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ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (164)

  • 『権力への意志』 - Arisanのノート

    今年はニーチェを重点的に読むということを決めていて、つい最近も、ちくま学芸文庫の『権力への意志』を、えっちらおっちら読んでいた。 簡単に感想を書いておこう。 実は、その直前にマキアヴェリの『君主論』(中公クラシックス)を、これも初めて読んだ。その後でニーチェを読むと、彼がマキアヴェリからいかに多大な影響を受けたかということが、よく分かった。ニーチェの思想のなかで最も鮮烈な部分は、すべてマキアヴェリの影響であり、しかもマキアヴェリの力強さには達していないのではないか、そう思えるほどだ。 とは言っても、ニーチェの思想には大きな魅力がある。それはもちろん、ヨーロッパを支配するキリスト教道徳への挑戦であり、それを根幹として、「真理への信仰」や、自由主義、民主主義などの欺瞞性を告発し、解体していったことである。つまりは、それらが結局、「権力への意志」に根ざしているのだということを暴露した。 ちょうど

    『権力への意志』 - Arisanのノート
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2014/01/01
    素晴らしい
  • 『階級意識とは何か』 - Arisanのノート

    階級意識とは何か (三一新書 828) 作者: ヴィルヘルム・ライヒ,久野収出版社/メーカー: 三一書房発売日: 1974/11メディア: 単行 クリック: 1回この商品を含むブログ (2件) を見る 前回紹介した『コーラ』の広坂さんの論考にも登場したが、哲学者の久野収は、日が軍国主義とファシズムの波に完全に呑み込まれていった1930年代に抵抗と挫折の経験をした人である。 その久野が戦前から注目したヴィルヘルム・ライヒが、E・パウルの変名で1934年に世に出したのが、この『階級意識とは何か』という小さなパンフレット的なである。 久野は戦後、1970年代になって、この訳書を三一書房から出した。 その「解題」に、ナチズムに対するドイツの労働運動の敗北を最も深刻に受け止めて書かれた、最良の実践的書物だろうと書いてあるのは、そうだろうと思う。 今日の視点で見ても、非常に刺激的な内容のなので

    『階級意識とは何か』 - Arisanのノート
  • 「テロリズム」について - Arisanのノート

    国会周辺での抗議行動やデモをテロリズムにたとえた、石破幹事長初め自民党関係者の発言は、当然ながら大きな非難を受けた。 昨日もこの件について少しふれたが、あらためて思うことを書いておこう。 テロリズム、テロリストという言葉は、歴史的にはさまざまな変遷があろうが、2001年のいわゆる9・11以後の国際社会では、いわば「われわれの敵」を意味する語として用いられてきたと思う。 社会から排除し、捕まえ、場合によってはその場で殺しても構わない人間、つまり法や人権の外にあるような人間を、国家や国家連合(世界新秩序)が指定し、そのように扱うことを正当化するための、問答無用の言葉として、「テロリズム」や「テロリスト」は使われ、定着してきたということである。 それは、アメリカによるアフガンやイラクへの侵攻・占領と深く結びついており、当時の小泉政権は、自衛隊を派兵するなど、それに積極的に協力した。 当時、小泉首

    「テロリズム」について - Arisanのノート
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    ishikawa-kz 2013/12/05
    重要
  • 法案に反対する理由と石破発言 - Arisanのノート

    僕が特定秘密保護法案に反対する理由は、概ね以下のようなものだ。 まず何より第一に、国権を人権より上に置くような法律、またそれ自体民主主義の破壊を目的とするような法律は、認められない。 第二に、この法律は日国憲法に反する疑いが強い。 第三に、自民党はこの重大な法律を作ることを選挙公約にしていなかったのだから、これは有権者を欺く行為である。 第四に、手続きが拙速且つ強引である。これは、この法律が上記のように民主主義を破壊する性格を持つことの反映だろう。 第五に、世論調査を見ても、大多数の人々がこの法律に反対、もしくは疑念を持っていることは明らかである。 さて、以上のことを踏まえて、石破幹事長のデモをテロリズムになぞらえた発言について、簡単に意見を書いておこう。 こんな怖ろしい法律が、こんなに酷い手続きで作られようとしてるのだから、人々が抗議行動をするのは、民主主義を守るという観点からも、当然

