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戦争と歴史に関するhz5599のブックマーク (10)

  • 第二次世界大戦中に全米の新聞や雑誌は誤情報をチェックする「デマクリニック」を展開してばかばかしいデマと戦った

    SNSが普及した現代において、フェイクニュースや誤情報はひとたび公開されると一瞬に広がってしまい、一定数の人がそういった偽の情報に踊らされてしまうことがよくわります。第二次世界大戦時のアメリカでも、多くのデマが出回ったため、これを取り締まるための「デマクリニック(rumor clinics)」という取り組みが存在したと、科学や歴史に関するブログ・Smithsonian Magazineが解説しています。 World War II 'Rumor Clinics' Helped America Battle Wild Gossip | History | Smithsonian Magazine https://www.smithsonianmag.com/history/world-war-ii-rumor-clinics-helped-america-battle-wild-gossip-

    第二次世界大戦中に全米の新聞や雑誌は誤情報をチェックする「デマクリニック」を展開してばかばかしいデマと戦った
  • 生まれ故郷 立川へ「一式双発高等練習機」旧陸軍の万能機 80年間どこにあった? | 乗りものニュース

    第2次大戦中の旧軍機、一式双発高等練習機が2021年に引き続き、2022年10月にも立川で公開されました。同機は、航空遺産にも認定されるほど貴重な機体だとか。どこがレアなのか、そして立川に来る前はどこにあったのか振り返ります。 生誕の地で公開された「激レア機」 2022年10月末、第2次世界大戦中の旧日陸軍機である一式双発高等練習機が、昨年2021年11月に続いて都下、立川市で公開されました。このときは実に80年ぶりの里帰りといえるものでした。 この機体、日航空協会から「重要航空遺産」の認定も受けた貴重なものです。一体どの部分がレアなのか、立川に帰ってきた経緯と合わせて見てみましょう。 拡大画像 2022年10月末に立飛リアルエステートで公開された一式双発高等練習機(キ54)。外枠を付けるのではなく、機首内部にフレームを入れて補強する形のため、見やすかった(吉川和篤撮影)。 一式双発高

    生まれ故郷 立川へ「一式双発高等練習機」旧陸軍の万能機 80年間どこにあった? | 乗りものニュース
  • じつは侮れない「戦時中の日本の技術」…いまはもう作れない「意外なモノ」(神立 尚紀) @moneygendai

    昭和20(1945)年、戦後すぐの頃の新聞記事を見ると、それまで検閲のため発表できなかった新兵器、秘密兵器や軍用機に関する暴露記事が多く見られる。その多くは、「じつは日にはこんなすぐれた兵器があった」「敗けたのは技術ではない、物量で負けたのだ」といった、いわば負け惜しみがにじみ出るような論調が多いが、「新鋭戦闘機『震電』」や「世界一の戦艦『大和』」「世界に類を見ない潜水空母(伊号第四百型潜水艦)」のような派手なものではなく、もっと身近な小さなところにも他国よりも優れたモノや技術はあった。たとえば、当時の飛行機パイロットが使用していた航空眼鏡(ゴーグル)である。 航空眼鏡(ゴーグル)と飛行帽(航空帽) 今回は少しマニアックな話をしようと思う。 映画で太平洋戦争中の各国の飛行機搭乗員の写真を見ると、飛行帽、ゴーグルに飛行服、ライフジャケット、落下傘バンド、半長、手袋という、似たり寄った

    じつは侮れない「戦時中の日本の技術」…いまはもう作れない「意外なモノ」(神立 尚紀) @moneygendai
  • バルチック艦隊を見張り続けた日本船って? 大戦果もたらした情報戦と「無線のリレー」 | 乗りものニュース

