表題の通りです。 たいへん面倒臭かったのでもう二度とやりません。
そもそものはじまりはかつてわたしであったものがいつかわたしでありうるものと口論しているのを見てほんとうのわたしであるところの私がそれを止めにここへやって来たことだ。 「君はかつてわたしであったものであって現在わたしであるというわけではあるまい、ということは本当のわたしではないよ」と、かつてわたしであったものが言うと「君こそいつかわたしでありうるものということは、いま現在わたしではないということだろう、つまり私こそがほんとうのわたしだ」と、いつかわたしでありうるものが答えている。馬鹿らしいとは思ったが、しかたがないから私は「そんなことを言ったって君たち二人のどちらだっていまこの瞬間にわたしではないのだから、どちらもわたしではあるまい。現在わたしであるのはただ一人このほんとうのわたしだけだろう」となだめてみたというわけだ。しかしそれがいけなかった。 それを受けて、かつてわたしであったものが「君
第十夜 こんな勝間和代を見た。 赤いネオンサインがむこうにうすぼんやりと点っている。色ばかりで光がない。夜かと思うとそうでもないらしい。うしろの空には蒼白い光がながれている。日がくれたのか、夜があけるのかわからない。赤いネオンサインがぢぢぢと音をたてた。おれは人気のまるでない路地の暗がりに立っている。髪はびっしょりぬれて、うなじのあたりからぽたぽたと雫がたれている。足もとの水たまりをのぞきこむとおれの顔かたちがはっきりと見えた。勝間和代の話は上司から何度も聞かされたけれども、自分がその勝間和代になろうとは思いもよらなかった。名うての経済評論家にうまれかわって、こんなところにぼんやりと立っている。黒くぬれたアスファルトの上に立って、どうしていいかわからない。なぜこんなところに置かれたのだか、いったい夢なのだか現なのだか、そんなことはまるでわからない。 そのうちにネオンサインがまたたきはじめた
Pefumeの新曲「ポリリズム」、皆様もうお聴きになられましたでしょうか?もちろん僕はもうとっくに購入済です!いつ見てものっちはかわいいですね。 というわけでまあ、聴いてまず、中田ヤスタカの引き出しの少なさをポリリズムという目くらまし*1で誤魔化しているんちゃうかと、そのあまりのあざとさに笑ってしまったわけですが。 この「引き出し」の話はもちろん同じ中田ヤスタカプロデュース作品である鈴木亜美の新曲にも言えるわけですし、その他の中田ヤスタカWorksにも言えるわけです。しかしそうした中田ヤスタカ的なもの*2がじわじわと我々の世界を侵食している様子を見ていると、こんなふうに*3高みから嘲笑している気になっていることなんてとても出来ないことも容易に理解できるでしょう。 それを受けてここで唐突に引用。菊地成孔「CDは株券ではない」160ページより、松浦亜弥「ずっと 好きでいいですか」の分析のなかで
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