    法案に反対する理由と石破発言 - Arisanのノート
  • 『法然対明恵』 - Arisanのノート

    法然対明恵 (講談社選書メチエ) 作者: 町田宗鳳出版社/メーカー: 講談社発売日: 1998/10/09メディア: 単行(ソフトカバー) クリック: 3回この商品を含むブログ (11件) を見る 書の最初のところで、中世の激動期を生きたこの二人の仏教者の対比の構図が、次のように示される。 筆者が特に注目したいのは、日土着の自然主義的な他界観と、インド仏教の輪廻思想に由来する死生観が、この二人の体を通じて見事に交叉しているという事実である。(p8) つまり、法然の浄土教を、たんに中国の仏教(善導)の影響によるものでなく、日古来の死生観と呼ぶべき「常世観」の系譜につながるものと捉え、一方、明恵の華厳思想を、発祥の地であるインドにおいて仏教が来持っていた(日の風土の中では次第に失われつつあった)、いわば理念的な死生観を護持しようとする態度と見なす。 そういう観点が示されているのだ。

    『法然対明恵』 - Arisanのノート
  • 慰撫と欲望 - Arisanのノート

    石牟礼さん願い お忍びで実現 皇后さま 「胎児性水俣病患者に会ってください」 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013102902000238.html 天皇と皇后が、水俣病の被害者に会うということが発表された当初から、今回の熊訪問では、これまでになく天皇の存在を用いた国民的な和解のメッセージが強調されているという印象を受ける。 大震災で拍車のかかった、弱者切り捨ての新自由主義的な政治と社会の状況、原発の強引な推進、安倍政権の極右的・強権的な暴走という、何重にも重なった暴力的な現実のなかで、弱者を包み込む装置としての天皇制の機能をフルに活用することで、国家による統合を維持していこうとする政治の思惑が、かつてないほどに強力に働いているのだろう。 とりわけ今回の訪問では、天皇以上に皇后の存在が前面に押し出され、「皇后と弱者」

    慰撫と欲望 - Arisanのノート
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    ishikawa-kz 2013/10/30
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  • 決まったからには仕方がない - Arisanのノート

    この記事にはさすがに驚いた。 東京五輪、決まったからには 招致反対の立場から注文 http://www.asahi.com/national/update/0911/TKY201309110508.html この新聞は、開催地が東京に決定する直前まで、汚染水の問題の深刻さを認識できていない日の招致委員会や政府・自民党の姿勢について批判的に報道していたはずだ。 つまり、原発事故による放射能汚染が日側の主張なり認識なりに反して、きわめて深刻な問題であるという考えが、報道の暗黙の前提になっていたはずである(無論、逃げ道は用意していただろうが)。 これは、そうとはっきり書かないまでも、原発事故は収束しておらず、汚染の現状と可能性は深刻であり、そのなかで東京五輪を開催することは、その現実を覆い隠して人々をなおいっそうの危険にさらす暴挙だという批判的な意見の表明であると、僕は思っていた。 それが、

    決まったからには仕方がない - Arisanのノート
  • 荒井信一『戦争責任論』 - Arisanのノート

    戦争責任論―現代史からの問い (岩波現代文庫) 作者: 荒井信一出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2005/06/16メディア: 文庫 クリック: 1回この商品を含むブログ (8件) を見る このでは、「戦争責任」という観念が、二度の世界大戦とベトナム戦争や旧ユーゴ内戦、湾岸戦争などの20世紀の経験を通して、世界の民衆がその構築へと向かっていった平和のための世界秩序形成の過程と不可分のものとして説明されている。 それは「無差別戦争観」から「違法戦争観」へとか、「核による平和」から「人権を基礎とする平和」へ、というような言葉で表現される過程である。 これは、国際的な意味での民衆史観、ないしはカント的な世界市民史観とでも呼べるような考え方で、ベルサイユ条約から、ニュールンベルクと東京の両裁判を経て、戦後の国連(特に非欧米諸国)を中心とした平和と人権の確立のための努力へと、限界や問題をはら

