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ブックマーク / crowserpent.hatenablog.com (9)

  • 「恋愛できない女は洒落にならない」はどこまで本当か - 烏蛇ノート

    はてなダイアリー界隈では、以前から「非モテ女性不可視論」が論じられてきました。これは、はてなダイアリーで「非モテ」を名乗る女性が男性に比べて少ないことから、「非モテの女性はどこに居るのか?」が度々話題になったためです。 今回は、これに関連したMasao氏のこちらの記事より。 http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20061004/p1 たとえば、「女版ラジオクリルタイ」なんて想像できますか、みなさん。ブスが寄り集まって素晴らしい人々へのルサンチマンを語ったり暗い学生時代を振り返ったりするネトラジ。ちっとも笑えない話になるか、やたらハイテンションなお笑いになるか、じゃないでしょうか。非モテ男と非モテ女、いまだ、とてつもなく異質なり。 僕はコレは、「社会的に女は恋愛仕事だから」なんじゃないかと考えています。これは、「女のニートは家事手伝いと名乗れて、男ほど問題視さ

    「恋愛できない女は洒落にならない」はどこまで本当か - 烏蛇ノート
  • 「萌え」と「恋愛」それぞれの嘘 - 烏蛇ノート

    久々に恋愛についてのお話です。 今回は宮台真司氏のこちらの記事について。 生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。 宮台氏の議論は非モテ界隈ではよくある「脱オタのすすめ」の一種であり、「萌えに逃避せずに現実(の恋愛)と向き合え」という論調です。「萌えに逃避している」と言われた側は当然反発するわけで、kagami氏のこの記事はこうした「反発」の分かりやすい例でしょう。

    「萌え」と「恋愛」それぞれの嘘 - 烏蛇ノート
  • 烏蛇ノート

    昨年の暮れに、「30~40代がいずれ迎える「大量孤独死」の未来」という記事がちょっとした話題になりました。 千葉県のマンションに住む60代の男性は、孤独死してから半年間にわたって発見されなかった。男性の傍らには、犬と7匹が一緒に息絶えていたという。 (中略) この男性は、独身で一人暮らし。仕事はしておらず、親の遺産で生活していたようで、貯金は2000万円ほどあり、経済的には特に不自由ない生活を送っていた。 だが近所や親族との付き合いはなく、人間関係がほとんどなかった。 その結果として男性は、孤独死という事態を迎えたのである。 30~40代がいずれ迎える「大量孤独死」の未来 - 東洋経済 記事では、自室で亡くなった男性と、一緒に死んでいたペットの様子がおどろおどろしく描写され、「ペットの多頭飼い」は社会問題であると強調されたのち、単身者の「孤独死」が今後増加するであろうという危機感を煽る文

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  • 「女はわからない」という幻想

    watapoco氏の記事のタイトルにもある通り、「男と女の間には深い溝が横たわっている」というセリフは古今東西よく聞かれます。男と女は相互理解のできない生き物だ、という趣旨の著名人の格言はいくらでも挙げられるでしょう。私は長い間、このような言説に馴染めないでいました。というのも、私にとっては、同性である男性の方こそが「深い溝」を感じざるを得ない「理解し難い生き物」であったからです。 さて今回は、こうしたよく言われる「男性から見ての女性のわからなさ」が一体どのようなところからくるのか、その背後にある問題について考えていきたいと思います。引用は正午氏のこちらの記事と、それに対するwatapoco氏のTB記事より。 つまり童貞には童貞にしかわからないセックスの真理があり、モテにはモテにしかわからないセックスの真実がある。 自らの体験について語るということは、手のひらから次々にこぼれおちていくもの

    「女はわからない」という幻想
  • 「愛」という名の性的搾取 - 烏蛇ノート

    前々回の記事でのイカフライ氏のコメントへの返信記事です。 あと、もうひとつ。 >『「愛」の証として、強迫的にこの種の行為を迫られる昨今の風潮』 うーん、これって良く解りません、「脅迫的に迫られる」 あくまで自分の経験に過ぎないのですが、好きな人とは抱きたい、抱かれたい、って、自然に湧いてくる気持ちじゃないんですか? いや、勿論、愛が無くてもセックスなんていくらでも出来ます。実際、昔は親が決めた結婚なんていくらでもあるし、今だって国によってはそうです。 欲望だけでも出来るでしょうし、セックスをお仕事にすることだってあります。 ただ、「したい」という気持ちは、「家のために子供を作らねば成らない」というような社会的強要とは違うもののように思えるんですが。 まあ、もしかしたら、その、特に若き日に「好きだからしたい」と思う感情が、能に根ざした繁殖システムなのかも知れませんけれど。 「愛があればセッ

