)は、日本唯一の勅封の秘仏と言われ、開扉は33年毎。安産、福徳、縁結びなどに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めています。 紫式部の源氏物語をはじめ 女流文学が花開いた舞台 平安時代には貴族達の間で石山詣が盛んになり、紫式部は当時参籠の祈に、『源氏物語』の着想を得たと言われています。他にも『枕草子』『蜻蛉日記』『更級日記』などの文学作品に登場するなど、石山寺は平安王朝文学の開花の舞台となりました。また文学の寺として絵画・聖教・典籍など数多くの歴史的な寺宝を有します。
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