徳川家康の生涯を新たな視点で描いたNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まって三カ月。家康の次男で、初代福井藩主の結城秀康(一五七四〜一六〇七年)は果たして登場するのか気になっている。少しでも徳川との関わりを感じるため、越前松平家の永代菩提(ぼだい)所として建立された大安禅寺(福井市田ノ谷町)を訪ねた。...
京都の松尾大社に残る源頼朝や織田信長といった歴史上の人物の書状などがデジタル画像になって、インターネット上で公開されています。 これは、京都市西京区にある松尾大社と東京大学の史料編纂所が連携して始めました。 奈良時代に創建されたと伝わる松尾大社は、朝廷や幕府と関わりが深く、火災などの被害が少なかったこともあって、古代から近代までさまざまな歴史的な資料がおよそ2500点残されています。 そこで、東京大学の史料編纂所は、神社の協力を得て資料をデジタル撮影したうえで、26日から、史料編纂所のホームページで公開を始めました。 今回、公開されるのは、およそ500点の資料を写した4600件余りの画像で、源頼朝の花押が記された書状や徳川家康の朱印状などが含まれています。 ネット上で公開された画像は、自由に拡大することも可能で、織田信長の朱印状の朱印の部分を拡大すると、信長が愛用したことば「天下布武」の文
戦国大名の兄弟ゲンカは命がけの事態に発展することも珍しくありません。 中には本人同士はいがみあっていなくても、周りが担ぎ上げたせいで対立してしまうケースがあったりもします。 織田信長と織田信勝(信行)の例をはじめ、伊達政宗と弟・小次郎も有名ですね。 実は、深刻な兄弟ゲンカになったのは大名家だけではありません。 中には、仏様に仕える身でありながら主権を巡って争った兄弟も……。 天正十九年(1591年)の1月19日、本願寺が京都に再移転することになりました。 単なる引越しではなく後に東本願寺と西本願寺に分裂するキッカケにもなったものです。 経緯から振り返ってみましょう。 ※以下は信長と信勝の考察記事となります
戦国時代に駿河・遠江・三河地域をおさめた今川義元(一五一九~六〇年)生誕五百年に合わせ、御朱印ファンに向けて豊橋市内にある義元ゆかりの四寺社が「御朱印巡りコース」を設け、二十一日、発表した。 参加するのは、義元から領地を認められるなどの保護を受けた普門寺(同市雲谷町)や豊橋祇園祭で使うおみこしなどの寄進を受けた手筒花火発祥の地として知られる「吉田神社」(関屋町)、旧社殿を寄進され国重要無形民俗文化財「豊橋鬼祭」で使われた最古の赤鬼面も義元の寄進と伝わる「安久美神戸(あくみかんべ)神明社」(八町通)、領地を受けた赤岩(せきがん)寺(多米町)。
織田信長と激しく対立した浄土真宗の僧侶、顕如が、信長の死後、羽柴秀吉に接近しようと書いた書状が2通見つかりました。秀吉宛ての書状はほとんど残っていないということで、調査にあたった専門家は「この段階で、秀吉を権力のある人物と認識していたことがはっきりと分かる貴重な史料だ」と指摘しています。 顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。 調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「本能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。 もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられる
戦国時代に遠江から駿河(現在の静岡県西部から中部)、三河地方を統治していた今川義元をまつる豊川市牛久保町の大聖寺で13日、「第56回今川義元公供養祭」が営まれた。来年は生誕500年を迎え、今川家ゆかりの静岡県からの関係者を含めて約200人が参列した。 永禄3(1560)年5月19日、現在の豊明市での「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれた義元。家臣によって胴体だけがこの地に運ばれたとされ、境内にある「今川義元公墓所」は市指定史跡となっている。毎年、命日に近いこの時期に供養祭が行われる。 豊川市からは山脇実市長や野本逸郎議長、豊川商工会議所の小野喜明会頭ら来賓の他、今川義元公奉賛会(稲垣喜由会長)や地元の氏子総代らが出席。静岡県からは「今川義元公生誕500年祭推進委員会」(小和田哲男委員長)の副委員長で、静岡商議所会頭の酒井公夫さんや、今川家の菩提寺である臨済寺の老大師・阿部宗徹さん、郷土史研究