    海戦史上まれな「パーフェクト・ゲーム」となり、日露戦争の勝利を決定づけた日海海戦。その勝利の背景には、当時の新兵器、三六式無線電信機と精緻に組み立てられた情報システムの存在がありました。 「バルチック艦隊を発見して完璧に撃破せよ」当初からの重責 1904(明治37)年から翌1905(明治38)年の間、日と帝政ロシアが戦火を交えた日露戦争において、旧日海軍は迫り来るロシアのバルチック艦隊(第2、第3太平洋艦隊)に対し、外務省とイギリスの協力を得て、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにまたがる情報網を構築してその動向を追っていました。 そうした戦略レベルでの情報網により、バルチック艦隊が最終的には対馬海峡を突破することは予測できたものの、それより下の次元となる作戦レベルにおいて、同艦隊が対馬海峡のどこをいつ通過するのかも予測する必要があり、その部分で旧日海軍は最後まで頭を悩ませ続けました。

    バルチック艦隊を見張り続けた日本船って? 大戦果もたらした情報戦と「無線のリレー」 | 乗りものニュース
  • 戦艦「大和」&軽巡「矢矧」の最期に立会 米海軍飛行艇PBM「マリナー」は何をしていたのか | 乗りものニュース

    が造った世界最大の戦艦「大和」。同艦は太平洋戦争末期、鹿児島県沖で沈みましたが、その一部始終の「目撃者」となったのが2機のアメリカ軍飛行艇でした。戦艦「大和」の最期を見届けたこの飛行艇の概要に迫ります。 戦艦「大和」沈没の目撃者 旧日海軍が太平洋戦争末期に行った戦艦「大和」の海上特攻作戦は、ほぼ勝算が見込めないものでした。それでも、戦艦「大和」を旗艦とする旧海軍第1遊撃部隊の軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦8隻は、命令に従い目的地の沖縄へと向かい、1945(昭和20)年4月7日、鹿児島県の坊ノ岬沖でアメリカ艦上機群の集中攻撃を受け、「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦4隻が奮戦むなしく戦没しました。 この時、日の第1遊撃部隊とアメリカ空母搭載機の戦いを離れた場所から終始、監視し続けていた2機のアメリカ機がありました。マーチンPBM「マリナー」飛行艇です。 旧日海軍の誇りでもあった戦艦「

    戦艦「大和」&軽巡「矢矧」の最期に立会 米海軍飛行艇PBM「マリナー」は何をしていたのか | 乗りものニュース
  • 歴史から学べる「戦争で弱者が強者に勝つための方法論」とは?

    ウクライナロシア戦争においては、ウクライナ側の戦力が劣っていると言われています。歴史を見渡してみると、そんな戦力に差がある戦争において弱者側が勝つ例がいくつも見つかりますが、その弱者側が勝つ時の成功パターンはどんなものなのかについて、ノースカロライナ州立大学の歴史学部で教えているブレット・デヴェローさんが解説しています。 Collections: How the Weak Can Win – A Primer on Protracted War – A Collection of Unmitigated Pedantry https://acoup.blog/2022/03/03/collections-how-the-weak-can-win-a-primer-on-protracted-war/ ・目次 ◆1:国共内戦の場合 ◆2:ベトナム戦争の場合 ◆3:アフガニスタン紛争の場合

    歴史から学べる「戦争で弱者が強者に勝つための方法論」とは?
  • 1本の人骨から明らかとなった「人類の流れを変えた4000人規模の大戦争」とは?

    ドイツ北東に流れるトレンゼ川流域で、数キロ四方にわたる大規模な遺跡が1996年に発掘されました。この遺跡は紀元前1200年頃にあった大きな戦争の跡だとされています。この3000年以上前の戦場から何がわかったのかを、科学雑誌のScienceがまとめています。 Slaughter at the bridge: Uncovering a colossal Bronze Age battle | Science | AAAS https://www.sciencemag.org/news/2016/03/slaughter-bridge-uncovering-colossal-bronze-age-battle トレンゼ川流域はヨーロッパ最古の戦場跡として知られており、青銅製の武器のほかに、木材や火打ち石、矢尻、そして大量の遺骨が発掘されました。この流域で戦いがあったのはおよそ3200年前で、石に

