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ブックマーク / hinonaname.hatenadiary.org (3)

  • ゴーストとファントム(その2、東浩紀) - 蝶を曳く−文芸時評

    機械は心を持つのか、というのはそんなに新しい問題でも難しい問題でもない。多くの知人に「機械と人間の違いは何か」と訊いたことがある。「機械には心が無い」というのが私の予想した多数意見であり、事実そうだった。「すると」と、私は用意した第二問を発する、「アトムやドラエモンには心が無いんだね」。全員がそこで戸惑うか、さっきの回答を撤回した。心を持つ機械が存在するのは否定できそうにない。 この問題に関する私の好きな回答は大森荘蔵「ロボットの申し分」である(『流れとよどみ』1981所収)。ロボットが人類に語りかける、という趣向のエッセイで、結論はこうだ、「他人が心あるものであるのはあなたがそれを『信じる』からではなく、あなたが彼を心あるものとして見立て応対するからなのです」。他人を心あるものとして扱うこと、それによって他人に心を「吹き込む」のだ。結論よりもその帰結の方が面白いので引用しておく。 あなた

    ゴーストとファントム(その2、東浩紀) - 蝶を曳く−文芸時評
  • ゴーストとファントム(その1、村上裕一) - 蝶を曳く−文芸時評

    もう大昔のこと、ディープブルーがカスパロフに勝ったとき、私の思った素朴な疑問がある。複数のCPUをつなげたディープブルーを一台と数えていいのか、それとも何台かの機械の連合体とみなすべきなのか。私の出せる答えはせいぜい「問いに意味が無い」だった。士郎正宗『攻殻機動隊』第七話に二台のロボットが軽く接続する場面がある。二台がつながったときの"会話"はこんな調子だ、「君…いやボクは…あれっ!? 君かつボク−!? ボク…!?」。つまり、通常の「個」の数え方が通用しないのである。その点で私は間違っていたわけではない。ただ発展性が無かった。ちなみに、ディープブルーの勝利は1997年だが、『攻殻機動隊』の連載が始まったのは1989年である。こんな先駆的な作品があることを私がやっと知ったのは一昨年のことだ。新婚の嫁がアニメ好きでなかったら、いまだにアニメを馬鹿にしたままだったろう。 「東浩紀のゼロアカ道場」

    ゴーストとファントム(その1、村上裕一) - 蝶を曳く−文芸時評
  • 斎藤環『関係の化学としての文学』 - 蝶を曳く−文芸時評

    ラカンを読もうとして私はいつも挫折した。解説書は何冊か読めたけど、ラカンは読めなくてもいいや、と思わせた。斎藤環『生き延びるためのラカン』で初めてラカンを面白いと思えたものである。 小説を筋立てや設定、登場人物、文体で批評する例はよくあるが、斎藤環は「関係」を考える。そこが新鮮だ。ただし、「関係」とは何か。多くの批評がたとえば恋愛「関係」を扱っているように見える。しかし、斎藤の言う「関係」は「所有」ではない。「小説においては、「所有」以外の形式において恋愛関係が描かれることはきわめて稀である」と彼は言う。多くの小説が男性原理によって書かれてしまっている。 男性にとって、性愛とは所有することだ。だからセックスは性関係の全てであり、究極の所有の儀式にほかならない。モノにするだの喰うだのといった俗語が表す状態がすべて、ということになる。言い換えるなら、男性は女性との関係において、セックスよりも深

    斎藤環『関係の化学としての文学』 - 蝶を曳く−文芸時評
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