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死に関するmassunnkのブックマーク (8)

  • 映画『ラースと、その彼女』 - onoya's blog

    これについては、長く書かなくてはならない。 近日中にでも、少女論・人形論をまとめたい気分だ。 渋谷シネクイントで見る。設定そのものがコメディ的であるがゆえに、様々な読み取られ方がしそうな映画である。『キサラギ』もそうだったが、見る者の立場によって見方は相当に変わってしまうだろう。登場人物の誰に感情移入できるのかで、笑い方、泣き方は変わる。 あらすじ:アメリカ中西部の小さな町に暮らすラースは、優しくて純粋な青年で町の人気者だが、ずっと彼女がいないために兄のガス、義姉カリンらは心配していた。そんなある日、ラースが「彼女を紹介する」と兄夫婦のもとにやってくる。しかしラースが連れてきたのは、ビアンカと名づけられた等身大のリアルドールだった。兄夫婦を始め、街の人たちは驚きながらも、ラースを傷つけないようにビアンカを受け入れようとするが…。(goo映画より) ネタバレをするが、最終的に、ラースは職場の

    映画『ラースと、その彼女』 - onoya's blog
  • ■ - FIGURALIA

    Jacques Gelis, Les enfants des limbes. Mort-nes et parents dans l'Europe chretienne, Paris, Audibert, 2006. http://www.amazon.fr/enfants-limbes-Mort-n%C3%A9s-parents-chr%C3%A9tienne/dp/284749068X/ref=sr_1_1/ かつてキリスト教世界において、死産がいかに恐れられていたか。生まれた時点ですでに死んでいる子供には、洗礼を授けることが許されなかった。そして洗礼を受けていない亡骸は、教会の墓地に埋葬されることは禁じられていた。だから死んで生まれてきた子供の亡骸は、「動物のように」庭先などに埋められることとなり、そのような子供は"Limbes"という生と死の間の冥府を、永遠にさまようことになるだろう

    ■ - FIGURALIA
  • 「夕凪の街 桜の国」を観る。 - きちんと暮らす。

    広島で被爆した女性皆実は生き残ったことに負い目を感じ、幸せになることに罪悪感を感じている。 『わかっているのは、「死ねばいい」と誰かに思われたこと。思われたのに生きているということ』という原爆の被害者のリアルな心情が痛い。想いを寄せる会社の同僚打越の「生きとってくれて、ありがとうな」という言葉に救われるが、皆実の命の残りは少ない。 皆実の死の直後のモノローグ『原爆を落とした人は私を見て「やった!また一人殺せた」とちゃんと思うてくれとる?』は、原爆を落とした人間に届かない。原爆を落とした人間には、広島にいた一人一人の姿が見えていない。それが悲しい。 日人なら全員見るべき映画だ。いや、世界中の人間はこの映画を見て、原爆を落とすことが、その下にいる一人一人の人間とその家族・子孫にどんな悲劇を与えるのかを知るべきだ。誰かに「死ねばいい」と思われたこと、誰かに「生きていてありがとう」と思われること

    「夕凪の街 桜の国」を観る。 - きちんと暮らす。
  • 峯田和伸の★がぶがぶDIEアリー : 13日の金曜日 - ライブドアブログ

    massunnk
    massunnk 2006/10/19
    ウンコ
  • 遺骨と自分 - 特殊清掃「戦う男たち」

    自分が死んだ後、その骨をどうしてほしいか、考えたことがあるだろうか。 火葬された後に残される自分の骨の行く末をだ。 私なりの自論なのだが・・・ 骨になった状態は既に自分であって自分でないようなもの。 したがって、骨がどこでどうなろうと、知ったことではない・・・と思う。 しかし現実には、そう思いながら、なかなかそう割り切れないものがある。 やはり、遺骨の状態でも、自分の肉体であることの感覚は捨てにくいものだ。 生きている今は、自分の身体を自分そのものとしている訳なので、なかなか自分と別物とは考えにくい。 アノ世というものがあるなら、そこはコノ世の理解を超越した異次元の世界なのだろう。 それを考えると、「自分の骨をどうするか」なんてたいして大事なこととは思えなくなる。 集合墓地の「永代供養」だって「永久に面倒みます」ということではなく、「しばらくの間は面倒みます」という意味だし、一般の墓だって

    遺骨と自分 - 特殊清掃「戦う男たち」
  • どこに行けば人間の死体に出会えるか、詐欺みたいな話、今を - 吹風日記

    現代日で人間の死体に出会うためにはどうすればいいか? これはけっこうな難問です。でも、なんで我々はそんなに「死」を見るのがいやなんでしょうか? 今日は、「予定された未来」ではない、当の「今」を生きることについて考えます。 ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけ体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しない」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底的に排除する。人の一生でいうなら、生老病死を隠してしまう。人はいまでは病院で生まれ、いつの間にか老いて組織を「定年」となり、あるいは施設

    どこに行けば人間の死体に出会えるか、詐欺みたいな話、今を - 吹風日記
    massunnk
    massunnk 2006/08/14
  • 「私家版」格言集

    「私家版」格言集 Top page に掲げた「格言」の back number です。以前から少しずつ色々な所から書き集めたものなので, 現在では引用元が何処になっているのか分からないものもあります。 皆さんの人生のお供にでもなれば幸いに存じます。 尚, 原語表記したりしていますので, 場合によっては皆さんの browser では表示が乱れるかもしれませんがご了承ください。 又場合によって原文の一部の表記 (漢字や英語など) を勝手に変えている場合があります。 問題がある場合はご連絡ください。 Categories

  • 死人が生き返ることはあるか、早すぎた埋葬、惜しみなく花もて埋めよ - 吹風日記

    生きながら埋葬される、あるいは臓器を摘出される、これはそうとうな恐怖だと思います。しかし、現実にはこんなことがけっこうあるのではないか? 今日は、「死んだ人が生き返ることがあると思うか」などと子供に聞く大人はアホではないか、ということについて考えます。 「甲虫(かぶとむし)がとうとう死んだの。それで、あの子今まで泣いて泣いて……」。 鳥や虫の小さい生命の消えるたびに、いつも事新しく悲しむ次女が哀れにもまた好ましかったので、そのとき私は、なんとなく微笑した。 明けての朝は二学期初めの登校日。曇り空だが雨はあがっていた。 「帰ってから花壇に埋めるから預かってネ」――次女はそう言い、ちり紙に包んだ甲虫を私の机に置いて登校した。 あとで紙包みを開いてみた。甲虫は生きていた。後足がかすかに動く。「まだ生きてるじゃないか!」――予期せぬ驚きが声になった。台所にいたが、信じられないという顔で甲虫を覗き

    死人が生き返ることはあるか、早すぎた埋葬、惜しみなく花もて埋めよ - 吹風日記
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