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2007年4月29日のブックマーク (5件)

  • 構造主義について考える3 - 生きてみた感想

    構造主義について考える1(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070425#p1) 構造主義について考える2(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070426#p1) 前回の末尾で、フーコーと構造主義との関係を考える際には、言語/記号というものの位置に注意を向けるのがいいのではないか、ということを書きました。今回はその理由を書いていこうと思うます。 ところで、構造主義という思潮は、人文科学という言葉と強く結びついています。おそらく構造主義の流れについてまとめたもっとも浩瀚な書物であるフランソワ・ドッスの『構造主義の歴史』の訳者あとがきで、訳者が「人文科学」という言葉の系譜について説明していましたが、構造主義というのは、いわゆる人文知といわれる領域に科学性を確立しようとした運動である、という性格ももっています。のちにソーカル

    構造主義について考える3 - 生きてみた感想
  • 構造主義について考える2 - 生きてみた感想

    前回(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070425#p1)のつづきです。 前回はごくごくおおざっぱに、構造主義のメインモチーフを「人間の乗り越え」に見出しながら、しかし構造主義そのものと「人間の乗り越え」のモチーフとの間にはズレが存在し、そのことが構造主義という思潮そのもののただなかにさまざまなひずみを生み出しているのではないか、そしてそのひずみを考えることはなんだかんだと興味深いのではないか、ということを書いたのでした。 今回はほんのちょっとだけ引用を入れることにしますが、構造主義が「人間の乗り越え」というモチーフと結びついているということについては、たとえばジャン=マリ・ブノワが次のように書いています。 意味を与え、意味作用の尽きることなき源泉であった人間は、相互的に生産される記号を接合し、記号の意味生産を取り捌く差異的で構造的で記号的な関係の前で

    構造主義について考える2 - 生きてみた感想
  • 「新聞は瀕死状態か?」 英、仏、米の試み | 小林恭子の英国メディア・ウオッチ

    ー「ネットで読むだけでもいい」 ロンドンの外国プレス協会で、24日、「新聞は瀕死状態か?」というタイトルのディスカッションがあった。パネリストとして参加したのは英テレグラフ紙のウイリアム・ルイス編集長、米インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙(部パリ)の記者エリック・ファナー氏、インドのタイムズ紙のロンドン支局長ラシミー・ロシャンラル氏、フランスの経済日刊紙ラ・トリビューンのアンドレア・モラウスキー氏。何故かヘラルド・トリビューンの記者のみがやや自信なげでそれほどおもしろいコメントがなかったのだが、最後までテレグラフ紙ルイス編集長への質問が絶えず、熱狂の雰囲気の中でイベントは終わった。 まず、ルイス編集長(37歳)は元ファイナンシャルタイムズの記者で、サンデータイムズにいた後、テレグラフに来たのは2005年。編集長になったのは昨年の秋から。印象記になるが、英国の上流階級のようなアク

    「新聞は瀕死状態か?」 英、仏、米の試み | 小林恭子の英国メディア・ウオッチ
  • 福耳コラム -経営学ってなんでしょうの巻 「女子大で講義する余談の多い経営学 #1」

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  • 構造主義について考える1 - 生きてみた感想

    このところ文章を書くのがどうも億劫になっているのですが、その原因はおそらくちゃんとひとまとまりのある「記事」にしなければ、という強迫のようなものを無意識のうちに保持している事にあるのではないか、と思いました。ということで、もうちょっとゆるく、エッセイ=随筆みたいな感じで、このところ考えていることを気ままに書く、ということもやってみたいと思います。 とかいいながらちょっと「お固い」話になってしまうのですが、このところ「構造主義」というものについてつらつらと考えています。すごく素朴な話で、「構造主義ってなんなんだろう?」とか「構造主義が終わったとかいわれるのはどういう意味なんだろう?」とか、まあそんなことです。ここではそういった「なんだろう?」を巡って考えていることをメモ帳がてらに気ままに書いていくことにします。 まず陳腐な言い草ですが、「構造主義とは人間を脱中心化する運動である」と述べてだい

    構造主義について考える1 - 生きてみた感想