前号では、価値ある古文書を後世へ残そうと、名古屋城築城時に家康が取り組んだ「大須観音」移転の歴史を取り上げた。今週は、大須観音と同じく名古屋市民から信仰を集める熱田神宮(あつたじんぐう)を紹介したい。 熱田神宮は名古屋城から南へ約6㌔の熱田区に位置する。年間670万人もの人々が参拝に訪れる名古屋を代表する神社。 熱田神宮には古事記や神話に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)が持っていたとされる、三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祭られていることで知られる。 日本武尊が亡くなった際、神剣を現在の名古屋市緑区に留め置いていたことから、妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が熱田神宮へ神剣を祭ることにしたという。 創建から1900年を超え、平成25年には1900年大祭が開かれた。約6万坪におよぶ境内は厳かで、全国から多数の崇拝を集めていることが分かる。 永禄3年(1560)織田信
織田家ゆかりの万松寺(名古屋市中区大須三)は、織田信長の父で、寺を建立した信秀の墓碑を再建するため、インターネットを通じて資金を集める「クラウドファンディング」を一日から始めた。協力を募っている。 織田信秀は「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、家内の内紛を制し、尾張一円を支配。商業の活性化にも力を注ぎ、信長が覇権を目指す礎を築いた。万松寺は信秀の菩提(ぼだい)寺として一五四〇年に建立。初代尾張藩主の正室、春姫の菩提寺としても知られる。 信秀の墓碑は境内にあったが、二つの御堂を建て替えるため、二年前に撤去し、寺の中で非公開で保存されていた。歴史ファンらから「墓碑を見たい」との声が寄せられたことから、来年三月三日の信秀の命日の完成を目指して、墓碑の移築に着手した。
織田信長の最期の地は京都の本能寺でした。家臣の明智光秀の謀反により、天下一統の目前でこの世を去りました。 明智光秀が信長に背いた理由は謎のまま。様々な説がありますが、確証が得られていません。 謎と言えば、信長が本能寺で討たれたことも不可解です。信長は京都に滞在するときは本能寺に宿泊していたのですが、現在の信長に対する評価から考えると、彼が本能寺に宿泊した理由がわからないのです。 信長は宗教弾圧者だったのか? 織田信長は、戦国大名との戦いだけでなく、多くの宗教勢力とも戦いました。本願寺の一向一揆との戦い、比叡山の焼き討ちなどで、たくさんの仏教徒を殺害しています。中には、無抵抗な婦人や子供も含まれていたのですから、信長の宗教弾圧は徹底して行われたというのが通説になっています。 しかし、信長は本当に宗教弾圧者だったのでしょうか? 作家の井沢元彦さんは、著書の「逆説の日本史10巻」で、織田信長は宗
◇愛知・豊橋の寺で発見 悪感情読み取れる 愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書に、織田信長を批判的に評した詩文が引用されていたと島田大助・豊橋創造大教授(日本近世文学)や高崎俊幸住職が発表した。島田教授は、仏教界の信長に対する悪感情が読み取れるとしている。 【拡大写真】開山記「当寺御開山御真筆」 文書は、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」。 その冒頭に、近江国(現在の滋賀県)出身で京都・東福寺の住持を務めた集雲守藤の別号とされる江湖散人の詩文が引用されていた。詩文は、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の翌月の1582年7月に作られたとみられる。 詩文には「信長は京を鎮護して二十余国を領したが、公家をないがしろにして万民を悩まし、苛政や暴虐は数え切れない」「(本能寺の変で)死亡して人々は拍手し、天下が定まった」とい
平清盛が自らの血を使って描いたと伝わる「絹本著色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくりょうがいまんだらず)(血曼荼羅)」を凸版印刷(東京)が複製し、実物がある高野山真言宗の総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)へ3日、奉納した。デジタル技術で当時の金や朱色の鮮やかな姿をよみがえらせた。 血曼荼羅は「胎蔵界」「金剛界」の2幅を1組に、多数の仏の姿が描かれている。平安時代の作で、1908年に国重要文化財に指定された。傷みや劣化で茶色く変色し、仏や文様も不鮮明になっていた。 複製は高品位プリント技術で楮… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く