われわれはなぜ政治哲学を必要とするのか? ──松元雅和『応用政治哲学──方法論の探究』の刊行によせて この本のテーマは端的にいえば「方法」と「応用」である。あるいは「科学」と「実践」と言いかえてもよい。政治理論をひとつの「科学」として自立させるための方法を確立するとともに、そうして得られた「知」を現実の場面に応用することが目指されているのである。そして、その背後にあるのは、「研究とは何か」また「研究者とは何をする者なのか」というアイデンティティをめぐる真摯な反省であり、評者は、なによりもまず、その「みずからの足下を見つめよ」というメッセージに強い感銘を受けた。評者は、本書を読みながら何度か「反論」したくなったが、それはまさに、本書が、評者のアイデンティティをゆさぶるような刺激的なメッセージを送りつけるものであったからにほかならない。本書は、一見すると、淡々とスマートに従来の議論を整理し、ア
学術論文ではなくエッセイを書いているにすぎない。 かつて政治思想研究には、このような揶揄が向けられた。こうした理解が消えたわけではない。偉大とされる思想家が遺したテクストに依りかかって、規範的な主張を現代に向けて語っているにすぎない、というのである。 もちろん、ある学問分野の研究者がことごとく知的に怠惰で愚かである、ということはほとんどありえない。少なくない政治思想研究者は、そうした揶揄を真摯に受けとめて自省を重ねてきた。この四半世紀の日本におけるこの学問分野の急速な展開と変貌は、その産物である。 学問でないという批判に応えるため、それまで「政治思想史」という名称で括られて表現されてきた政治思想研究は、「政治思想史」から「政治理論」が別のディシプリンとして分離するかたちで、専門化の要請に応えようとしてきた。このことは、専門書や大学講義名の変化を辿ればあとづけられよう。歴史研究と理論研究のこ
ドイツ政治哲学は反形而上学か? Ch・ソーンヒル著『ドイツ政治哲学──法の形而上学』(永井健晴訳)刊行に寄せて 今回、German Political Philosophy─The Metaphysics of Law, 2007の邦訳が出版された。本格的なドイツ政治哲学の研究書が翻訳されたことは歓迎すべきことである。近年ドイツ法やドイツ政治思想に対する関心がとみに減少している状況を考慮すると、今回の翻訳書の出版はあらためてドイツ政治哲学史を総体的に考察する絶好の機会となる。現在著者はグラスゴー大学の教授であるが、評者は彼がロンドン大学のキングズ・カレッジに勤務していた時に、安世舟教授の紹介で一度お会いし、シュミットに関して議論した経緯がある。 本書のモチーフは、序論と結論において明確に示されており、ドイツ政治哲学の一貫した特徴を形而上学批判と人間の自由の救出、つまり形而上学の終焉の後に「
カッシーラー:危機を生きる精神に学ぶ 馬原潤二著『エルンスト・カッシーラーの哲学と政治──文化の形成と〈啓蒙〉の行方』によせて エルンスト・カッシーラー(一八七四~一九四五)の名は、『啓蒙主義の哲学』や『認識問題』など、数々の翻訳書を通して日本でもよく知られている。ところが、意外なことに、この著名な哲学者に関する日本語による研究書は、管見によれば、本年九月に出版された一冊しかない。それに続いて出版される本書は、日本におけるカッシーラー研究を大きく前進させる一書である。 エルンスト・アルフレート・カッシーラーは、一八七四年、西プロイセンの中心都市ブレスラウのユダヤ系ドイツ人材木商の家に生まれた。早熟な知性の持ち主であったカッシーラーは、ベルリン大学の私講師であったゲオルク・ジンメルのカント講義に感銘を受け、彼の薦めにしたがって、新カント派の指導的哲学者ヘルマン・コーヘンのもとで哲学のキャリア
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