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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/Syouka (23)

  • 「和を以て貴しとなす」は「みんな同じ」ではない - 月明飛錫

    生花,Ikebana, 雑記 | 23:36 | 昨日(13日)のNHK番組『歴史秘話ヒストリア』が聖徳太子を取り上げていたなかで、生け花には聖徳太子の「和の精神」が今でも息づいているという話が出てきたので、生け花をたしなむ者のひとりとして、これについて若干補足したい。 というのは、「和を以て貴しと為す」という言葉は、現代では「出る杭は打たれる」、「波風を立てるな」、「空気読め」といった協調性を過度に重視する風潮や、なれあい、妥協といったイメージでとらえられることがあるからだ。しかし、来の意味はこうしたイメージとは違う。 13日の『歴史秘話ヒストリア みんなでいい国にしよう!〜プリンス聖徳太子 ニッポン補完計画〜』では、時間の関係なのだと思うけれど、生け花の先生が語った時間はわずか10数秒だったので、生け花において「和の精神」が具体的にどのように生かされているのか、十分には伝わらなかった

    zyesuta
    zyesuta 2011/07/15
    同じようにきれいな花を何十本集めても、作品は成り立たない。
  • 資本主義軽視は「隷属への道」につながりかねない - 月明飛錫

    雑記 | 02:14 | 政府が発表した東電の賠償スキームに対して、批判が続出している。主に批判されているのは、債務超過が予想される東電を破綻させずに上場を維持して株主を保護する一方、枝野官房長官が発言したように債権者(金融機関)に債権放棄を求めること破綻していない民間企業(東電)の債権の放棄を促し、民間と民間の間の取引に政府が口を出すこと東電以外の電力会社にも、奉加帳方式で負担させることについて、資主義を軽視しているという点だ。参考:東電融資の債権放棄、しっかり討議してから話すべき=東証社長−ロイター 私も、この点については、以前問題を指摘した。関連記事:資主義のルールを無視した電力会社の「奉加帳方式」 また、菅首相の浜岡原発の停止要請についても、法的根拠のない行政指導で民間企業に多額の負担を発生させることになり、国家の権力を法律によって制限する法治国家として問題があるとの批判が出て

  • 日本の貯蓄の6割が60歳以上の世帯に集中 - 月明飛錫

    雑記 | 03:48 | 総務省が昨日発表した2010年平均の家計調査 貯蓄負債編(2人以上の世帯)によると、1世帯当たりの平均貯蓄額は前年比1.2%増の1657万円となり、5年ぶりに増加した。 貯蓄額の年代別の割合をみると、60歳以上の世帯が全体の62.4%にのぼり、この比率は前年比1.7ポイント上昇した。さらに過去に遡って推移を見ると、ほぼ一貫して貯蓄が高齢世帯に集中し、30代以下の貯蓄が減少していることがわかる。参考:http://www.stat.go.jp/data/sav/sokuhou/nen/pdf/h22_gai4.pdfhttp://www.stat.go.jp/data/sav/sokuhou/nen/pdf/h22_gai8.pdfhttp://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001073917 1.貯蓄が60歳以

  • 大正青年と平成の若者の共通点 - 月明飛錫

    雑記 | 00:02 | 1. 大正青年と平成の若者大正時代と平成の世は、よく似ているといわれる。「富国強兵」のスローガンの下、近代国家としての体制作りに邁進し、大国の一員となった明治の後の大正。そして、戦後の復興から奇跡の高度成長を達成し、世界第二位の経済大国となった昭和後の平成。 繁栄の中で成長した世代は、大正青年にしても、平成の若者にしても、その親の世代からすると、親の遺産をいつぶす頼りない存在に見える点も共通している。しかしその背景には、目標を達成したあとで、社会システムの矛盾が表面化し、価値観が混乱したことがあり、それが若者の姿に顕著にあらわれたのだと思われる。 2.金持ちの若旦那、大正青年明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストの徳富蘇峰(1863〜1957)は、『大正の青年と帝国の前途』(1916年=大正5年)の中で、大正の青年を「金持ちの若旦那」と呼び、大正青年を次の5

