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戦争犯罪に関するarama000のブックマーク (10)

  • 旧日本軍の偽札用紙見つかる 民間巻き込んだ製造裏付け:朝日新聞デジタル

    静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。 資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。 記されてい

    旧日本軍の偽札用紙見つかる 民間巻き込んだ製造裏付け:朝日新聞デジタル
  • 慰安婦隠蔽疑い 所蔵資料で強制性補強を - 琉球新報デジタル

    戦時中の最たる人権侵害である旧日軍の従軍慰安婦問題で、軍の組織的関与を示す新たな事実が明るみに出た。太平洋戦争中にインドネシアで海軍兵曹長だった男性が、現地での女性の強制連行と隠蔽(いんぺい)工作を証言していた。 1962年に法務省が実施した戦争犯罪に問われた元軍人への聞き取りに対し、元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約70人を連れてきた」「他にも約200人を部隊の命で連れ込んだ」と、供述していた。 関東学院大の林博史教授の研究室が国立公文書館の保管資料を見つけた。さらに、元兵曹長は、強制売春が戦争犯罪に問われることを「最も恐れた」と告白し、「軍需部などに強硬談判して約70万円をもらい、各村長を通し住民の懐柔工作に使った」と、隠蔽の生々しい実態を語っていた。 軍当局が大金をばらまいてまで現地住民に口止めを図った事実は、重大な戦犯行為に当たると認識していた証左であろう。 強制連行、売春

    慰安婦隠蔽疑い 所蔵資料で強制性補強を - 琉球新報デジタル
    arama000
    arama000 2014/03/26
    「今回の兵曹長の供述は、強制連行、兵士の性のはけ口となる行為の強要、隠蔽工作がセットになっている点で重要だ。軍の組織的関与を十分に裏付けている」
  • 嫌韓バカの手口と虐殺事件の記録 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    今さら珍しくもありませんが、嫌韓バカが韓国を貶める手口を一つ紹介。 某まとめサイトの記述。 1: 名無しさん 2014/03/06(木)02:49:17 ID:??? ※ID非表示スレ 南中部沿岸地方ビンディン省人民委員会および同省タイソン郡人民委員会は26日、「ゴダイの虐殺」慰霊祭を開催した。この慰霊祭は毎年、虐殺が起きた2月26日に行われているもの。 「ゴダイの虐殺」は、1966年2月23日から26日にかけて、ビンディン省タイソン郡タイビン村ゴザイ(英語読みではゴダイ)集落で発生した韓国陸軍によるベトナム住民虐殺事件。4日間で計1004人の住民が殺され、特に26日にはゴザイ集落の住民380人余りが僅か1時間のうちに1人残らず虐殺された。 慰霊祭に訪れた地元の人々は、「この事件を風化させず、戦争の悲惨さを後世に伝えていかなければならない」と語った。 http://www.tokuteis

    嫌韓バカの手口と虐殺事件の記録 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    arama000
    arama000 2014/03/09
    ネトウヨは出来事を都合のいいように使っているだけ。
  • 21日放送「報道特集」、「日中戦争 衝撃写真が語る“軍事作戦”」 - Apeman’s diary

    昨日のエントリで告知した番組、録画しておいたのを見ました。(23日の午後11時からCSで再放送されます。) http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130814/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130921/p1 問題の写真については、東京都写真美術館の専門調査員を登場させて、信憑性について証言させています。引き延ばし器を使わずにフィルムと印画紙を重ねて焼く「密着焼き」、いわゆるベタ焼きという方法でプリントされたと推定される写真なので、合成その他の作為の余地はまずない、という趣旨の発言でした。なお、ナレーションが「『密着焼き』という手法で現像されている」としていたのは間違いです。「現像」ではなく「焼き付け」の手法ですから。また、写真の主が家族に送った軍事郵便によれば、フィルムの方は処分され、僅かなプリントしか残らなかったとのことです

    21日放送「報道特集」、「日中戦争 衝撃写真が語る“軍事作戦”」 - Apeman’s diary
  • 報道特集:旧日本軍の実相語る写真発見「日中戦争 衝撃の46枚」放送- 毎日jp(毎日新聞)

    arama000
    arama000 2013/09/21
    本日、夕方5時半より。関西はMBS.。
  • 朝日新聞デジタル:敗戦直後、機密書類の焼却指示 宮内省、日時と場所指定 - 社会

