兵庫県(ひょうごけん)の淡路島(あわじしま)へ県境を越えて遊びに行ったことがある人は多いでしょう。日帰り旅行や遠足にぴったりの距離(きょり)ですものね。でも、そんな淡路島が明治時代の初めまで徳島と同じ徳島藩(はん)に入っていたことを知っていますか? 現代に例えて考えると、同じ県内だったのです。 淡路島は、古代の地方行(ぎょう)政区画(せいくかく)である五畿(き)七道(どう)で四国と同じ南海道に組み込まれたほか、名前も阿波への道という意味でつけられたといわれています。それほど深いかかわりがあったのですが、明治時代に起きた事件をきっかけに徳島と別の道を歩むことになりました。 その事件は、一八七〇(明治三)年に起きた稲田騒動で、庚午(こうご)事変(じへん)とも呼ばれています。淡路島の洲本(すもと)にいた徳島藩の武士が、洲本城を預かっていた家老稲田邦植(いなだくにたね)の家や学問所を襲(おそ)