  • 明治の新聞(37)〜新しい女 - 月明飛錫

  • カネ余りの国で、外資を求める成長企業 - 月明飛錫

    雑記, TV | 00:53 | 今日のクローズアップ現代では、「急成長 アジアマネーを取り込め」では、アジアに活路を求める日の企業の例が2つ紹介されていた。1つは、成長著しいアジアの企業の資金調達ニーズにビジネスチャンスを見出し、投資銀行業務を行う野村證券。2つ目は、アジア市場で資金調達をする日のベンチャー企業。資金繰りに苦しむ日の中小企業が、日では資金を調達できず、台湾など、日以外のアジア市場で資金調達を目指す動きが広がっているという。 1つ目については、日企業が新たな成長市場へ進出したという話。インドでは、日の高度成長期、あるいは明治時代のように、鉄道や港といったインフラ投資が進んでおり、そのための資金として外資へのニーズがある。中国でもM&Aなどの案件が増加。利益を求める企業が、これらのビジネスチャンスを目指すのは、当然の動き。 でも、2つ目については・・・これはどう

  • ブログもパトロンの時代? ライブドアが「ブログ奨学金」発表 - 月明飛錫

    00:25 | 昨日、ライブドアが「ブログ奨学金」制度を発表した。ブロガーが、年間最大で300万円のサポートを受けられる制度だ。ついにくるべきものがきたな、というのが私の感想だ。というのは、明治時代の新興メディアだった新聞について調べたり、最近のアメリカでのネットメディアの動きなどを見たりしていると、ネット上で意見を発信する行為に対して、何か経済的な援助をするような仕組みが出てきていいのではないかと思っていたからだ。ちょっと唐突に聞こえるかもしれないので、以下順を追って説明したい。 1.明治の新聞1)投書家を優遇明治時代に新興メディアとしてスタートした新聞は、熱心な読者(投書家)からの投書が、紙面の多くを占めていた。(こちらを参照)そして、投書家は、新聞社から投稿料を受け取っていた。常連投書家になると、明治8、9年の時点で、1ケ月4円とか、10円の収入を投書から得ることもあった。明治8年の

  • 明治の新聞(24)〜大阪商人の生んだ『朝日新聞』の躍進 - 月明飛錫

    明治の新聞 | 00:17 | 日露戦争直前の1902年(明治36年)の東京、大阪の1日の新聞発行部数の1位は『二六新報』、2位が『大阪朝日』、3位が『大阪毎日』、4位が『万朝報』となっている。*1しかし、『大阪朝日』は系列紙に『東京朝日』があるので、合計すると朝日グループが一位となる。 1位 二六新報 142,340部2位 大阪朝日 104,000部3位 大阪毎日 92,355部4位 万朝報  87,000部5位 報知新聞 83,395部――――――――――――  東京朝日 73,800部 今日は、大阪発祥の朝日グループを躍進させた要因と資金面について見ていきたい。 1.大阪商人の出資で誕生『大阪朝日』は、1879年(明治12年)1月25日に創刊された。創刊に当たっての資金は、大阪の醤油屋だった木村平八が出した。同紙は、持主が村山龍平、主幹が津田貞、実際の経営者は木村平八の長男・騰という

    zyesuta
    zyesuta 2010/05/26
    豊富な資金、広告主を大事に、斬新な宣伝を行い、当時の先端技術だった電信や輪転機の活用を積極的にすすめて成功。赤字になると人員整理も断行。
  • 明治の新聞(20)〜記者クラブの特権化 - 月明飛錫

    明治の新聞 | 00:44 | 前回見たように、記者クラブは、今と違って、情報開示の義務といった考えのなかった明治時代に、情報を公開させるための記者側の働きと、勉強会として、自主的に形成されていった。しかし、記者クラブが普及しはじめると、情報を提供する側の政府も、これを積極的に活用するようになり、記者クラブは、特権化していった。今日はこの動きを見ていきたい。 1.記者クラブの取り込み 外務省担当記者の集まりである「霞倶楽部」では、日露戦争時には、政府高官が海外電報を取りまとめて発表したり、週に2回、書記官がクラブ員の質問に答えるようになった。時には、記者のための勉強会が開催され、政府側が解釈を伝えることもあった。 記者の自主的な組織が、当局の情報操作に利用されるようになっていった例である。 そして、第二次桂内閣のときには、政府は、これらの団体に対して、イス、机のある比較的広い部屋を無料で提

  • 明治の新聞(19)〜記者クラブの誕生 - 月明飛錫

    00:34 | 現代の日のマスメディアは、記者クラブからの情報提供に一方的に依存していることによる弊害や閉鎖性が指摘されているが、この傾向は明治時代にすでに指摘されていた。 そこで、今回と次回の2回にわけて、明治時代の記者クラブの発生と形成過程および問題点について見ていきたい。 1.「新聞記者去勢術」 まずはじめに、1910年(明治44年)の雑誌に掲載された、記者クラブへの批判記事を紹介しよう。 「・・・其省に隷属せる記者団に対し、一斉に同じ種を供給す。抜け駆けの功名は全く不可能となれるなり。故に該会若しくは該倶楽部に名前を載せ、紋日物日に顔出しさへして居れば、馬鹿でも阿呆でも腕利機敏な記者と同じ種を取り得るなり。現に其の受け持ちの記者が都合で社を欠勤の場合にても社にては更に不便を感ぜず、通信にて立派に夫れだけの記事を載せ得る事となれり。・・・(中略)・・・どの新聞見ても記事は同じとあり