    荒井信一『戦争責任論』 - Arisanのノート
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    ishikawa-kz 2013/08/21
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  • 『ファシズムの中の一九三〇年代』 - Arisanのノート

    ファシズムの中の1930年代 作者: 久野収出版社/メーカー: リブロポート発売日: 1986/08メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見る 前回書いた久野収の「ファシズムの価値意識」という文章がたいへん面白かったので、他に久野がファシズムを論じたものはないかと探してみたところ、このが見つかった。早速、注文して読んでみた。 これは変わった成り立ちので、1930年代に久野が『世界文化』という雑誌に連載していたファシズム関連の論考が、中途で弾圧されて久野を含む関係者が投獄され、雑誌も廃刊になってしまったために中絶していたものを、戦後70年代に入って取り上げて論じ直し、『展望』という雑誌に連載した。ところが、その『展望』も途中で廃刊になったため、これも尻切れトンボになった。 この二重に尻切れトンボになった連続エッセイに、これも尻切れトンボに終わった劇団員向けの連続講演を併せ、

    『ファシズムの中の一九三〇年代』 - Arisanのノート
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2013/08/21
    ファシズムを批判する上で大変大切な論点です。
  • 『戦後日本の思想』 - Arisanのノート

    戦後日の思想 (岩波現代文庫) 作者: 藤田省三,久野収,鶴見俊輔出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/01/16メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 3回この商品を含むブログ (9件) を見る 鶴見  日の戦後は、第一次大戦後のドイツに非常に似ているんじゃないか。大江精三がはじめから、そういっていた。彼はワイマール共和国の研究をしよう、と盛んにいってたし、書きもした。彼は大体ノイラートの立場ですから。戦闘的な第二インターナショナルだな。この説をだれも聞く人がなかった。 藤田  石原慎太郎の『太陽の季節』において現われた行動主義みたいなものが、第一次世界大戦後では、ファッショに行く道筋だったわけでしょうが、これを反ファッショの方向に再組織する道筋がつくられる必要があると私は思います。(p220) 先日、アメリカ移住することになった友人が、長年住んだ家を引き払うというので

    『戦後日本の思想』 - Arisanのノート
  • 憲法は誰のものか - Arisanのノート

    東京新聞に載った、宮崎駿氏の憲法に関する発言を読んで、違和感をもったので、特に書いておきたい。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013072702000120.html 初めに断わっておくが、日が過去の蛮行・愚行を繰り返さないために、憲法改悪に断固反対すべきだということには、勿論まったく同意見だ。改憲反対の立場を、この時期(参院選の直前だったと思う)に鮮明にされた宮崎氏の決断には、その職業上の立場を考えても、心からの敬意を表するのにやぶさかではない。 だが、それでも違和感をもつ理由は、発言のなかで「自分たちの憲法」という言葉が用いられていることと、その文脈とに関わっている。 戦争の放棄をうたった日国憲法は、たしかに「国民」を主権者であると規定している。「自分たちの憲法」という言い方には、それ自体では何の問題もないと思

    憲法は誰のものか - Arisanのノート
  • 性と自由意思 - Arisanのノート

    http://mainichi.jp/area/news/20130525ddn013040059000c.html 性感染症の予防も労働者側が自己防衛するほかなく、女性は定期検査に行くなどしていたが、3カ月前に感染症にかかり休職中だ。女性は「リスクを承知で働いているのではと言われるが、自由意思で働くことと、労働環境が守られることは別。行政トップがこうした現状を見ずに活用を勧めるのは、能天気すぎる」と批判する。 そもそも「自由意思」として性労働が成り立ってしまうような社会とは何か、ということがある。 性は、元来商品(賃労働の材料)とされて良いものだろうか。 それを商品として成立させてしまっているもの、また、それを商品とすることを女性に余儀なくさせているものは、広義には現在の社会構造(貧困と性差別、性の対象化)であり、狭義には男性優位的に構成されている性欲のあり方ということになろう。 この社

