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ブックマーク / www10.ocn.ne.jp/~fstyle (2)

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    1,黙示録的想像力とは何か(押井守と八〇年代) 世界の終焉、そのような黙示録的な状況を待望することを、ここでは黙示録的想像力と呼びたいと思う。特にここでは、戦後日のサブカルチャーに現れたそれを指す。ただし、ここでできるのは、そのごくごく一部からの眺めのラフスケッチにすぎない。そのため、以下では多くの説明不足や不備を抱えているだろうがご容赦いただきたい*1。 黙示録的想像力の起源が果たしてどこにあるのかは定かではないが、ここでは押井守から始めることにしよう*2。一九五一年生まれの彼は、高校時代に学生運動に一時参加するも、大学入学以後は運動から遠ざかる。その当時を振り返って言うには、彼は「革命ではなく戦争」を望んでいたらしい。ここに、押井の中で闘争という手段が目的に転じていることを見て取ることができるだろう*3。闘争によって世界をよりよくするのではなく、世界が闘争状態になることを望んでい

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    0 ここでは、ゲームと東浩紀のデータベース概念、伊藤剛のキャラ/キャラクター概念との接合を試みようとしている。そしてこの試みは、ある哲学的な議論とも接続する予定である。かつて、映画と哲学が非常に近接していた時代があった(僕自身はその時代を経験していないが)。それと同様に、ゲームと哲学を接近させよう、という試みでもある。 しかし、最初に断っておかないといけないことがある。僕が持ち合わせているゲームについての知識が、非常に少ないということだ。この世代の人間としては、ゲームに費やした時間が著しく少ないのである。そのため、論を展開する上で具体的な例示をすることができない。またそれはこの論が、データベース概念とキャラ/キャラクター概念をゲームという方向から考察するという目的のために作られた作業仮説の域を出ない、ということでもある。 1 1-1 小説映画、マンガ、ゲームといった物語メディアには

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