    1本の人骨から明らかとなった「人類の流れを変えた4000人規模の大戦争」とは?
  • 第一次世界大戦中に活躍したイギリスの軍鳩は二階建てのダブルデッカーバスを拠点としていた|カラパイア

    第一次世界大戦(1914~1918)は、非常に多くの動物たちが動員された戦争だったようだ(関連記事)。 騎兵隊用、荷役用として何百万頭というウマが投入されたほか、ラバやイヌ、ラクダなども駆り出された。 そして、ハトも軍鳩としても重要な役目を担っていた。 その帰巣能を活かして伝書鳩として使われ、大切な伝令を運ぶ翼のある兵士となったのだ。 そんな貴重な財産だったハトたちなわけだが、イギリス軍の軍鳩の場合にはどんなところで飼育されていたんだろう。 見るからに鳩舎なところだと敵から攻撃されそうだけれど・・・? イギリス軍がハトのために用意したはとバス 第一次世界大戦中、イギリス軍は10万羽以上の軍鳩を飼育していたそうだ。 ハトたちが住んでいたのは、貨物自動車の上に積まれた鳩舎だったり、使われていないダブルデッカー(ロンドンの二階建てバス)だったりした。まさに「はとバス」ってやつだね。 イギリス軍

    第一次世界大戦中に活躍したイギリスの軍鳩は二階建てのダブルデッカーバスを拠点としていた|カラパイア
  • 北ベトナム側から撮影された、ベトナム戦争時の写真

    インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生したベトナム戦争は20年にも及ぶ長期の戦いとなった。 この戦争は、アメリカを盟主とする資主義陣営(南)と、ソ連(現ロシア)を盟主とする共産主義陣営(北)との対立を背景とした代理戦争でもあったとも言われている。 ベトナム戦争を記録した写真は主に南側のものが多かったが、これらの写真は、ベトナム通信社と提携したアマチュア写真家とフォトジャーナリストが撮影したもので、国民解放戦線と北ベトナム軍が含まれている希少なものだ。 1. ナムカンフォレスト(Nam Can forest)―1972年 この画像を大きなサイズで見るimage credit: dyt. 2. タインチー(Thanh Tri)でのトレーニング―1965年9月 この画像を大きなサイズで見るimage credit: dyt. 3. 爆撃されたハム・ロング橋(Ham Rong Bridg

    北ベトナム側から撮影された、ベトナム戦争時の写真
  • 第二次世界大戦中に活躍したロシアのスナイパー女性兵士たちの写真をカラー化|カラパイア

    この画像を大きなサイズで見る 第二次世界大戦(1939-1945)が世界規模の戦いに拡大し始めた1941年、ドイツ軍がソ連に侵攻した。ソ連では国民はすべて奴隷化されるという噂が流れた。 これに対し、母国の危機を救うため2,000人を超えるロシア人女性が狙撃兵として軍に入隊。その中でも類まれな才能を発揮し、前線で優秀なスナイパーとして名を馳せドイツ兵を恐怖に陥れた兵たちがいた。中には、309人ものナチスを射殺して、レディ・デスと呼ばれて恐れられた女性もいる。 そんな彼女たちの姿が、ロシアのデジタルアーティスト、オルガ・シルニナによってカラー写真としてよみがえった。 ナチス兵も恐れた伝説の女性スナイパー 女性狙撃兵たちは残忍で過酷な前線に立ち、ドイツ兵を恐怖に陥れた。中でも彼らが最も恐れていたのはリュドミラ・パヴリチェンコだった。 1.リュドミラ・パヴリチェンコ この画像を大きなサイズで見るi

    第二次世界大戦中に活躍したロシアのスナイパー女性兵士たちの写真をカラー化|カラパイア
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