    「愛」という名の性的搾取 - 烏蛇ノート
  • ジェンダーを論ずる理由は? - 烏蛇ノート

    中絶をめぐる議論がもう少し残ってますが、その前にちょっと別の話を。引用はシロクマ氏のこちらの記事より。 なぜ、彼ら彼女らはジェンダーに拘って白熱した議論を続けていられるのだろうか?佳い女だったら何でもいいじゃんと思う私にとって、一見すると彼らの行動選択は不可思議で非生産的なものにみえる。“そんな議論に心血を注いでいる暇があったら、もっと異性の魅力を追いかけ回せばいいのに”とか、“女の魅力からジェンダーを除去して、何が面白いんだろ?素直に欲情してイカれちまえばいいじゃん”とか考えてしまう。ジェンダーを議論したところで印税が入ってくるわけでもないのに、異性への恋慕がよりドラマチックになるわけでもないのに…不思議だ。 シロクマ氏が「ジェンダーに拘って白熱した議論ができる」ことが理解できない理由は一見すると単純で、「シロクマ氏にとって興味を惹かれない話題だから」というだけの話に過ぎないように見えま

    ジェンダーを論ずる理由は? - 烏蛇ノート
  • 「女友達は恋愛と無関係」に潜むミソジニー - 烏蛇ノート

    最近また放置気味ですが、今回は久々に「非モテ」ネタで。 押井徳馬氏のこの記事では、非モテ男性の人達に「とりあえず彼女作れ」とアドバイスすることの無意味さが論じられています。記事の趣旨には全面的に賛同するんですが、問題はコメント欄でのg氏の発言です。 彼女を作る前に女友達を・・・という下りですが、 彼女を持つ事を最終目的とする場合は、 女友達を持つ持たないというのはあまり意味を成さないと思います。 基的に女性は異性に対して友人と恋人を 性的魅力などの要素で厳格にジャンル分けして、 友達のカテゴリにいれられた人は半永久的に そこから脱する事は出来ないようです。 (中略) こういったことを考えると、特に深い意図も戦略もなく、 単純に女友達を作っても恋愛には繋がらないかと。 g氏と同じような主張は、以前Masao氏からもありました。ここでは「好意は必ずしもセックスに繋がらない」ということが述べら

    「女友達は恋愛と無関係」に潜むミソジニー - 烏蛇ノート
  • 「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?(3) - 烏蛇ノート

    今回は、前回の話と関連して、こちらの記事での覚悟氏からの言及に応えてみようと思います。ちなみに今回のタイトルは「非モテ」となっていますが、覚悟氏の使い分けに従うなら「喪男」のことになります。 「女性に酷い目に合わされた喪男」 代表ブロガー:私(覚悟)やWATA氏など →女性を恐ろしいエゴイストと認識し、恋愛観も非情。 (恋愛を醜いエゴと認識し、恋愛そのものを放棄) 「恋愛、セックス経験豊富なヤリチン」 代表ブロガー:Masaoやシロクマなど →喪男程ではないが、認識のベクトルは比較的近い。 (恋愛を醜いエゴと認識しながらもそれに順応する事を大人としている) 「女にイジメられた訳ではないが恋愛経験無しor少ない非モテ」 代表ブロガー:烏蛇やクリルタイメンバー、その他大勢 →喪男やヤリチンの認識とは異なり、何故かかなり女性に楽観的。 友達として仲良くなれば〜とか性善説的な考え方を持っている。

    「非モテ」は如何にしてミソジニーに陥ったのか?(3) - 烏蛇ノート
  • 性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート

    前回の記事を受けてのBLUE PINK氏の記事への返答です。 自分が普通の人間だと思っている人は自分が普通の幸福が得られないことをそう簡単に納得できない。これ自体、他人に暴言吐いたりしない限り悪いことじゃない。 もちろん納得できればちょっとは幸せになれるでしょう。でもそれを普通の幸福を享受する人間から言われたら余計こじれるだけ。じゃあ、てめぇも同じ状況になってみろよ、と。 性規範から自由になれ、っていう前に、まずその規範が与える強迫性を考えるべき。「恋愛男女間が当たり前」という性規範に漏れたゲイなんかに、「男女恋愛に固執するから不幸なんだよ。すなおに今の状態を受け入れることでもっと自由になれるよ」なんていったら怒るだけでしょう。受け入れずらくしてるのは誰なんだよ、と。 規範が与える強迫性というものは確かにあるでしょう。そして、それが「規範に従わなければ社会的承認を与えない」という形でな

    性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート
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