MouRa|東浩紀、桜坂洋|ギートステイト - 2045年の世界(1) 貧しい人々は、もし貧しいままでいいのだと思いさえすれば、ニューヨークでもロンドンでも東京でも、それなりに「豊か」な生活を送ることができる--少なくとも、そう思いこむことができる。むろん、そのすぐそばには、彼らよりもはるかに恵まれた人々が大量に生活しているのだが、国家の一体性が壊れているためにその姿はほとんど目に入ることがない。それが、2045年の世界である。 これはSFだけど、いい社会だなぁ。こんな社会が来たらマジでシビれる憧れるなぁ、と思った。 前にも書いたけど、劣等感というものは自分の眼に入る場所に、自分よりも恵まれた、優れた人間が居るというシチュエーションで始めて喚起されるものなので、「そのすぐそばには、彼らよりもはるかに恵まれた人々が大量に生活しているのだが、国家の一体性が壊れているためにその姿はほとんど目に入
見なければいけないと思う現実がお互いで違っている。(お互いで宗教が違うようなもの) 「見なければいけない現実」は、ひとまず制度的・権力的に、あるいは惰性で、だいたい決められている。「これさえ見ておけば文句は出ない」という現実の範囲や枠組みがある。 倫理的に「見なければならない現実」はその制度の枠外にあるが*1、「見なければならない現実」は、たいてい不愉快なものであり、それを見る努力を共有しようと押し付けることは、ヘタをすると迷惑行為であり得る。 私は、自己分析的な姿勢を自分の努力のコアにしている。しかし「自己分析」は、多くの人にとって*2不快の極みでもある。ほとんどの人は、自分の不都合な現実を見ようとしない。 誰かがしんどい現実を見ようとしないことで、ほかの誰かにひどい皺寄せがいく。「迷惑だから、この現実を見ろ!」と言いつのることは、相手にとっては迷惑でしかない。そこを調整するのは、政治や
はてなブックマークからは毎日のようにいままでは知りようがなかったすばらしい記事やニュースを得ています。こうして日記を書いた後にたくさんのフィードバックをいただいています。コメントのないブックマークでも、その一つ一つがとても嬉しい。そこに人がいる、という感じがします。はてなブックマークを作って良かった、と思います。 一方、はてなブックマークでの厳しい一言で人が傷ついたりしているのを見かけます。誰かがちょっと間違ったということを指摘するのに、バカとかアホとか、そんなことを書く必要は本当にあるんだろうか、自分の思う正しい回答を丁寧に示すだけでよいのではないか、と思います。 人間の感情なので、色々思うことは止めようがない、とも思います。また一方で、それを外にストレートに出さないよう理性を働かせるのもまた、人間のあり方だと思います。 コメントを見て「身から出た錆だ」と思ったこともあるし、僕自身も自覚
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