    旧宮内省が機密書類の焼却を指示した1945年8月18日付文書。22日までに焼くよう指示している  【佐藤純】敗戦直後、当時の宮内省が機密書類の焼却を省内に指示した文書が、宮内庁の宮内公文書館に残っていた。朝日新聞記者が閲覧して見つけ、承諾を得て撮影した。陸海軍が戦争犯罪の追及を恐れて機密書類を焼いたことは知られているが、政府機関の中枢が焼却を指示した公文書が見つかるのは極めて珍しい。  1945年8月18日付の「機密書類ノ焼却ノ件」と題する文書で、宮内省の大臣官房から省内の各部局長あてに出された。「侍従職 昭和二十年重要雑録」という簿冊にとじられていた。  各部局が保管する文書類や、陸海軍などから同省に送られてきた文書類のうち、「機密ニ属シ破棄相当ト認ムベキモノ」を「原簿ト共ニ之ノ際全部焼却スルコト」と指示し、8月18〜22日の午前9時〜午後3時に「宮城内 三重櫓(やぐら)下(自動車課前 

  • 捕虜殺害の連続写真、発見 - Apeman’s diary

    今日8月14日の毎日新聞(大阪社)朝刊、社会面に「「抗日掃討」の記録写真 上海近郊旧日軍が撮影 46枚発見」という見出しの記事が掲載されています。「土匪の掃討」として上海近郊の村、銭家草を襲撃した際のもようを軍の写真班が撮影したものを、写真班の助手を務めていたらしい兵士が軍事郵便で親族の家に送ったもの、とのこと。旧日軍の戦争犯罪に関する記述を含む手紙などが軍の検閲をすり抜けて届くケースがあったことはこれまでも知られていましたが、これもそうしたケースだったようです。 都内の小物市場で売られていたというこの写真ですが、毎日新聞では同じ兵士が送った手紙(国立歴史民俗博物館に収蔵)、兵士が所属していた中隊の中隊長がこの兵士の家族に送ったハガキ(やはり歴博に収蔵)を調査して写真の裏付けをとり、さらに上海特派員が現地調査して祈念碑の存在を確認し、「銭草村惨案」が現地で語り継がれていたことを確認し

    捕虜殺害の連続写真、発見 - Apeman’s diary
    arama000
    arama000 2013/08/15
    Apemanさんとこで前に「動画を見せろ」という底なしがいたな・・。
  • 『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」』 - Apeman’s diary

    一ノ瀬俊也、『米軍が恐れた「卑怯な日軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』、文藝春秋 ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』などが分析対象とした「戦争下の日米が相互に抱いたイメージとその作られ方」という問題に、「戦法(マニュアル)」という観点から取り組んだもの、というのが著者自身による書の狙いの説明。米軍の対日戦マニュアルにみる旧日軍の対米戦法、旧日軍の対中国戦マニュアルにみる日中戦争の戦訓、対米戦のマニュアルが作成される過程やそこにみる旧軍軍人たちの意識……などが扱われている。 「日米が相互に抱いたイメージ」が主題でありながら日中戦争にも一章が割かれているのは、後に日軍が米軍相手にとる戦術の原型が日中戦争における中国軍のそれにある(ように思われる)から、である。ここからわかるのは、軍事的に劣勢にある軍がなお抵抗を続けようと思えば似たような「弱者としての戦法」を選ばざるを得ないという「

    『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」』 - Apeman’s diary
  • 1937年12月の蕪湖における日本軍の暴行に関する記録 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    日中戦争における日軍の虐殺・暴行というと、南京事件しかないように言う人もいますので*1、南京以外の状況について参考までに。 引用は古典的ですがティンパリーの「外国人の見た日軍の暴行」からです。これには南京以外の華中や華北のことについても言及されていますので、当時の状況を知る上で参考になると思います。 蕪湖は南京の南西に位置し、南京からは長江の上流に位置しますが、南京侵攻にあたって日軍は南方から半包囲する形で進撃したため蕪湖は南京よりも早く日軍に占領されています。 「外国人の見た日軍の暴行」ティンバーリイ、評伝社 (P93-95) 蕪湖占領の日軍は十二月十日以来いよいよその数を増し、鉄道や、江岸や、太古公司碼頭等の付近に砲兵陣地を構築した。日兵は逃げ遅れた少数の中国兵に対して残酷に取り扱い、また気に入らぬ市民に対しても暴行を働いた。いかなる民船、あるいは艀舟に対しても機銃掃射を

    1937年12月の蕪湖における日本軍の暴行に関する記録 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • マニラ戦とベイビューホテル事件

    関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月 マニラ戦とベイビューホテル事件 林 博史 日軍による集団強かん事件について、調べたものです。地図は省略しました。 2012.4.15記 はじめに マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦である。この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。日米両軍の戦闘行為、特に米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、フィリピンにおいてこのマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日軍の数多くの残虐行為である。キリスト教の聖職者を含めアメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシアドイツ、イタリアなどの市民、そしてフィリピン市民が組織的意図的に虐殺される事件がマニラ市内の各所で頻発した。男たちだけでなく女

    arama000
    arama000 2012/08/26
    旧日本軍による集団強かん事件。
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