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cognitive_dissonanceに関するa1otのブックマーク (1)

  • 「美しいもの」を誰憚らず「美しい」と言える社会へ

    エピソード1:あれは確か1980年代の最初の頃だったでしょうか。 当時、僕は小学校の高学年で、隣に座っていたクラス一の美少女の髪の毛をハサミで切ることに、言葉では説明できない不思議な快感を覚えていました。今から思えばそのころから奇麗な女の子を苛めるのが好きだったんだしょうか。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、たまプラーザのイトーヨーカドーの前で見かけた、いすゞの、それもただのフォードアセダンの美しさに釘付けになったことがあります。 エピソード2:時を経て、それは1980年代の後半ごろのことだったでしょうか。横浜の私立高校に通っていた僕は、校舎の屋上でタバコやら何やらいろいろなモノを煙にして吸うと、違う意味でアタマが冴え、学校の教師が教室でほざいていることが嘘ばかりだったんだということに気づく知性を獲得しつつありました。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、毎日昼休みに実施されていた

    a1ot
    a1ot 2017/09/20
    “誰もが納得していいね、と言われる様なわかりやすい文脈がないと肯定の態度を示せない、ということであれば、集団のなかに認知的不協和は生まれず、意思決定のクオリティは高まりません”
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