タグ

ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (7)

  • 釜ヶ崎の暴動から受けとる(聞きとる)べきもの - Arisanのノート

    さきほど生田武志さんのホームページを見ていたら、以下の記述があった。 http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm 今日は西成署に花火を打ち込む若者もかなりいたようだ。上で「野宿者に投げていた石をこの2〜3日だけ機動隊に投げていただけかもしれない」と書いているが、それを見ていると、よくある野宿者への花火の打ち込み襲撃を思い出さざるをえなかった。 つまり、共闘か襲撃かは紙一重でありうる。だからこそ、「彼らはおもしろがって便乗しているだけだ」と切り捨てるのではなく、ビラであれ何であれ語りかけるべきなのだろう。 生田さんはもちろん、『<野宿者襲撃>論』の著者として知られているが、日常的に頻発しているという野宿者に対する若者たちの「襲撃」は、今回のような暴動以上に、報道され問題にされることが少ない。 じつは、先日このブログに案内を載せた東京蒲田での

    釜ヶ崎の暴動から受けとる(聞きとる)べきもの - Arisanのノート
  • 杉田俊介著『無能力批評』への批判 - Arisanのノート

    無能力批評 労働と生存のエチカ [ 杉田俊介 ] ジャンル: ・雑誌・コミック > 人文・地歴・哲学・社会 > 社会 > 労働ショップ: 楽天ブックス価格: 2,376円 この、ぼくにとっても社会にとっても際立って重要と思えるのなかで著者の杉田さんは、たとえば『どんな運動にものってこない人の身体(=無能さ)を、同時に、考えること』(p83)が運動にとって大事ではないか、というふうに書く。杉田さんは、大きな「正義」なり「肯定」(ドゥルーズ)ということから零れ落ちるような、個々(自己)のなかの卑小な弱い部分を手放さず向き合うこと、言わば「ルサンチマンを徹底する」ことこそ、真の「愛」や「連帯」や「平等」を実現する道筋であると考えているようだ。 ルサンチマンを否定し、「弱者」を排撃するにいたったニーチェの反動性(弱さの帰結)を不問にするのでも否定するのでもなく、むしろその「弱さ」をこそ徹底させ

    klov
    klov 2008/06/08
  • 『優生学と人間社会』を読んで - Arisanのノート

    優生学と人間社会 (講談社現代新書) 作者: 米昌平,ぬで島次郎,松原洋子,市野川容孝出版社/メーカー: 講談社発売日: 2000/07/19メディア: 新書購入: 2人 クリック: 60回この商品を含むブログ (46件) を見る 優生学という言葉をはじめて意識して聞いたのは、数年前のことだと思う。 もちろんこの語自体はもとから知ってはいたが、「戦前のこと」であり、おぞましいことだが過去の話であると思っていて、それが現代に復活しつつあると聞いて(実情は、それどころではないわけだが)、奇異の感を抱いたことを覚えている。 このを読むと、「優生学」の過去と現在についてのそうした思い込みは、まったく誤っていたことが分かる。戦後の日社会においても、ずっと「優生保護法」という名の法律が存在してきただけでなく、優生思想は、根的に否定されることのない考えであり続けてきた。 だが、そればかりではない

    『優生学と人間社会』を読んで - Arisanのノート
  • 「多文化共生」再考 - Arisanのノート

    引き続き、tu-taさんにトラックバックをいただいた記事から、『 藤岡さんの「多文化共生」社会論批判』というエントリーについて言及したい。 この『制裁論を超えて』(新評論)というは、まだ読めていないのだが、ここでtu-taさんが紹介しておられるそのの第一章、藤岡さんという方の文章の内容は、たいへん示唆に富むものだった。 とくにこの点。 1、多文化主義は「多文化共生」社会を築くという目標のために、「国」の成立に関わる侵略や、過去の重大な不正義を不問にする。 (多文化主義をうたうカナダもオーストラリアも欧州からの侵略者によって作られた国家だが、その侵略者が何の権利をもって、その地にいまも留まり続けるのかという根的な問いがある。アイヌや琉球の問題も同様。さらに多文化主義では国家の統一を破壊しないことが前提なので、先住民族の自決権の行使を極力抑え、その最高形態としての「独立」は認められない。

    「多文化共生」再考 - Arisanのノート
  • すり替えと温存 - Arisanのノート

    もう月が変わってしまったからなくなってるのかも知れないが、大阪の駅のホームなどで見かける、ポスターのこの標語が、どうも気になってた。 <しない させない 就職差別   働くのは私! 私自身を見てください> http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/12743.html ポスターでは、サブテーマであるという後半の部分の方が大きく印刷されてたと思う。 そのどこが気になったのか、ポスターの現物を目にした瞬間の違和感を、字面だけだとどうも思い出しづらいのだが、感じていたことは、素朴に次のようなことだったと思う。 差別の「理由」とされるいろいろな属性、上記の大阪府のサイトによると、ここではILOの条約に書かれた「人種、皮膚の色、性、宗教、政治上の意見、民族的出身又は社会的出身」ということが念頭に置かれてるようだが、そういったものによってでなく、その人「自身」を見て選べ、

    すり替えと温存 - Arisanのノート
  • アエラの記事「棄てられるがん患者」を読んで - Arisanのノート

    普段、雑誌というものをあまり読まないのだが、これは表題の見出しが電車の中吊り広告にあるのを見て、すぐに買った。 記事の内容は、病院死を減らして「在宅死」の割合を増やすことを推進するという厚生労働省の方針転換により、末期のがん患者など死を目前にした人たちが、家に戻ってからの地域での支援の体制の整っていないままに退院を余儀なくされることが多くなり、各地で悲惨な事例も起きているという現状を伝えるもの。 たとえば余命一ヶ月と告げられたがん患者が、病院から支援先のリストを渡されて自分で電話をかけて在宅ホスピスの担い手を探したという話とか、モルヒネと栄養の点滴の装置の説明を受けていなかった患者の(70代)が自宅で点滴中に機械のトラブルに対処できずパニックになった例とか、ともかく退院後の体制作りが整っていない現状で、病院から出て行かざるをえない状況になり、ひどい事態が多発していることが書かれている。

    アエラの記事「棄てられるがん患者」を読んで - Arisanのノート
    klov
    klov 2007/05/15
  • 貧者のゲーテッド・コミュニティ - Arisanのノート

    酒井隆史の『自由論』のなかに、「<セキュリティ>の上昇」という文章があって、そのなかでいわゆるゲーテッド・コミュニティの三つのタイプの区別が紹介されている(ブレイクリーとスナイダーという人たちによる)。 そのひとつは「ライフスタイル・ゲーテッド・コミュニティ」と呼ばれるもので、富裕な人たちを対象に、特定の趣味や年齢を共有する消費者向けにデザインされたコミュニティで、70年代から発展してきたもの。ふたつめは、「特権的ゲーテッド・コミュニティ」といって、通常ゲーテッド・コミュニティという言葉でイメージされるような、高度なセキュリティ機能をもった壁やフェンスによって周囲から隔てられた居住コミュニティである。 この両者の違いは、前者は後者ほど、外部の者の排除があからさまでなく、セキュリティということが前面に出ていないということだろうか。 ぼくがとくに印象的だったのは、三つめのタイプとしてあげられて

    貧者のゲーテッド・コミュニティ - Arisanのノート
  • 1