    性と自由意思 - Arisanのノート
  • 橋下発言と日本の性差別 - Arisanのノート

    http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130516/waf13051611240010-n1.htm 日維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は15日夜、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の司令官に米兵の性的欲求の対応策として風俗業の活用を進言したことに関し、記者団から市職員のわいせつ事件の抑止対策として風俗業の活用が有効か問われ、「僕は(有効策に)なり得ると思う」との見解を示した。 橋下氏は「何の罪もない人のところに行くくらいだったら、認められている範囲のところでちゃんとしなさいよ、というのが来のアドバイス」と述べた。 すべて性労働を消費する人は、それが法的に認められたものであろうとなかろうと、他人の性的身体を商品として扱って自分の欲望を満たしているという点で、倫理的には何がしか不正義であることを免れないはずである。しかもそれが、社

    橋下発言と日本の性差別 - Arisanのノート
  • 橋下発言が露呈させたもの - Arisanのノート

    慰安婦問題、風俗業をめぐる橋下氏の発言要旨(朝日新聞デジタル) http://www.asahi.com/politics/update/0514/OSK201305130144.html 今回の橋下の発言を最初に知った時、まず思ったことは、この言葉自体がひとつの凶悪な暴力であり、元「慰安婦」の人たちはもちろん、性暴力や差別を被ってきた人たちにとっては、セカンドレイプに等しいものだろうということだった。 そして、そんな暴力が許容されるどころか「口外しないほうがよい音」として暗に肯定されてしまうという、この僕らの社会の醜悪さを、彼の発言に同調もしくは黙認する者たちの言動(例えば「不用意な表現は国益を損う」!)を介して、橋下発言は被害者達を含む我々のすべてに突きつけた。 この意味で、この暴言の(暴露的であると同時に)脅迫的な効果は二重なのだ。 橋下は、日が「レイプ国家」呼ばわりされることを

    橋下発言が露呈させたもの - Arisanのノート
  • 欺瞞に満ちた安倍答弁 - Arisanのノート

    安倍首相は、先の猪瀬知事のトルコに関する問題発言と同様に、排外デモやネットを含むヘイトスピーチに関しても、それを支持の拡大ばかりでなく、統制強化のための手段としても利用したいらしい。 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130507-OYT1T00902.htm?from=main1 http://www.asahi.com/politics/update/0507/TKY201305070355.html?ref=com_rnavi_arank 改憲への動きは無論のこと、原発推進や閣僚の靖国参拝、朝鮮学校排除などの差別的な政策など、どこを見ても、安倍政権の政治そのものが、国家に従わない者の存在と生存を許さないという、根的な差別性・否定性を社会に蔓延させる最大の力となっていることは明らかだ。 排外デモが、ネットの上から「路上」へと登場したこと

    欺瞞に満ちた安倍答弁 - Arisanのノート
  • 大阪市による朝鮮学園提訴 - Arisanのノート

    以前からこういう動きがあると聞いてはいたが、橋下市政がとうとうこういう行動に出た。 大阪市が朝鮮学園を提訴 学校敷地の明け渡し求める http://www.asahi.com/national/update/0129/OSK201301290079.html?tr=pc (関連記事 なめ憲!憲法を守る意思表示の会) http://nameken9.exblog.jp/17219472/ 朝鮮学校は、どこでも同じだと思うが、この学校も財政は非常に厳しい。 校舎の改修もままならないし、日の学校と比べると、設備も十分でないままである。運動場に芝を貼ったのも、保護者達の手弁当でどうにか行った作業だ。ここに限らず、全国の朝鮮学校は、概ね在日の人たち自身の、つつましい生活のなかからの出資と、献身的な努力によって成り立ってきたというのが実情なのだ。 もちろん、国からの援助も継続的に行われてきただろう