  • 明治の新聞(15)〜新聞記者から役人へ - 月明飛錫

    明治の新聞 | 23:01 | ポイント:自由民権期に政府的を批判した新聞に対して、政府は弾圧するだけでなく、内閣機密金を与えたり、記者に役人ポストを与えたりするなど、新聞懐柔策につとめた。 新聞の情報伝達力に着目した明治政府や当時の有力政治家は、新聞社および新聞記者にたいして、さまざまな働きかけを行った。 1.新聞経営への介入 明治4年5月、明治維新の立役者だった木戸孝允は、明治政府の施策の徹底と人心の啓発を目指して、『新聞雑誌』を発行させた。この新聞は、明治8年1月に『あけぼの』、同年6月には『東京曙新聞』となり、木戸が政府を離れてからは、政府を批判する民権派新聞となった。 また日郵便制度の基礎を確立した前島密は、新聞の発展を助けるために、1871年(明治4年)12月に新聞雑誌の低料送達の道を開いた。 その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に『郵便報知新聞』(のちの『報

    zyesuta
    zyesuta 2010/05/02
    明治政府は国内の新聞はもとより、ロイターにも資金を提供して懐柔をはかった
  • 得たものと失ったもの - 月明飛錫

  • 明治の新聞(14)〜「社会の木鐸」と「羽織ゴロ」 - 月明飛錫

    明治の新聞 | 22:33 | 当ブログの「明治の新聞」シリーズでは、これまで新聞と読者の関係および内容の変遷に焦点をあててきたが、今日から4回くらいに分けて、新聞記者とその周辺について見ていきたい。 明治の新聞記者を指す、「社会の木鐸」と「羽織ゴロ」という2つの言葉がある。 「社会の木鐸」とは、世に警鐘を鳴らし、社会を正しい方向に導くという意味。一方、「羽織ゴロ」は、立派な身なりをして、事件・事故をかぎつけては金品を巻き上げるゴロツキという意味。 このように、全く正反対の言葉を使われた新聞記者とは、どういった存在だったのだろうか。 1.社会の木鐸 もともと「木鐸」とは、「中国で法令などを人民に示すときに鳴らした鈴(舌の部分が木製)」を指す。『論語』の中に、諸国遊説を続ける孔子一行に、国境の村の役人が、「乱れた世を導くように、天は師を木鐸として下されたのです」、とねぎらったというエピソード

    zyesuta
    zyesuta 2010/04/30
    インテリヤクザと木鐸
  • 明治の新聞(13)〜社会が新聞を必要としていた時代 - 月明飛錫

    明治の新聞 | 22:33 | ポイント:明治時代の日は、西洋からの新たな知の導入により新たなメディアである新聞を必要とした。また当時は、「先進国に追いつき、追い越せ」という大きな物語を、国民が共有できていた。 今日は、日英の新聞の違いを通じて、日の新聞が、他の先進国の新聞よりも一回り大きなマスメディアとして成立した背景について考えたい。 1.日の新聞の内容の変遷 これまで7回に分けて、明治の新聞の内容の変遷を見てきたのだけれど、ここでそれを簡単に振り返ってみたい。 (1)まず、海外の新聞の翻訳・編集としてスタート   ↓(2)旧幕臣が新聞で政府攻撃、新聞弾圧   ↓(3)国民の知識を啓蒙する新聞が歓迎される   ↓(4)政論新聞(民権派新聞 VS 官憲派新聞)の全盛期   ↓(5)庶民向け新聞登場 三面記事や連載小説が人気に   ↓(6)大新聞と小新聞が接近、「不偏不党」の新聞登場

