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ノイズに関するmassunnkのブックマーク (4)

  • セレンディピティたっぷりのはて☆スタユーザ別トップページ - アンカテ

    セレンディピティは「偶然の幸運に出会う能力」と定義される。つまり、『「A」というものを探し求めている旅の途中で、全く異なる「B」に出会い、その結果幸運をつかんでしまった(P.110)』こと。 はて☆スタのユーザには、それぞれにホームページが与えられる。 essa favorites たとえば私のトップページはこれだ。 ここには、「私が☆をつけたブロガーの記事の中で、誰かが☆をつけたエントリ」がブロガ一人につき最新一件、一覧表示されている。 自分が巡回してあちこちに☆を付けた直後にここを見ても、たった今自分が「ちょっといいな」と思ったエントリが並ぶだけで、何も偶有性が無い。しかし、しばらく他のことをしてからここを見ると、あるいは、朝一番にここを見ると、そこには自分の全く知らなかった面白いエントリが並んでいる。 コントロールできる部分とそうでない部分のバランスが絶妙なのだと思う。 コントロール

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  • 「ノイズ文化論」講義を読み終わる - みみのまばたき

    東京大学「ノイズ文化論」講義 作者: 宮沢章夫出版社/メーカー: 白夜書房発売日: 2007/07/02メディア: 単行購入: 2人 クリック: 44回この商品を含むブログ (82件) を見る演劇は全然詳しくないし宮沢章夫のも『「資論」も読む』しか読んでいないので思い入れといってもあまりないし、タイトルから内容が大体想像できてしまうわけでもあったのだけれど、やはり確認したくて読んだ。しかし、話題の膨らまし方に割りと無理があるなどとチラチラ思いつつも、結局飽きずに読んでしまった。 分かりきってはいるものの好きな部類のなのだな。 ジョン・ケージを引用してくる部分は、この講義での「ノイズ」が音楽ジャンルでいうものではなくて、そこから同質に広く敷衍できる社会的な存在の仕方であると言明されているからには、扱いが薄くなってしまうことはもちろん了解できますが、どうせなら佐々木敦氏などをゲストに呼

    「ノイズ文化論」講義を読み終わる - みみのまばたき
  • 2007-07-18 - 空中キャンプ

    わたしが子どものころ、家の近所に馬小屋があった。わりと田舎だったのである。そこには馬が走り回れる場所もあって、学校から帰ってくると、馬がぽくぽく歩いている光景が見えた。今にしてみれば、ずいぶん牧歌的だった。しかしなにより記憶にあるのは、その馬小屋がとても臭かったことだ。近くを通ると、馬糞や藁の入り混じった匂いがぷんとした。「動物って匂うんだな」と感じたことを覚えている。かんがえてみると、家から学校までの道のりには、「なんだか臭い場所」がけっこうあった。団地の裏とか、地下通路だとか、用水路のとなりなんかを歩くと、よくわからない、へんな匂いがしたものだし、子どものわたしはそれを特におかしいともおもっていなかった。「外にでると、けっこう臭いものだ」とごく自然にとらえていた。 わたしは東京に住んでいますが、今、外を歩いていて「臭い」と感じることはまずなくなった。臭い場所なんてもうないのである。どこ

  • 読書メモ3〜排除される側からみたノイズ〜 - しみずノート

    東京大学「ノイズ文化論」講義 作者: 宮沢章夫出版社/メーカー: 白夜書房発売日: 2007/07/02メディア: 単行購入: 2人 クリック: 44回この商品を含むブログ (82件) を見る 書は、後期近代の社会における排除される〈ノイズ〉について文化論の視座から考察している。 犯罪学者のジョック・ヤングもいうように、後期近代の社会のありかたは「排除の社会」として位置づけられよう。 それは、マイノリティとしての同性愛者・障碍者・被差別民、非正規労働者、犯罪予備軍などを排除し、均一な空間へと向かう力学が作用する社会のあり方である。 この問題意識は、酒井隆史の『自由論』、渋谷望の『魂の労働』、鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』や東浩紀の『情報自由論』をはじめとする論者によって共有されている(いわゆる「セキュリティ化する社会」)。 来、多様であるはずの存在者である〈ノイズ〉を排除するというこ

    読書メモ3〜排除される側からみたノイズ〜 - しみずノート
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