    大阪市による朝鮮学園提訴 - Arisanのノート
  • 体罰はなぜ悪か、について考える - Arisanのノート

    体罰について考える際、まず「体罰は是か非か」というところから考え始めることが、適切であり公正な態度であるという風に思われている。 だが現在の社会が概ね、実力・権力や権威を有する者が、そうでないものに対して振るう暴力を容認してしまう傾向にあるということ、またそうした価値観を自分自身内面化してしまっている度合いが大きいと思えることを考慮すると、僕はこの問題を、まず「体罰はなぜ悪であるのか」というところから考え始めることが、適切な態度だと思う。 そこから始めて、どうしてもその理由が見出せないようなとき、初めて「是か非か」というところに移行して考え直してみる。そういう手続きの方が妥当だと思うのだ。 学校における体罰に関してしばしば聞かれるのは、教師が「ついかっとなって手を上げてしまった」というようなことである。この場合、普段から教師自身にあまりに大きなストレスがかかっていたことや、生徒たちの態度が

    体罰はなぜ悪か、について考える - Arisanのノート
  • デュルケームの「罰」論 - Arisanのノート

    19世紀の末から20世紀の初めにかけて活躍したエミール・デュルケームは、フランスが生んだ、歴史上もっとも有名な社会学者の一人だろうが、その講義録『道徳教育論』(麻生誠/山村健訳  講談社学術文庫)のなかで、「学校における罰」、さらには「罰」一般について大変示唆に富む考察を行っている。簡単に整理しておきたい。 この主題についての一連の考察は、同書の第十一講から第十三講に書かれている。 まずデュルケームは、「罰」というものの機能上の質は何かと考える。 罰は、外部から人間の外面に働きかけるものであるがゆえに、道徳生活の核心に触れることはまずないといってよい。(p274) それゆえ、たしかに罰は、違反がもたらす悪を償いただす。だが明らかに、この贖罪をもたらすものは、罪人に加えられる苦痛ではない。大事なのは、子どもが苦しむことではなくして、その悪しき行為が精力的に排斥されることである。悪しき行為に

    デュルケームの「罰」論 - Arisanのノート
  • フーコー「啓蒙とは何か」 - Arisanのノート

    相変わらず、内外で書くべき話題が山のようにあるのだが、今回もあまり緊急性のないことを書かせてもらう。 ミシェル・フーコーは、20世紀後半のフランスを代表する思想家で、たんに哲学者というより社会学や歴史学の分野にまたがる大変大きな仕事をした人であり、また監獄や精神病院などの施設をめぐる社会運動に尽力した人としても知られている。今の日でも、たいへん評価の高い人である。 僕が子どもの頃、1970年代前半だったと思うが、彼の最も有名な著書『言葉と物』が日でも翻訳出版されて話題となり、このがフランスで出された当初(1966年)フランスでは店頭に山積みにされて「パンのように売れた」というようなトピックが活字になっていたものだ。 当時はまだ「ニューアカ」というような言葉で言われた、日のいわゆる「現代思想」のブームが起きる以前だったが、すでにこうした難解で分厚い西洋の思想書を多くの人が競って買った

    フーコー「啓蒙とは何か」 - Arisanのノート
  • 強者の論理を支え続けるもの - Arisanのノート

    非常に典型的な発言だと思うので、批判しておきたい。 大阪・高2自殺:「最悪の大失態」橋下市長 http://mainichi.jp/select/news/20130109k0000m040060000c.html 大阪の高校で、体罰が原因とされる生徒の自殺が起きたことに関する、市長の発言である。 見出しの「最悪の大失態」という言葉を見た時に、だいたい察しはついたが、その通りの内容だった。 禁止されている体罰が行われて、それが原因とされる自殺が起きたというのに、その体罰が存在することは当然の前提であるとされ、その上で事後の対応が重要だとの認識が表明される。 そして、その対応を強化するするために、教育現場に介入する自分(市長)の権限を強めていくことが宣言されてるのである。 実際教育現場において、「体罰」として事後に非難されることがあっても、やむをえない場合というものもあるかも知れない。 だが

    強者の論理を支え続けるもの - Arisanのノート