    zyesuta
    zyesuta 2010/04/26
    これまでのまとめ。
  • 明治の新聞(12)〜番外編:イギリスの新聞 - 月明飛錫

    00:27 | ポイント:イギリスの新聞は、国王や教会を相手に闘い、「新聞の自由」を獲得していった。イギリスの新聞は、現在でも高級紙と大衆紙に分かれている点が、日と大きく違う。 これまで日の明治時代に現れた新聞についてみてきたが、今日はイギリスの新聞の歴史について簡単に書きたい。イギリスは、言論の自由や近代ジャーナリズムの成立に大きな役割を果たした新聞史上、重要な国だからである。 1.歴史15世紀半ばに、活版印刷の発明者とされるグーテンベルクが聖書を印刷してから、ヨーロッパでは大量の印刷物が普及するようになった。 16世紀には、ドイツで、ニュースを記述したビラやパンフレット形式の印刷物である「フルークブラット」が出版された。「フルークブラット」とは、飛ぶ紙片という意味。当時の感覚だと、飛ぶように情報が広まっていったのだろう。内容は、天変地異や戦争、殺人事件、外交事件など。彗星の出現や人

    zyesuta
    zyesuta 2010/04/23
    英国は大衆紙と高級紙がわかれ、高級紙は五十万とか十万部とか
  • 明治の新聞⑨〜文明開化と庶民向け新聞 - 月明飛錫

    zyesuta
    zyesuta 2010/04/15
    インテリ向け大新聞と、大衆向け小新聞。後者は分かりやすい時事、芸能、ライフハック、投書、連載小説。現代には小新聞が足りない。
  • 明治の新聞⑧〜政論新聞 - 月明飛錫

    雑記 | 00:18 | ポイント:明治政府と新聞の蜜月は、長くは続かず、新聞は政府の批判をはじめた。そして、国会を早く開設すべきだと主張する民権派新聞と、政府の立場に同調した官憲派新聞が対立し、論争を繰り広げた。一方政府は、自由民権論を論じる新聞を危険視し、弾圧していった。こうした中で、「不偏不党」を掲げる報道新聞が出てくるようになった。 1.内部リーク 明治政府と新聞の蜜月は、長くは続かなかった。新聞がだんだんと政府を批判しはじめたのだ。 1873年(明治6年)に、井上馨が、辞表と共に出した財政改革意見書(機密書類)が、新聞『日新真事誌』に掲載された。これにより、「歳入が4000万円しかないのに、負債が1億4000万円に達し、償却のめどはまったく立っていない」という明治政府の危機的状況が白日の下にさらされた。 国の信用にかかわる秘密の漏洩にあわてた政府は、すぐに大隈重信の名前で大蔵省か

    zyesuta
    zyesuta 2010/04/13
    誹謗律はあいまいな法で乱用された
  • 明治の新聞⑥〜言論弾圧第1号 - 月明飛錫

  • 明治の新聞⑤〜新聞はじめて物語 - 月明飛錫

    雑記 | 00:09 | ポイント:日の新聞のルーツは、江戸時代からあった「瓦版」と、幕末に西洋から新しく入ってきた「新聞」であった。初めて日語で発行された「バタヒヤ新聞」は、オランダ政府の機関紙を幕府の役人が翻訳・編集したもので、原から4ヶ月遅れて発行された。 これまで「明治の新聞」シリーズでは、明治の新聞を読者との関係の観点から見てきたのだが、今日から3回くらいにわけて、新聞の内容がどのように変わっていったかについて書いてみたい。今日は、日格的な新聞が誕生する前、はじめて新聞があらわれたときのことについて。 1.日の新聞のルーツ 日の新聞のルーツをたどると、江戸時代からあった「瓦版」と、外国から新しく入ってきた「新聞」の2つにたどりつく。 江戸時代の瓦版は、心中や仇討ち、天災、風刺など、巷で話題になる事柄を広く取り上げた。黒船来航というニュースは、瓦版を通じて、庶民に知

  • 明治の新聞④〜教育の普及と新聞読者層の変化 - 月明飛錫

    雑記 | 22:02 | ポイント:明治の初期においては、新聞読者は役人、教員など一部の知識人が主流だった。かれらは庶民に新聞を読み聞かせ、解説する役割をはたすこともあった。明治後期に入ると、教育の普及もあって、会社員、銀行員、学生など新たな知識人はもちろん、車夫なども新聞を読むようになった。 今日は、明治の新聞がどのような人々に読まれたのかについて書きたい。明治時代は、明治維新が始まってすぐのころと、文明開化を進め、国民のリテラシーが向上してきた後期とでは、かなり違うので、この2つの時期に分けて、みていくことにする。 1.明治時代初期 最初に、明治5年の笑い話のようなエピソードを紹介したい。 「日新真事報」という新聞の創刊者ブラックが、東京の大きな商店に新聞を年間購読しないかと勧誘したときのこと。 そこの主人は、たまたま買ってあった新聞を1部とりだして、こういった。「ここに1部あるのに、